ミッショナリー・ポジション
11/01 アート散歩(10)写真の力、絵の力
11/02 ミッション伝道師たち(1)メイプルソープ
11/03 ミッション伝道師たち(2)missionary position宣教師の立ち位置
11/04 ミッション伝道師たち(3)SとM、定の立場
11/05 ミッション伝道師たち(4)LLサイズ
11/06 ミッション伝道師たち(5)Sサイズ
11/07 ミッション伝道師たち(6)グリナウェイ朕珍論
============
008/11/01
ぽかぽか春庭@アート散歩>この1年展覧会徘徊(10)写真の力、写真の美
大丸ギャラリー「『写真』とは何か・20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼 社会を見つめる眼」2008年4月3日(木)→21日(月)を、4月8日に見ました。
「写真」が生まれて150年になるのを記念したという写真展。(リンクは大阪梅田大丸のURL)
http://www.daimaru.co.jp/museum/schedule/umeda/20seiki_umeda_shosai.html
写真展のごあいさつより
『 写真が最も発展した20世紀、そしてそれらに連なる21世紀、この時代の写真史を形成した重要な写真家たちを取り上げます。彼らの作品やその根底にある表現思想を通じて、人間が事物に視線を向け視察し記録する行為、そして、さらに表現芸術の領域までに昇華された「写真」ー、その本質や意味、役割を探究することで、単に写真の歴史をご覧いただくことに留まらず、「写真」とは何か?を体感していただけることでしょう 』
20世紀は「写真の時代」でした。
写真は常に二つの面を持って訴えかけてくる。「写実、記録性」と「美」の二面。
写真のこの二つの面を対照しながら20世紀の写真を振り返る展覧会「20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼、社会を見つめる眼」
マンレイが写した若いマルセル・デュシャンと、アーヴィング・ペンが写した年老いたマルセルデュシャンの2枚を比べてみるのも面白かった。
報道写真、ロバート・キャパやユージン・スミスの、戦争や水俣の真実を切り取った写真、たとえば、キャパの有名な「スペイン内戦・倒れる共和国兵士」も、スミスの水俣病患者を移した写真も、報道ということを抜きにして見た場合、実に美しい。
美しい構図、映し出された人間の姿のなんと美しいことか。
スミスの『楽園へのあゆみ』。
写真集のタイトルになっている一枚だから、彼の代表作とされている写真だと思うけれど、初めて見ました。初めて見たのに、何度も見てきたような既視感がありました。
うつされているのは、西洋人の子供(と思ったのだけれど)なのに、自分自身が写されているような気になりました。
幼いふたりが、森のなかへ歩みいる瞬間の、光と影。森や川へ歩み入ろうとする、子供のころのわくわくした気分と、未知の世界へはいるおそれにも似た気持ちと、楽園から出てきてしまった年をとった自分の寂寥と、そんな思いのすべてを一枚の構図におさめてしまう、写真の力の大きさを知りました。
アメリカで過酷な労働条件における児童労働禁止運動のために大きな力となった写真集「ちいさな労働者」を残したルイス・ハイン。
「働く子供たち」を写した写真も、悲惨な労働に従事する子供たちを写しているのに、その子供たちはボロい服を着ているのに、美しい。
20世紀写真の巨匠たちの作品をながめて、写真のもつ「記録と美」の力の大きさにうたれました。
メイプルソープやマンレイの「美」はもちろんのこと、今回私にとって、「記録写真の美」について思うこと大きかった。
この写真展について言及されているブログに出品作品の何枚かが載っているのでリンク。
http://blog.goo.ne.jp/v_goo_kazu_san/e/0ae7075172164b42d7b4775acfdde1be
出品作家一覧(生年順)
ルイス・ハイン(1874~1940)
エドワード・ウエストン(1886~1958)
マン・レイ(1890~1976)
アンドレ・ケルテス(1894~1985)
ウイン・バロック(1902~1975)
アンセル・アダムス(1902~1984)
ロバート・キャパ(1913~1954)
W.ユージン・スミス(1918~1978)
アービング・ペン(1917~)
ヘルムート・ニュートン(1920~2004)
エルンスト・ハース(1921~1986)
アンディ・ウォーホル(1928~1987)
ウイリアム・クライン(1928~)
ロバート・メイプルソープ(1946~1989)
本日の徘徊ミソヒト
花芯深く蜜の味する誘惑のメイプルソープの花びらの色
<おわり>
2008/11/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(1)メイプルソープ
大丸ギャラリー「『写真』とは何か・20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼 社会を見つめる眼」で、もっとも印象的だった写真家。キャパやスミスなどの巨匠はもちろんですが、メイプルソープの写真美にうたれました。
大丸ギャラリーで開催された『20世紀の巨匠展』
花を大写しにしたメイプルソープの写真は、ほんとうにエロスが漂ってくる迫力。
どこの出版社が出していたのか忘れたが、裏ビデオならぬ裏写真集のひとつに、何人もの女陰を大写しにして並べたものもあったように記憶していますが、このメイプルソープの花ほどエロティックに見えるものはなかったろうと思わせる。
ウェブ友mackychanとの往復書簡「はるまき」で、やっと「メイプルソープ撮影の性器露出の写真はわいせつには当たらない」という判決が出た、というニュースをめぐって語り合いました。
メイプルソープ裁判、10年以上を費やして、ようやく出された結論です。
裁判官たちは、世の中の表現されているものの現実を知って、ようやくメイプルソープの写真うんぬんと言っている場合じゃないことに気づいたのかもしれません。
メイプルソープの芸術性の高い写真で性器が見えているとかいないとか論争している間に、たとえば、小学生向けの少女漫画雑誌における性交シーンの描写がどのようなことになっているのか、現実を知っているのやら知らないのやら。
私は、成人の性的傾向に関しては、自己責任と相手を傷つけないという合意のうえなら、どのような趣味嗜好があってもよいと考えています。しかし、子供にとっては事情がちがいます。
性行為が人間性にとってどのような意味を持つのかということを考えていない子供にとって、むやみな性描写は必要ない、と考えています。
子供に必要なのは、興味本位の性描写ではなく、きちんとした性教育です。
小学生への性教育について批判的な人もいますが、きちんとした性教育を受ける前に、小学生にゆがめられた性知識がどんどん入ってきているのが、現実です。
さて、「正しい性行為」なんてものがあるのでしょうか。
次回、世界の果てまで布教をして歩いた宣教師たちが、「ただしいやり方」と信じた方法についての笑い話です。
<つづく>
2008/11/03
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(2)missionary position宣教師の立ち位置
どんな奥地にも入り込んで、「正しい教え」を宣教する情熱を持っていたキリスト教宣教師のなかには、尊敬すべき人が多いけれど、それでもわたしは「たったひとつの正しいこと」を押しつけられたくはない。
私は心の中に宗教をもつ人を尊重するけれど、それでも自分が信者になることは無かった。究極のところでどの宗教も「自分の宗教が一番よい」と、主張する。私は、「唯一の真実」や「この宗教だけが最高」という考え方が性に合わないからだ。
あ、ここでの「性に合わない」というのは、「性格や考え方があわない」という意味であって、「性行為の相性がいい」って意味じゃなくて、、、って、説明いらないか。
私は、「唯一の正しい方法」や、「これだけが、真実」というのでなく、いいかげんでもいいので、「あれもこれも、お好みしだい」でいたい。
性的指向にしても正常位だけが「正しい体位」であるわけではない。
英語のスラングのひとつ「missionary positionミッショナリー・ポジション=宣教師の立ち位置」ということばがある。
後背位を「正しくない」と決めつけた宣教師たちが「ただひとつの正しいやり方」と宣教地の人に教えたので、「対面位=正常位」をmissionary positionと呼ぶようになった、という俗説があります。
後背位を目にした宣教師たちが、「これは、犬がつがう時のやり方ではないか。人間は神が決めた正しいやり方で行うべきだ」と教え込んだ。
ただし、神が作りたまひし「ほ乳類」のうち、人間と同じに、対面すなわち顔と顔を向かい合わせてコトに及ぶのは、少数派です。
霊長類のオランウータンがヒトと同じ正常位を用いる。これは樹上生活に適したやり方と解釈されている。人間の祖先が、猿の先祖から別れて樹上生活からアフリカ草原へ出てくるころ、オランウータンと同じポジションで行っていたのだろうと、推測しうる。
人間と同じ頃、樹上生活から草原に降りてきたと思われるボノボ(ピグミーチンパンジー)も、対面位。
ほ乳類のうち、水中生活を選んだ鯨とイルカも正常位。水中ではこのほうが、結合しやすいらしい。(私は水中にてコトに及んだことがないので、実証はしておらぬ)
あとは、ほとんどのほ乳類が後背位です。つまり、ほ乳類にとって、「普通」なのは、宣教師が「犬と同じだからよくない」と、言ったほうの、後背位であり、人間はオランウータンやボノボ、鯨といっしょに「フツーじゃないほう」を選んだ「変わり者」のやり方をしているのです。
大多数のほ乳類からみると、人間のやり方は「変態」です。
正常位のスラングmissionary positionが、宣教師の言葉に由来するというのが俗説にすぎないとしても、キリスト教や伝道師をおちょくるコトバとして、このミッショナリーポジションは、まさしくポジションを得ていると言える。
<つづく>
2008/11/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(3)SとM、定の立場
まあ、実生活においては、宣教師が何を「正しい行為」と考えようと、個人のお好みでよい。SでもMでも、LでもLLでも。
あ~、ここで言うSとMは、サイズの話でなくて、西洋の高名なる文学者のイニシャルです。
今回は、SさんとMさんのご紹介。
Sは、サドのイニシャル。
マルキ・ド・サド侯爵(Marquis de Sade 1740~1814)
本名ドナスィヤン・アルフォーンス・フランスワ・ド・サド (Donatien Alphonse Francois de Sade)フランス革命期の、作家。代表作は『悪徳の栄え』『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』
Mは、マゾッホのイニシャル。
レーオポルト・フォン・ザッハー・マゾッホ男爵(Leopold Ritter von Sacher Masoch, 1836~1895)
ウクライナ共和国のリヴィウ(マゾッホ誕生当時はオーストラリア・レンベルグ)生まれ。19世紀の小説家。代表作は『毛皮を着たヴィーナス』
このSさんとMさんは、なにが「正常・異端」でなにが「自由」なのかという論争において、西欧文化に大きな影響を与えたふたりと言えます。
現代日本社会では、「Sの女王」という扮装の「にしおかすみこ」が、鞭をふるいながらギャグをとばす芸風が、お笑いのひとつのスタイルと受け止められているほど、「S&M」が社会に認知されています。
「S」「女王様」の&検索で177万件のヒットがあり、「女王様とお呼びっ」と言えば、このセリフを口にしているのは、エリザベス二世でもベアトリクス女王でもなく、「Sの女王」のことばなのだ、ということは、高校生でも認識しています。
日本社会で、このSとMの関係がおおっぴらに新聞を騒がせたのは、1936(昭和11)年の阿部定事件が、その最大の事件でしょう。
二・二六事件の3ヶ月後に起きたこの事件は、連日の報道により全国民の注目のまととなり、戦争へ向かう世相の中の、唯一の「暗い世相を吹き飛ばす」話題となりました。
逮捕直後の阿部定の写真。すごいです。
美人の定がにっこり笑っているのはいいとして、彼女を逮捕して取り囲んでいる男たちが、全員白い歯を見せてにこにこしている様は壮観。
思わず「あんたら、警察関係者だろうがっ」とツッコミたくなりますが、いや、どれほどうれしかったことでしょうか。女王いや女神とも言える定を取り囲むことができた男たち。
<つづく>
2008/11/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(4)LLサイズ
1936年の人々は、声を潜めて、しかし楽しげに、裁判結果を報じる新聞を読みあい、「定は、精神鑑定の結果では残忍性淫乱症(サディズム)と結果が出た」との記述を「厳粛な裁判の場での裁判官の発言」であるから、遠慮することなく読みふけることができました。
事件後の阿部定は、名前を隠して結婚生活をおくっていました。入籍はせず、事実婚の形でしたが、定にとってはつかの間の平穏で平凡な生活でした。
しかし、敗戦後、カストリ雑誌という扇情的な本の出版が流行となり、定の名前が冠せられた『お定色ざんげ』が発行されました。
定は再び世間に姿を現さざるを得なくなりました。
『お定色ざんげ』には、事実と反する記述があるため、名誉毀損裁判をおこしたのです。「ウソ」だらけの本の出版に異議を申し立てたために、本名「阿部定」を事実婚の相手に知られ、破局してしまいます。
その後は、「阿部定一座」で巡業し、芝居で阿部定を、つまり自分自身の役を演じるなど、波乱の人生をおくりました。
「阿部定事件」を背負って生きることで、定は日本女性史の上で特異なpositionを形成しています。
阿部定も「ミッション=使命」を背負うて生きた一人の女であり、一種の「伝道師」として生涯をすごした人と言えるでしょう。定のmissionary position。
「Sも、Mも好みじゃないわ、やっぱりLか、LLよねっ」という方のために。
LとLL、サイズの話をしておきましょう。
大きいのはお好き?
日本言語文化史上では、「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)はLLサイズであったがために、孝謙天皇のお気に入りとなって側侍した」という俗話が古来より盛んで、『日本霊異記』や『古事談』などの説話集で、たびたび道鏡巨根説が説話として繰り返されてきました。
平安以後は天智系の天皇が即位したため、最後の天武系となった孝謙(称徳)天皇を貶めるために作られた説話だ、ということになっていますが、これほどの伝説となったのも、やはり巨根願望が人々の間に強かった証拠ともいえましょう。
LLサイズであるなら、至高の女帝のおそば近くに侍り、「天皇の位をそなたに譲ろう」とまで言われるほどになる、という伝説は、必要とされたから繰り返され、好まれた。
江戸時代の枕絵にも、道鏡と女帝の姿が残されています。
枕絵では、男性器は2割増しサイズで描かれるのが通例ですが、道鏡の2割増しとなったら、もう馬以上です。これがぴったりのサイズだった女帝もまた偉大な、、、、
<つづく>
2008/11/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(5)Sサイズ
ほとんどの殿方は、サイズの問題になると、極端な優越感に浸る人と、そんなことないのに極端な劣等感や不安におちいる人の両極端に固まり、まんなかの「ちょうどいいサイズである・平均的である」と感じている人のほうが少ないのだそうである。
あくまでも聞いた話であって、私がひとりひとりに「あなたは自分自身では大きい方だと思っていますか、小さい方ですか」とインタビューしたわけではありません。
しかるに、私のところに届く海外からの「迷惑メール」の大半は。
「ローレックスを格安で売る」「バイアグラ通信販売」の次に多いのが「ペニスを大きくしたい方へ朗報」というたぐい。
海外でも、みんなそんなに大きくしたいのであるか、と、春庭感慨にひたります。
トランジスタでもLCチップでもケータイ電話でも「より小さくより性能よく」ということを技術革新の要として発展を遂げてきた国に生きるものとして、「小さくても性能よい」ということは肯定したいのですが、どうやら身体のある部分に関しては「大きいことはよいことだ」という70年代コマーシャルの時代にとどまっているみたい。
毎日届く迷惑メール。たとえば、2008 6/1(日) 07:32
Subject: Penis Enlargment Reviews というタイトルのメール。
「Make the Impossible, Possible. Enlarge your Penis... Dr.Approved. We Guarantee 4 Inches in 4 Weeks!」
はあ、大きくしたい人、たくさんいるみたいね。
そこで女は考える。(ここから往復書簡「はるまき」よりの再録)
===============
もし監督が「君の胸、ちょっとそれじゃね。胸のアップのときだけ、吹き替えつかうから」と、言ったとする。
女優は、翌日には豊胸してくるだろう。シリコンたっぷりに。
男はどうすんだろう。
監督に「君の小さいから、そこのアップだけAV男優のふきかえ使う」と言われたら。
シリコンか?せめて真珠でも埋め込むか?
つうか、「ふきかえる」と言われたときの男優、それ以後演技できるのだろうか。気持ち、萎えるだろうなあ。
レンブラントを演じたマーティン・フリーマンは、演技派なんだろうけれど、少なくとも、シルベスタースタローンとか、シュワルツネッガーとか、筋骨隆々の魅力で女性ファンをひきつけるタイプではない。
なまっちろいプヨプヨ体型のレンブラントと妻サスキアのメイクラブシーンを見ても、あんまりはっきり目がさめなかった。
まあ、前夜のよふかしがいけなかったのだな。眠ったのは。
しかるに、映画冒頭シーンでのマーティンの、垂れ下がったモノは、画面を下品にするほど大きくもなく、「あれじゃ吹き替えつかったほうがよかったのに」と思われるほど小さくもなく、ほどよくたれていて、適切なサイズだったと思います。
と、映画、半分寝ていたくせに、冒頭シーンだけはしっかりサイズを確認したHALでした。(2008-02-13 23:10:08)
<つづく>
2008/11/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(6)グリーナウェイ朕珍論
haruniwa グリーナウェイトリビュート朕珍論 つづき
全裸の男性彫刻、まじまじと見るわけにもいかず、横目で鑑賞するその部分。
ミケランジェロやギリシャ彫刻のものは、いつも「実際より小さく彫刻されてんじゃないか」と、疑問に思ってきた。
ミケランジェロにみすえられたら、ちぢこまってしまうのかもしれないし、彫刻家は、自分のものより大きい場合、わざと小さめに彫刻するのか、と、思うくらいだったので。
いやいや、大きさばかりをみくらべているわけじゃありませんて。
ちゃんと彫刻の鑑賞をしてきたんですけれど。
国際文化交流史の面からみると。
日本の枕絵が西洋に渡ったとき、西洋人は、なによりもその部分の大きさに目をみはった。
もちろん、浮世絵の印刷ミスじゃない。もともと2割ましくらいに大きくして描くのが枕絵の常識。
「ほんとに、すべての日本人はこんなにデカいのか」と西洋人は思った。
最後まで日和見していたアメリカが太平洋戦争参戦をきめたのは、枕絵のでかさに恐怖を覚え、もし日本が勝ったら、アメリカの女たちは、太平洋を越えて日本の男どもになびくかもしれない、という恐怖があったからだという説も、、、、、あ、これはだれも言ってないか。
これって、『夜警』見た感想になってる?
うん、やっぱり『夜警』の感想じゃなくて、朕珍の感想だよね。おしまい!
『夜警』がギンレイホールにきたら、もう一度見て、寝ていた半分をとりかえすことにしよう。(2008-02-13 23:21:31)
==============
浮世絵錦絵によって、我が民草たちは、キリスト教国家の中世近世からみたらはるかに自由に「男女交合の図」になじんできました。
枕絵を、嫁入り道具のひとつとして、母親が嫁ぐ娘の文箱に忍ばせて入れてやったりもしました。
テレビドラマ『篤姫』でも、将軍家定との初のお床入りで、老女幾島は、篤姫に枕絵を見せて教育しておりました。
ドラマでは、篤姫が目を丸くして「このようなことをするのかっ?」というせりふを口にしておりましたから、よほど「このようなこと」がはっきりと描かれていたと見えます。ただし、テレビ画面にはその絵の内容は映っていませんでした。NHKだからね。
戦争へと沈み込む世相のためには阿部定事件が必要であったように、社会の様相が暗く厳しいものになればなるほど、エログロナンセンスは必要とされます。
昨今の「無思想無思考」の刹那的快楽のみを求めようとする世相にあっては、無思想無自覚のナンセンスエログロが反乱するのは必然なのでしょうが、、、、
「女性の品格」いやがうえにも高くして、清く正しき人生をおくってしまった我が身には、ちと縁のなかった世界でもあり、いろいろ考えるところもありまして、、、、、
当て字として朕珍の文字を用いたことに他意はない。
一人称として「朕」の字を用いる人は、日本にただひとりしかおらず、せっかく漢字があるのに、使用数が少なくてもったいないから、当て字に用いた。
再利用というかリユースというか、地球にやさしい当て字である。
<おわり>
11/01 アート散歩(10)写真の力、絵の力
11/02 ミッション伝道師たち(1)メイプルソープ
11/03 ミッション伝道師たち(2)missionary position宣教師の立ち位置
11/04 ミッション伝道師たち(3)SとM、定の立場
11/05 ミッション伝道師たち(4)LLサイズ
11/06 ミッション伝道師たち(5)Sサイズ
11/07 ミッション伝道師たち(6)グリナウェイ朕珍論
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008/11/01
ぽかぽか春庭@アート散歩>この1年展覧会徘徊(10)写真の力、写真の美
大丸ギャラリー「『写真』とは何か・20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼 社会を見つめる眼」2008年4月3日(木)→21日(月)を、4月8日に見ました。
「写真」が生まれて150年になるのを記念したという写真展。(リンクは大阪梅田大丸のURL)
http://www.daimaru.co.jp/museum/schedule/umeda/20seiki_umeda_shosai.html
写真展のごあいさつより
『 写真が最も発展した20世紀、そしてそれらに連なる21世紀、この時代の写真史を形成した重要な写真家たちを取り上げます。彼らの作品やその根底にある表現思想を通じて、人間が事物に視線を向け視察し記録する行為、そして、さらに表現芸術の領域までに昇華された「写真」ー、その本質や意味、役割を探究することで、単に写真の歴史をご覧いただくことに留まらず、「写真」とは何か?を体感していただけることでしょう 』
20世紀は「写真の時代」でした。
写真は常に二つの面を持って訴えかけてくる。「写実、記録性」と「美」の二面。
写真のこの二つの面を対照しながら20世紀の写真を振り返る展覧会「20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼、社会を見つめる眼」
マンレイが写した若いマルセル・デュシャンと、アーヴィング・ペンが写した年老いたマルセルデュシャンの2枚を比べてみるのも面白かった。
報道写真、ロバート・キャパやユージン・スミスの、戦争や水俣の真実を切り取った写真、たとえば、キャパの有名な「スペイン内戦・倒れる共和国兵士」も、スミスの水俣病患者を移した写真も、報道ということを抜きにして見た場合、実に美しい。
美しい構図、映し出された人間の姿のなんと美しいことか。
スミスの『楽園へのあゆみ』。
写真集のタイトルになっている一枚だから、彼の代表作とされている写真だと思うけれど、初めて見ました。初めて見たのに、何度も見てきたような既視感がありました。
うつされているのは、西洋人の子供(と思ったのだけれど)なのに、自分自身が写されているような気になりました。
幼いふたりが、森のなかへ歩みいる瞬間の、光と影。森や川へ歩み入ろうとする、子供のころのわくわくした気分と、未知の世界へはいるおそれにも似た気持ちと、楽園から出てきてしまった年をとった自分の寂寥と、そんな思いのすべてを一枚の構図におさめてしまう、写真の力の大きさを知りました。
アメリカで過酷な労働条件における児童労働禁止運動のために大きな力となった写真集「ちいさな労働者」を残したルイス・ハイン。
「働く子供たち」を写した写真も、悲惨な労働に従事する子供たちを写しているのに、その子供たちはボロい服を着ているのに、美しい。
20世紀写真の巨匠たちの作品をながめて、写真のもつ「記録と美」の力の大きさにうたれました。
メイプルソープやマンレイの「美」はもちろんのこと、今回私にとって、「記録写真の美」について思うこと大きかった。
この写真展について言及されているブログに出品作品の何枚かが載っているのでリンク。
http://blog.goo.ne.jp/v_goo_kazu_san/e/0ae7075172164b42d7b4775acfdde1be
出品作家一覧(生年順)
ルイス・ハイン(1874~1940)
エドワード・ウエストン(1886~1958)
マン・レイ(1890~1976)
アンドレ・ケルテス(1894~1985)
ウイン・バロック(1902~1975)
アンセル・アダムス(1902~1984)
ロバート・キャパ(1913~1954)
W.ユージン・スミス(1918~1978)
アービング・ペン(1917~)
ヘルムート・ニュートン(1920~2004)
エルンスト・ハース(1921~1986)
アンディ・ウォーホル(1928~1987)
ウイリアム・クライン(1928~)
ロバート・メイプルソープ(1946~1989)
本日の徘徊ミソヒト
花芯深く蜜の味する誘惑のメイプルソープの花びらの色
<おわり>
2008/11/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(1)メイプルソープ
大丸ギャラリー「『写真』とは何か・20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼 社会を見つめる眼」で、もっとも印象的だった写真家。キャパやスミスなどの巨匠はもちろんですが、メイプルソープの写真美にうたれました。
大丸ギャラリーで開催された『20世紀の巨匠展』
花を大写しにしたメイプルソープの写真は、ほんとうにエロスが漂ってくる迫力。
どこの出版社が出していたのか忘れたが、裏ビデオならぬ裏写真集のひとつに、何人もの女陰を大写しにして並べたものもあったように記憶していますが、このメイプルソープの花ほどエロティックに見えるものはなかったろうと思わせる。
ウェブ友mackychanとの往復書簡「はるまき」で、やっと「メイプルソープ撮影の性器露出の写真はわいせつには当たらない」という判決が出た、というニュースをめぐって語り合いました。
メイプルソープ裁判、10年以上を費やして、ようやく出された結論です。
裁判官たちは、世の中の表現されているものの現実を知って、ようやくメイプルソープの写真うんぬんと言っている場合じゃないことに気づいたのかもしれません。
メイプルソープの芸術性の高い写真で性器が見えているとかいないとか論争している間に、たとえば、小学生向けの少女漫画雑誌における性交シーンの描写がどのようなことになっているのか、現実を知っているのやら知らないのやら。
私は、成人の性的傾向に関しては、自己責任と相手を傷つけないという合意のうえなら、どのような趣味嗜好があってもよいと考えています。しかし、子供にとっては事情がちがいます。
性行為が人間性にとってどのような意味を持つのかということを考えていない子供にとって、むやみな性描写は必要ない、と考えています。
子供に必要なのは、興味本位の性描写ではなく、きちんとした性教育です。
小学生への性教育について批判的な人もいますが、きちんとした性教育を受ける前に、小学生にゆがめられた性知識がどんどん入ってきているのが、現実です。
さて、「正しい性行為」なんてものがあるのでしょうか。
次回、世界の果てまで布教をして歩いた宣教師たちが、「ただしいやり方」と信じた方法についての笑い話です。
<つづく>
2008/11/03
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(2)missionary position宣教師の立ち位置
どんな奥地にも入り込んで、「正しい教え」を宣教する情熱を持っていたキリスト教宣教師のなかには、尊敬すべき人が多いけれど、それでもわたしは「たったひとつの正しいこと」を押しつけられたくはない。
私は心の中に宗教をもつ人を尊重するけれど、それでも自分が信者になることは無かった。究極のところでどの宗教も「自分の宗教が一番よい」と、主張する。私は、「唯一の真実」や「この宗教だけが最高」という考え方が性に合わないからだ。
あ、ここでの「性に合わない」というのは、「性格や考え方があわない」という意味であって、「性行為の相性がいい」って意味じゃなくて、、、って、説明いらないか。
私は、「唯一の正しい方法」や、「これだけが、真実」というのでなく、いいかげんでもいいので、「あれもこれも、お好みしだい」でいたい。
性的指向にしても正常位だけが「正しい体位」であるわけではない。
英語のスラングのひとつ「missionary positionミッショナリー・ポジション=宣教師の立ち位置」ということばがある。
後背位を「正しくない」と決めつけた宣教師たちが「ただひとつの正しいやり方」と宣教地の人に教えたので、「対面位=正常位」をmissionary positionと呼ぶようになった、という俗説があります。
後背位を目にした宣教師たちが、「これは、犬がつがう時のやり方ではないか。人間は神が決めた正しいやり方で行うべきだ」と教え込んだ。
ただし、神が作りたまひし「ほ乳類」のうち、人間と同じに、対面すなわち顔と顔を向かい合わせてコトに及ぶのは、少数派です。
霊長類のオランウータンがヒトと同じ正常位を用いる。これは樹上生活に適したやり方と解釈されている。人間の祖先が、猿の先祖から別れて樹上生活からアフリカ草原へ出てくるころ、オランウータンと同じポジションで行っていたのだろうと、推測しうる。
人間と同じ頃、樹上生活から草原に降りてきたと思われるボノボ(ピグミーチンパンジー)も、対面位。
ほ乳類のうち、水中生活を選んだ鯨とイルカも正常位。水中ではこのほうが、結合しやすいらしい。(私は水中にてコトに及んだことがないので、実証はしておらぬ)
あとは、ほとんどのほ乳類が後背位です。つまり、ほ乳類にとって、「普通」なのは、宣教師が「犬と同じだからよくない」と、言ったほうの、後背位であり、人間はオランウータンやボノボ、鯨といっしょに「フツーじゃないほう」を選んだ「変わり者」のやり方をしているのです。
大多数のほ乳類からみると、人間のやり方は「変態」です。
正常位のスラングmissionary positionが、宣教師の言葉に由来するというのが俗説にすぎないとしても、キリスト教や伝道師をおちょくるコトバとして、このミッショナリーポジションは、まさしくポジションを得ていると言える。
<つづく>
2008/11/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(3)SとM、定の立場
まあ、実生活においては、宣教師が何を「正しい行為」と考えようと、個人のお好みでよい。SでもMでも、LでもLLでも。
あ~、ここで言うSとMは、サイズの話でなくて、西洋の高名なる文学者のイニシャルです。
今回は、SさんとMさんのご紹介。
Sは、サドのイニシャル。
マルキ・ド・サド侯爵(Marquis de Sade 1740~1814)
本名ドナスィヤン・アルフォーンス・フランスワ・ド・サド (Donatien Alphonse Francois de Sade)フランス革命期の、作家。代表作は『悪徳の栄え』『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』
Mは、マゾッホのイニシャル。
レーオポルト・フォン・ザッハー・マゾッホ男爵(Leopold Ritter von Sacher Masoch, 1836~1895)
ウクライナ共和国のリヴィウ(マゾッホ誕生当時はオーストラリア・レンベルグ)生まれ。19世紀の小説家。代表作は『毛皮を着たヴィーナス』
このSさんとMさんは、なにが「正常・異端」でなにが「自由」なのかという論争において、西欧文化に大きな影響を与えたふたりと言えます。
現代日本社会では、「Sの女王」という扮装の「にしおかすみこ」が、鞭をふるいながらギャグをとばす芸風が、お笑いのひとつのスタイルと受け止められているほど、「S&M」が社会に認知されています。
「S」「女王様」の&検索で177万件のヒットがあり、「女王様とお呼びっ」と言えば、このセリフを口にしているのは、エリザベス二世でもベアトリクス女王でもなく、「Sの女王」のことばなのだ、ということは、高校生でも認識しています。
日本社会で、このSとMの関係がおおっぴらに新聞を騒がせたのは、1936(昭和11)年の阿部定事件が、その最大の事件でしょう。
二・二六事件の3ヶ月後に起きたこの事件は、連日の報道により全国民の注目のまととなり、戦争へ向かう世相の中の、唯一の「暗い世相を吹き飛ばす」話題となりました。
逮捕直後の阿部定の写真。すごいです。
美人の定がにっこり笑っているのはいいとして、彼女を逮捕して取り囲んでいる男たちが、全員白い歯を見せてにこにこしている様は壮観。
思わず「あんたら、警察関係者だろうがっ」とツッコミたくなりますが、いや、どれほどうれしかったことでしょうか。女王いや女神とも言える定を取り囲むことができた男たち。
<つづく>
2008/11/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(4)LLサイズ
1936年の人々は、声を潜めて、しかし楽しげに、裁判結果を報じる新聞を読みあい、「定は、精神鑑定の結果では残忍性淫乱症(サディズム)と結果が出た」との記述を「厳粛な裁判の場での裁判官の発言」であるから、遠慮することなく読みふけることができました。
事件後の阿部定は、名前を隠して結婚生活をおくっていました。入籍はせず、事実婚の形でしたが、定にとってはつかの間の平穏で平凡な生活でした。
しかし、敗戦後、カストリ雑誌という扇情的な本の出版が流行となり、定の名前が冠せられた『お定色ざんげ』が発行されました。
定は再び世間に姿を現さざるを得なくなりました。
『お定色ざんげ』には、事実と反する記述があるため、名誉毀損裁判をおこしたのです。「ウソ」だらけの本の出版に異議を申し立てたために、本名「阿部定」を事実婚の相手に知られ、破局してしまいます。
その後は、「阿部定一座」で巡業し、芝居で阿部定を、つまり自分自身の役を演じるなど、波乱の人生をおくりました。
「阿部定事件」を背負って生きることで、定は日本女性史の上で特異なpositionを形成しています。
阿部定も「ミッション=使命」を背負うて生きた一人の女であり、一種の「伝道師」として生涯をすごした人と言えるでしょう。定のmissionary position。
「Sも、Mも好みじゃないわ、やっぱりLか、LLよねっ」という方のために。
LとLL、サイズの話をしておきましょう。
大きいのはお好き?
日本言語文化史上では、「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)はLLサイズであったがために、孝謙天皇のお気に入りとなって側侍した」という俗話が古来より盛んで、『日本霊異記』や『古事談』などの説話集で、たびたび道鏡巨根説が説話として繰り返されてきました。
平安以後は天智系の天皇が即位したため、最後の天武系となった孝謙(称徳)天皇を貶めるために作られた説話だ、ということになっていますが、これほどの伝説となったのも、やはり巨根願望が人々の間に強かった証拠ともいえましょう。
LLサイズであるなら、至高の女帝のおそば近くに侍り、「天皇の位をそなたに譲ろう」とまで言われるほどになる、という伝説は、必要とされたから繰り返され、好まれた。
江戸時代の枕絵にも、道鏡と女帝の姿が残されています。
枕絵では、男性器は2割増しサイズで描かれるのが通例ですが、道鏡の2割増しとなったら、もう馬以上です。これがぴったりのサイズだった女帝もまた偉大な、、、、
<つづく>
2008/11/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(5)Sサイズ
ほとんどの殿方は、サイズの問題になると、極端な優越感に浸る人と、そんなことないのに極端な劣等感や不安におちいる人の両極端に固まり、まんなかの「ちょうどいいサイズである・平均的である」と感じている人のほうが少ないのだそうである。
あくまでも聞いた話であって、私がひとりひとりに「あなたは自分自身では大きい方だと思っていますか、小さい方ですか」とインタビューしたわけではありません。
しかるに、私のところに届く海外からの「迷惑メール」の大半は。
「ローレックスを格安で売る」「バイアグラ通信販売」の次に多いのが「ペニスを大きくしたい方へ朗報」というたぐい。
海外でも、みんなそんなに大きくしたいのであるか、と、春庭感慨にひたります。
トランジスタでもLCチップでもケータイ電話でも「より小さくより性能よく」ということを技術革新の要として発展を遂げてきた国に生きるものとして、「小さくても性能よい」ということは肯定したいのですが、どうやら身体のある部分に関しては「大きいことはよいことだ」という70年代コマーシャルの時代にとどまっているみたい。
毎日届く迷惑メール。たとえば、2008 6/1(日) 07:32
Subject: Penis Enlargment Reviews というタイトルのメール。
「Make the Impossible, Possible. Enlarge your Penis... Dr.Approved. We Guarantee 4 Inches in 4 Weeks!」
はあ、大きくしたい人、たくさんいるみたいね。
そこで女は考える。(ここから往復書簡「はるまき」よりの再録)
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もし監督が「君の胸、ちょっとそれじゃね。胸のアップのときだけ、吹き替えつかうから」と、言ったとする。
女優は、翌日には豊胸してくるだろう。シリコンたっぷりに。
男はどうすんだろう。
監督に「君の小さいから、そこのアップだけAV男優のふきかえ使う」と言われたら。
シリコンか?せめて真珠でも埋め込むか?
つうか、「ふきかえる」と言われたときの男優、それ以後演技できるのだろうか。気持ち、萎えるだろうなあ。
レンブラントを演じたマーティン・フリーマンは、演技派なんだろうけれど、少なくとも、シルベスタースタローンとか、シュワルツネッガーとか、筋骨隆々の魅力で女性ファンをひきつけるタイプではない。
なまっちろいプヨプヨ体型のレンブラントと妻サスキアのメイクラブシーンを見ても、あんまりはっきり目がさめなかった。
まあ、前夜のよふかしがいけなかったのだな。眠ったのは。
しかるに、映画冒頭シーンでのマーティンの、垂れ下がったモノは、画面を下品にするほど大きくもなく、「あれじゃ吹き替えつかったほうがよかったのに」と思われるほど小さくもなく、ほどよくたれていて、適切なサイズだったと思います。
と、映画、半分寝ていたくせに、冒頭シーンだけはしっかりサイズを確認したHALでした。(2008-02-13 23:10:08)
<つづく>
2008/11/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ミッション伝道師たち(6)グリーナウェイ朕珍論
haruniwa グリーナウェイトリビュート朕珍論 つづき
全裸の男性彫刻、まじまじと見るわけにもいかず、横目で鑑賞するその部分。
ミケランジェロやギリシャ彫刻のものは、いつも「実際より小さく彫刻されてんじゃないか」と、疑問に思ってきた。
ミケランジェロにみすえられたら、ちぢこまってしまうのかもしれないし、彫刻家は、自分のものより大きい場合、わざと小さめに彫刻するのか、と、思うくらいだったので。
いやいや、大きさばかりをみくらべているわけじゃありませんて。
ちゃんと彫刻の鑑賞をしてきたんですけれど。
国際文化交流史の面からみると。
日本の枕絵が西洋に渡ったとき、西洋人は、なによりもその部分の大きさに目をみはった。
もちろん、浮世絵の印刷ミスじゃない。もともと2割ましくらいに大きくして描くのが枕絵の常識。
「ほんとに、すべての日本人はこんなにデカいのか」と西洋人は思った。
最後まで日和見していたアメリカが太平洋戦争参戦をきめたのは、枕絵のでかさに恐怖を覚え、もし日本が勝ったら、アメリカの女たちは、太平洋を越えて日本の男どもになびくかもしれない、という恐怖があったからだという説も、、、、、あ、これはだれも言ってないか。
これって、『夜警』見た感想になってる?
うん、やっぱり『夜警』の感想じゃなくて、朕珍の感想だよね。おしまい!
『夜警』がギンレイホールにきたら、もう一度見て、寝ていた半分をとりかえすことにしよう。(2008-02-13 23:21:31)
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浮世絵錦絵によって、我が民草たちは、キリスト教国家の中世近世からみたらはるかに自由に「男女交合の図」になじんできました。
枕絵を、嫁入り道具のひとつとして、母親が嫁ぐ娘の文箱に忍ばせて入れてやったりもしました。
テレビドラマ『篤姫』でも、将軍家定との初のお床入りで、老女幾島は、篤姫に枕絵を見せて教育しておりました。
ドラマでは、篤姫が目を丸くして「このようなことをするのかっ?」というせりふを口にしておりましたから、よほど「このようなこと」がはっきりと描かれていたと見えます。ただし、テレビ画面にはその絵の内容は映っていませんでした。NHKだからね。
戦争へと沈み込む世相のためには阿部定事件が必要であったように、社会の様相が暗く厳しいものになればなるほど、エログロナンセンスは必要とされます。
昨今の「無思想無思考」の刹那的快楽のみを求めようとする世相にあっては、無思想無自覚のナンセンスエログロが反乱するのは必然なのでしょうが、、、、
「女性の品格」いやがうえにも高くして、清く正しき人生をおくってしまった我が身には、ちと縁のなかった世界でもあり、いろいろ考えるところもありまして、、、、、
当て字として朕珍の文字を用いたことに他意はない。
一人称として「朕」の字を用いる人は、日本にただひとりしかおらず、せっかく漢字があるのに、使用数が少なくてもったいないから、当て字に用いた。
再利用というかリユースというか、地球にやさしい当て字である。
<おわり>