2012/12/11
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>悪人映画(3)赤と黒・大陽がいっぱい
「犯罪者が主人公の映画」、フランスの稀代の美男が主役を張っています。1本は、1940~50年代のフランスを代表する美男ジェラール・フリップの代表作『赤と黒』。もう1本は、1960~70年代を代表する美男アラン・ドロンの出世作『大陽がいっぱい』です。
(以下ネタバレを含む感想です)
『赤と黒』は、スタンダール47歳の時、1830年に発表されました。
元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いた代表作です。王政復古下、旧ナポレオン派と王制派の暗闘うごめくフランス社会を鋭く批判した作品であり、終生共和政治支持者であったスタンダールの政治思想がよく表現されている作品でもあります。
でも、映画の観客には、王党派でも共和派でも、どっちでもよくて、ただひたすら、女性を虜にする天性の資質を持ち、それを出世のために生かしていこうとする美男にうっとりする。ジェラール・フィリップ様が殺人未遂を犯したとして、彼がやったことなら、「殺人未遂」で死刑なんて、アリエネー。当の殺されかけたレナール夫人だってジュリアン・ソレルに会いたい一心で牢獄へやって来るくるではありませんか。
ああ、あわれ美しきジェラール様が処刑場へひかれていってしまう。よよよ、、、、、
『大陽がいっぱい』は、パトリシア・ハイスミス原作(原題:The Talented Mr. Ripley)による映画。1999年には、原作により忠実な『リプリー』も撮られています。原作の主人公のイメージにはマット・デイモンのほうが合っているのかも知れませんが、私にとっては、なにはともあれ、アランドロン様のたぐいまれなる美しさを堪能すべき映画が『大陽がいっぱい』
ルネ・クレマンの映画音楽の響きとともに、トム・リプリーは、「かばってやりたい殺人者No.1」です。
貧しい家の出身者トム・リプリーは、なんとか上層階級に這い上がろうともがきます。ジュリアン・ソレルと同じ。ジュリアンは、貴族の娘との結婚を画策し、成功しかけますが、それを邪魔されたと考えて殺人未遂を犯す。トムは、金持ち坊ちゃまを手にかけ、そのなりすましを図ります。アランドロン様のなりすましがばれそうになると、どうか無事逃げおおせて欲しいと願わずにはいられません。冷静に「犯罪者は裁かれねばならない」なんていう検察や判事のような精神で診ていられる人もいるでしょうけれど、ドキドキハラハラしながら、ラストまでアランドロン様の身の上ばかりを案じてしまうのです。
冷静に考えれば、貧しい身の上から這い上がろうとした場合、アラン・ドロンほどの美男であるならば、はいあがる方法はいくらでもあります。マット・デイモンがトムを演じた原作により近いゲイ青年であるなら、なおさら。
上層と下層の階級差別がくっきりしている現代西欧社会であっても、美貌のゲイ青年をほうってはおきません。だから、殺人などというばれやすい方法をとるのは、きわめて割に合わない方法です。
「ジェラールフィリップ様がレナール夫人殺人未遂で処刑されるときに、天下の婦女子は涙を流して、どうかジェラール様を殺さないで、と願い、アランドロン様が金持ちボンボンのフィリップを殺しても、どうぞ捕まらないで逃げて欲しい」と願ってしまう。トムの人間性うんぬんの前に、アランドロンのハンサムが何よりも勝って画面に映り、こんなハンサムな青年につらい罰を与えたくなくなるのです。
私たちの心の中には、悪事に引かれる気持ちも多分にあります。自分では拾った百円玉を猫ばばするすることさえできずに、駅事務所に差し出すような肝っ玉の小ささで生きてきてしまったたので、自分自身の欲望に忠実に、人を蹴落とすことやらだますことやらやってのける人の大胆に驚きもし、その強さがうらやましくもあるのかもしれません。
ましてや、ジェラール様やアランドロン様が悪事を行っても、それを責めようなんて気にはなれないのですが、さて、現実社会の悪事、目に見えず、我々のささやかな生活を破壊しようとする悪事が蔓延しています。この不安と暗澹たる世相の中にあって、なんとか希望を見いだしたい。こどもたちが悪事に手を染めたりすることなく育つ社会にしていきたい。悪者ヒーローは、映画の中で楽しむだけでいいのです。
さて、もし現実社会で殺人者を裁く、という裁判員に選ばれたとき、私たちは被告の顔で結果を決めるわけではありませんが、警察発表の犯人写真は、たいていどの犯人も極悪人の人相に写っていることが多くて、私、顔で決めたら判断まちがっちゃうかもしれません。その程度の判断力なので、裁判員にはなりたくない。
連日いろいろな人の顔が新聞やテレビに登場する昨今。顔で決めては行けないのだろうけれど、悪人面の人が口でどんなにいいこと言っても、信用できない気がしてしまいます。まあ、だれが本当の悪人なのか、じっくりと顔を見て。
<おわり>
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>悪人映画(3)赤と黒・大陽がいっぱい
「犯罪者が主人公の映画」、フランスの稀代の美男が主役を張っています。1本は、1940~50年代のフランスを代表する美男ジェラール・フリップの代表作『赤と黒』。もう1本は、1960~70年代を代表する美男アラン・ドロンの出世作『大陽がいっぱい』です。
(以下ネタバレを含む感想です)
『赤と黒』は、スタンダール47歳の時、1830年に発表されました。
元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いた代表作です。王政復古下、旧ナポレオン派と王制派の暗闘うごめくフランス社会を鋭く批判した作品であり、終生共和政治支持者であったスタンダールの政治思想がよく表現されている作品でもあります。
でも、映画の観客には、王党派でも共和派でも、どっちでもよくて、ただひたすら、女性を虜にする天性の資質を持ち、それを出世のために生かしていこうとする美男にうっとりする。ジェラール・フィリップ様が殺人未遂を犯したとして、彼がやったことなら、「殺人未遂」で死刑なんて、アリエネー。当の殺されかけたレナール夫人だってジュリアン・ソレルに会いたい一心で牢獄へやって来るくるではありませんか。
ああ、あわれ美しきジェラール様が処刑場へひかれていってしまう。よよよ、、、、、
『大陽がいっぱい』は、パトリシア・ハイスミス原作(原題:The Talented Mr. Ripley)による映画。1999年には、原作により忠実な『リプリー』も撮られています。原作の主人公のイメージにはマット・デイモンのほうが合っているのかも知れませんが、私にとっては、なにはともあれ、アランドロン様のたぐいまれなる美しさを堪能すべき映画が『大陽がいっぱい』
ルネ・クレマンの映画音楽の響きとともに、トム・リプリーは、「かばってやりたい殺人者No.1」です。
貧しい家の出身者トム・リプリーは、なんとか上層階級に這い上がろうともがきます。ジュリアン・ソレルと同じ。ジュリアンは、貴族の娘との結婚を画策し、成功しかけますが、それを邪魔されたと考えて殺人未遂を犯す。トムは、金持ち坊ちゃまを手にかけ、そのなりすましを図ります。アランドロン様のなりすましがばれそうになると、どうか無事逃げおおせて欲しいと願わずにはいられません。冷静に「犯罪者は裁かれねばならない」なんていう検察や判事のような精神で診ていられる人もいるでしょうけれど、ドキドキハラハラしながら、ラストまでアランドロン様の身の上ばかりを案じてしまうのです。
冷静に考えれば、貧しい身の上から這い上がろうとした場合、アラン・ドロンほどの美男であるならば、はいあがる方法はいくらでもあります。マット・デイモンがトムを演じた原作により近いゲイ青年であるなら、なおさら。
上層と下層の階級差別がくっきりしている現代西欧社会であっても、美貌のゲイ青年をほうってはおきません。だから、殺人などというばれやすい方法をとるのは、きわめて割に合わない方法です。
「ジェラールフィリップ様がレナール夫人殺人未遂で処刑されるときに、天下の婦女子は涙を流して、どうかジェラール様を殺さないで、と願い、アランドロン様が金持ちボンボンのフィリップを殺しても、どうぞ捕まらないで逃げて欲しい」と願ってしまう。トムの人間性うんぬんの前に、アランドロンのハンサムが何よりも勝って画面に映り、こんなハンサムな青年につらい罰を与えたくなくなるのです。
私たちの心の中には、悪事に引かれる気持ちも多分にあります。自分では拾った百円玉を猫ばばするすることさえできずに、駅事務所に差し出すような肝っ玉の小ささで生きてきてしまったたので、自分自身の欲望に忠実に、人を蹴落とすことやらだますことやらやってのける人の大胆に驚きもし、その強さがうらやましくもあるのかもしれません。
ましてや、ジェラール様やアランドロン様が悪事を行っても、それを責めようなんて気にはなれないのですが、さて、現実社会の悪事、目に見えず、我々のささやかな生活を破壊しようとする悪事が蔓延しています。この不安と暗澹たる世相の中にあって、なんとか希望を見いだしたい。こどもたちが悪事に手を染めたりすることなく育つ社会にしていきたい。悪者ヒーローは、映画の中で楽しむだけでいいのです。
さて、もし現実社会で殺人者を裁く、という裁判員に選ばれたとき、私たちは被告の顔で結果を決めるわけではありませんが、警察発表の犯人写真は、たいていどの犯人も極悪人の人相に写っていることが多くて、私、顔で決めたら判断まちがっちゃうかもしれません。その程度の判断力なので、裁判員にはなりたくない。
連日いろいろな人の顔が新聞やテレビに登場する昨今。顔で決めては行けないのだろうけれど、悪人面の人が口でどんなにいいこと言っても、信用できない気がしてしまいます。まあ、だれが本当の悪人なのか、じっくりと顔を見て。
<おわり>