2013/10/10
ぽかぽか春庭@アート散歩>近代建築めぐり2013(1)擬洋風建築を訪ねて
建物を見て歩く散歩、これまでは都内や埼玉千葉などの東京近郊が中心でしたが、この夏、東北に残る擬洋風建築を中心にして見て歩くことができました。
幕末から明治初期にかけて、横浜や東京築地など、新しく外国人居住区となった土地には貿易などに従事したり、宣教のために日本に派遣されてきた西欧人が住処を求め、つぎつぎに洋風の家が建てられました。建築の心得のある西欧人が日本人の大工を指揮して洋風建築の建て方を教えたり、大工棟梁が洋風建築を見学し、伝統的な大工の技を駆使して見よう見まねではあっても洋風の教会や学校、洋館を建てていきました。外観は洋風であっても、内部の構造には、伝統的な木組みなどが使われています。
コンドルなどに正規の建築学校で教育を受けた建築家が育つまで、日本の洋風建築は、これらの大工さんたちが技を競いつつ建てたのです。擬洋風建築という呼び方に反対する建築史家もいます。「擬」には、「もどき」とか「偽物」の意味合いがあるからです。
日本の建築物は、中国などの建築を取り込んで、日本建築という伝統を築いてきました。だったら、西洋建築を取り入れたとしても、それは「擬」ではなくて、これまでの「さまざまな様式、建築方法」を取り入れてきた日本建築の伝統そのものではないか、「擬似洋風」なのではなくて、これはこれでひとつの「日本建築」なのだと。
また、山梨県の擬洋風建築は、そのほとんどが県令(今の県知事)藤村紫朗が命じて建築されたので、「藤村式建築」という山梨県だけの呼び名を用いています。
文明開化新時代を目に見える形で人々に示す、という役割を果たした建築であるため、開花式建築ともよばれます
こうした擬洋風建築が東北など地方に数多く残されました。東京では関東大震災や東京大空襲の戦災でほとんどが消失したり、「古くなった」という理由でとっととコンクリの建物に建て替えられてしまったのに対して、東北ではこれらの建物を近年まで大切に現役の学校やら銀行として使用し続けてきた、ということです。そして今、これらの建物は地元の誇りともなり、観光資源にもなっています。
地方の県令たちが洋風建築に熱心だったのには理由があります。
幕藩体制時代にそれぞれの土地の「中心的建築物」は多くが「お城」でした。藩主の威光を示し高くそびえる建物がランドマークであったのです。人々はお城の天守を見上げては「おらが殿様」が藩の中心であることをイメージしました。
しかし、廃藩置県後、県令となった人物は、明治政府の方針でほとんどが「出身地とは別の土地」に派遣されました。たとえば、山梨県令の藤村紫郎は肥後熊本藩の出身です。
県令は、お殿様とは異なる「威光」、新しい政府となったこと、文明開化という新時代になったことを、目に見える形で土地の人々に示す必要がありました。その形が「西洋式の建築」でした。地元の大工たちはこれらの要望に応え、東京や横浜まで洋館を見学に行ったりして外観を把握し、自分たちの技術で西洋風の建物を建設しました。
山形県鶴岡市・至道博物館内の旧西田川郡役所
旧西田川郡役所階段
同・旧鶴岡警察署(私が訪ねた日は改修中で、内部の見学はできませんでした)
これらの建物、移築補修がなされていますが、1979(明治12)年に新築なったときに人々が眺めたであろう当時の姿をそのまま残しています。初代県令三島通庸が命じ、大工棟梁、高橋兼吉・石井竹次郎がルネッサンス様式を模して建てました。
館内に高橋兼吉の写真が展示してありました。己の腕ひとつを頼みとして、これまで手がけたことのなかった「洋風」の庁舎を見事に建てあげた棟梁の心意気はいかばかりであったかと往時をしのびました。
<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>近代建築めぐり2013(1)擬洋風建築を訪ねて
建物を見て歩く散歩、これまでは都内や埼玉千葉などの東京近郊が中心でしたが、この夏、東北に残る擬洋風建築を中心にして見て歩くことができました。
幕末から明治初期にかけて、横浜や東京築地など、新しく外国人居住区となった土地には貿易などに従事したり、宣教のために日本に派遣されてきた西欧人が住処を求め、つぎつぎに洋風の家が建てられました。建築の心得のある西欧人が日本人の大工を指揮して洋風建築の建て方を教えたり、大工棟梁が洋風建築を見学し、伝統的な大工の技を駆使して見よう見まねではあっても洋風の教会や学校、洋館を建てていきました。外観は洋風であっても、内部の構造には、伝統的な木組みなどが使われています。
コンドルなどに正規の建築学校で教育を受けた建築家が育つまで、日本の洋風建築は、これらの大工さんたちが技を競いつつ建てたのです。擬洋風建築という呼び方に反対する建築史家もいます。「擬」には、「もどき」とか「偽物」の意味合いがあるからです。
日本の建築物は、中国などの建築を取り込んで、日本建築という伝統を築いてきました。だったら、西洋建築を取り入れたとしても、それは「擬」ではなくて、これまでの「さまざまな様式、建築方法」を取り入れてきた日本建築の伝統そのものではないか、「擬似洋風」なのではなくて、これはこれでひとつの「日本建築」なのだと。
また、山梨県の擬洋風建築は、そのほとんどが県令(今の県知事)藤村紫朗が命じて建築されたので、「藤村式建築」という山梨県だけの呼び名を用いています。
文明開化新時代を目に見える形で人々に示す、という役割を果たした建築であるため、開花式建築ともよばれます
こうした擬洋風建築が東北など地方に数多く残されました。東京では関東大震災や東京大空襲の戦災でほとんどが消失したり、「古くなった」という理由でとっととコンクリの建物に建て替えられてしまったのに対して、東北ではこれらの建物を近年まで大切に現役の学校やら銀行として使用し続けてきた、ということです。そして今、これらの建物は地元の誇りともなり、観光資源にもなっています。
地方の県令たちが洋風建築に熱心だったのには理由があります。
幕藩体制時代にそれぞれの土地の「中心的建築物」は多くが「お城」でした。藩主の威光を示し高くそびえる建物がランドマークであったのです。人々はお城の天守を見上げては「おらが殿様」が藩の中心であることをイメージしました。
しかし、廃藩置県後、県令となった人物は、明治政府の方針でほとんどが「出身地とは別の土地」に派遣されました。たとえば、山梨県令の藤村紫郎は肥後熊本藩の出身です。
県令は、お殿様とは異なる「威光」、新しい政府となったこと、文明開化という新時代になったことを、目に見える形で土地の人々に示す必要がありました。その形が「西洋式の建築」でした。地元の大工たちはこれらの要望に応え、東京や横浜まで洋館を見学に行ったりして外観を把握し、自分たちの技術で西洋風の建物を建設しました。
山形県鶴岡市・至道博物館内の旧西田川郡役所
旧西田川郡役所階段
同・旧鶴岡警察署(私が訪ねた日は改修中で、内部の見学はできませんでした)
これらの建物、移築補修がなされていますが、1979(明治12)年に新築なったときに人々が眺めたであろう当時の姿をそのまま残しています。初代県令三島通庸が命じ、大工棟梁、高橋兼吉・石井竹次郎がルネッサンス様式を模して建てました。
館内に高橋兼吉の写真が展示してありました。己の腕ひとつを頼みとして、これまで手がけたことのなかった「洋風」の庁舎を見事に建てあげた棟梁の心意気はいかばかりであったかと往時をしのびました。
<つづく>