KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

余生ということ

2022年06月18日 | 俳句
天気 曇

写真のベンチは、以前の散歩でマンションから公園へ直行したとき休むことにしていたベンチ。家からほぼ2000歩のところにあって、そこまで行ったら休む、ということが多かった。

今日は何も予定がないので、近所の紫陽花と夏椿を見に行けるかな、と思い眠りについたのに・・結局は一歩も外へ出なかった。
自分の予定がなくても、施設側で作ってある予定、週1回の寝具のリネン交換とか、部屋の簡単な掃除とか・・その時に部屋を留守にするとあとで面倒。それが、土曜日は何もない。ところが今朝、いつもより早く目覚めてしまいたまにはいいか、と5時半ごろベッドから出た。そこまではまだ良かった。
6時半ごろ、寛いでいたらゆらり、と大きな地震が・・ベッドに腰かけてテレビを見ていたので、思わずベッドへ伏せた。地震ではない、スマホの警報は鳴らなかったし、私の体が大揺れしただけ。時々、震度2くらいの目眩は起きるが、今朝は震度4くらいだった。
こんな「揺れ方」の目眩は久しぶりのこと。なかなか収まらないのでベッドの緊急呼び出し(病院のベッドみたいな装置)を押そうかと思って、やめた。しばらくして起き上がれるようになったので血圧測ったら、正常値だ。
ただの自立神経失調の目眩、一昨日の低温と昨日今日との気温差10℃という変化に、体調がついていかないのだろう。そんな訳で、目眩に支配され一日を棒に振った。でも食欲はあるから大丈夫、味覚障害は少し元へ戻ってきたし。

15日締切のネット句会に、初めて「余生」という句を作って出句した。今月の題は「明易(短夜)・蛙」だった。私は今までは、余生の句を作る同年配の人たちをけなしてきた。自分の今を、余った人生、と言い切るのは他人の句でも、どうにもしっくりしなかった。
「余生」を広辞苑に見ると「残りの人生、老後に残された人生、余命」とあった。
もう余生だな、と最近は思うし、思っても良い暮らしなのだ。施設に居ても健康に何も問題ない人は、社会へ出て積極的な暮らしをしようと思えば出来る。入所後も勤めを続けている人も居る、と聞いていた。コロナ禍以後は居なくなっている。
ネット句会の毎月の「題」で作る句はフィクションも多いから、何も正直に自分を句にすることでもないが・・余生、と句帳に書いてみたら自分のこととして少し本気で考えてしまった。

病気の体調不良でこれだけの行動制限がかかっている私の今の日々、やっぱり余生。余生、は人が決めるものではなく、自分でそう思えば余生なのだ。と、最近は理解した。
俳句初心者の頃、一流企業を定年退職したばかりの人が「余生」と句に詠んで、私は句会で「余生、なんてそう簡単に言う年齢ではないでしょ」などと生意気なことを言ったが・・仕事人間だった彼にとっては、重役になれず俳句なんぞを考えている自分の暮らしは、人生の中では「残った時間」そのものだったのだ。何歳過ぎたから余生、ではなく人それぞれ異なる余生なのだから、年齢では測れないものなのだ。
普通の人間の私は・・身の廻りの98%のかたちあるモノを棄てて今の暮らしを選んだ。やっぱりこれ、余生でしょう。「病気と共に余生を老人ホームで過ごす」悪くはない表現に思えてきた。20年前に考えていたようには案外、寂しい表現ではない。
で、ネット句会で少しは評価のあった句は下記。

明易を覚めて余生と実感す  KUMI

コメント (4)
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