山口地区は、白鷹町役場の西北西約5kmのところ
県道11号線が西から南に向きを変える所の
西側少し上に大きな駐車場が桜の前に有ります
十二の桜の由来記です
十二の桜の由来について
1、なぜ”十二”の桜なのか
”十二の桜”とは、一口に言えば山際薬師堂建立と関連で
十二神堂が建てられ、そこに植えられた桜なので呼称された
ものであろう。
然らば、十二神堂とはそも何なのであろうか。それは、薬
師如来の護法善神であり、薬師如来を信ずる者を守護する神
であり、本尊は12体の木像である。その神堂がこの地にあ
ったと思われる。安政6年(1859年)山口村水帳(土地
台帳)に、小字十二神とこの地を定めて居る。少なくともそ
の頃までは、十二神堂が現存したものと思われる。
下って、明治9年(1876年)山口村地籍には神の字が
消えて、十二とのみ字名が記されている。いつの日からか十
二神堂が廃堂となったものであろう。今、十二神像は山際薬
師堂内の一隅に安置されている。
2、いつ誰が植えられたものだろうか
この桜を植えられた年代等について記載された文献など定
かなものは無い。只、伝説等を詳細整理して見ると、現存す
る桜樹は三代目の根生え樹と言われている。蚕桑村の郷土誌
(昭和47年発刊)を参考に検討すると、次のような姿が浮
かんでくる。
即ち、平安後期(1120年頃)今から約870年前、藤
原安親(横越太郎鮎貝氏の祖)が下長井の庄司として当地を
支配した時代、彼は政治の基本を仏教に置き、各地に薬師堂
等を盛に建立し、同じ樹種のエドヒガン桜を植えられたもの
であろう。(高玉薬師桜・鮎貝西口の桜・伊佐沢久保の桜等
数多い)、尚、山際薬師如来堂境内の老巨杉薬師大杉もこの
桜と同年代のものと思われる。
3、平安の時代から平成の時代へ
平安の時代から平成まで約870年、幾多の風雪を経て、
しかも三代に亘り確実に成長をくり返してきたその生命力に、
吾々は深く教えられるものがある。
昭和9年(1934年)冬の大豪雪被害をうけ、且つて全
国桜名木番附東前頭筆頭(雑誌家の光)にあった名木十二の
桜(二代目)も老衰し、その根生えの三代目が後を継ぎ現在
に至つた。
平成の時代に入り、地域の人々が郷土愛に燃え、十二の桜
保存会(昭和22年結成)に活を入れ、関係各位の力強い御
賛同御協力を得て、十二の桜公園の整備を図った。使命を終
えた初代初代かすかに古姿を残す二代目もさぞ満足であろう。
そして、この三代目は力強く往時の全盛期を凌ぐ大桜樹と
成って、後世の人々の目と心を和まして呉ることでしょう。
結び
十二の桜は、薬師信仰と一体のものと思われる。平安末期
の乱れた京の姿を見た安親は、一族が礎いた奥州平泉文化に
あこがれたのも当然であろう。
また、そこには病苦災厄なく百花乱れ咲き、霊鳥法音を発
する浄土世界を建設されたとされる。薬師瑠璃光如来を信仰
されたのも理解出来る。百花乱れ咲く文化の里の願を込めて
植えられた十二の桜と思えてならない。公園整備にかける村
人の姿を見るとき、その昔植えられた人の心と同じ心に思え
るのは筆者だけであろうか。
平成3年8月吉日 十二の桜保存会
十二の桜です
南側から
置賜さくら回廊の案内ボードです
では、次へ行きましょう
県道11号線が西から南に向きを変える所の
西側少し上に大きな駐車場が桜の前に有ります
十二の桜の由来記です
十二の桜の由来について
1、なぜ”十二”の桜なのか
”十二の桜”とは、一口に言えば山際薬師堂建立と関連で
十二神堂が建てられ、そこに植えられた桜なので呼称された
ものであろう。
然らば、十二神堂とはそも何なのであろうか。それは、薬
師如来の護法善神であり、薬師如来を信ずる者を守護する神
であり、本尊は12体の木像である。その神堂がこの地にあ
ったと思われる。安政6年(1859年)山口村水帳(土地
台帳)に、小字十二神とこの地を定めて居る。少なくともそ
の頃までは、十二神堂が現存したものと思われる。
下って、明治9年(1876年)山口村地籍には神の字が
消えて、十二とのみ字名が記されている。いつの日からか十
二神堂が廃堂となったものであろう。今、十二神像は山際薬
師堂内の一隅に安置されている。
2、いつ誰が植えられたものだろうか
この桜を植えられた年代等について記載された文献など定
かなものは無い。只、伝説等を詳細整理して見ると、現存す
る桜樹は三代目の根生え樹と言われている。蚕桑村の郷土誌
(昭和47年発刊)を参考に検討すると、次のような姿が浮
かんでくる。
即ち、平安後期(1120年頃)今から約870年前、藤
原安親(横越太郎鮎貝氏の祖)が下長井の庄司として当地を
支配した時代、彼は政治の基本を仏教に置き、各地に薬師堂
等を盛に建立し、同じ樹種のエドヒガン桜を植えられたもの
であろう。(高玉薬師桜・鮎貝西口の桜・伊佐沢久保の桜等
数多い)、尚、山際薬師如来堂境内の老巨杉薬師大杉もこの
桜と同年代のものと思われる。
3、平安の時代から平成の時代へ
平安の時代から平成まで約870年、幾多の風雪を経て、
しかも三代に亘り確実に成長をくり返してきたその生命力に、
吾々は深く教えられるものがある。
昭和9年(1934年)冬の大豪雪被害をうけ、且つて全
国桜名木番附東前頭筆頭(雑誌家の光)にあった名木十二の
桜(二代目)も老衰し、その根生えの三代目が後を継ぎ現在
に至つた。
平成の時代に入り、地域の人々が郷土愛に燃え、十二の桜
保存会(昭和22年結成)に活を入れ、関係各位の力強い御
賛同御協力を得て、十二の桜公園の整備を図った。使命を終
えた初代初代かすかに古姿を残す二代目もさぞ満足であろう。
そして、この三代目は力強く往時の全盛期を凌ぐ大桜樹と
成って、後世の人々の目と心を和まして呉ることでしょう。
結び
十二の桜は、薬師信仰と一体のものと思われる。平安末期
の乱れた京の姿を見た安親は、一族が礎いた奥州平泉文化に
あこがれたのも当然であろう。
また、そこには病苦災厄なく百花乱れ咲き、霊鳥法音を発
する浄土世界を建設されたとされる。薬師瑠璃光如来を信仰
されたのも理解出来る。百花乱れ咲く文化の里の願を込めて
植えられた十二の桜と思えてならない。公園整備にかける村
人の姿を見るとき、その昔植えられた人の心と同じ心に思え
るのは筆者だけであろうか。
平成3年8月吉日 十二の桜保存会
十二の桜です
南側から
置賜さくら回廊の案内ボードです
では、次へ行きましょう