本海野地区は、東御市役所の西約2kmのところ
千曲川右岸に曾ての中山道海野宿が観光池となっています
海野宿の東詰に白鳥神社が鎮座します
観光客用の駐車場がすぐ東側に有ります
東御市観光マップです
境内入口です
郷社 白鳥神社です
海野氏・真田氏の氏神だったのですね
説明版です
白鳥神社の社叢
昭和56年指定東御市天然記念物
海野宿の東端に位置する白鳥神社は、中世豪族・海野氏
の氏神であったが、現在は本海野区の産土神として祀られ
ている。
この神社の社叢は、けやき、杉、槐などの大木によって
構成されており、立派な鎮守の森となっている。
拝殿前のけやきの御神木は、胸高周囲約5,8m・樹高
30mにもおよぶ大木である。
東御市教育委員会
水盤です
境内に入ると参道左側に目的のケヤキの御神木です
南東側から
説明版です
重要伝統的建造物群保存地区
昭和62年4月28日選定(環境物件)
御神木
欅(ケヤキ)
樹齢700年以上
目通り幹囲7,3m
建久2年(1191年)海野幸氏が現在の場所に白鳥神社の
社殿を遷したと伝わります。木曽義仲の嫡男・清水冠者義高の
側近として鎌倉入りした海野幸氏は、のちに源頼朝に仕え、鎌
倉武士の弓馬四天王として名を馳せました。一族の中興の祖で
もあった幸氏。樹齢から推定して、その時代に植えられた古木
であるのかもしれません。
海野の地の栄枯盛衰、その永き歴史を見続けてきた御神木で
す。 とうみ
拝殿です
本殿です
境内南西端のケヤキの大木です
北東端のケヤキです
境内への東側入り口のケヤキです
境内内側から境内東端にはケヤキの大木が並びます
境内南東端に槐(エンジュ)の大木です
木曽義仲公挙兵の地の説明版です
木曽義仲挙兵の地
(白鳥河原の勢揃)
治承5年(1181)6月、後白河法皇の第二皇子、高倉宮
以仁王の発した平家討伐の令旨に応じ木曽に旗挙げした木曽次
郎源義仲は、丸子の依田城を経て、ここ白鳥神社前に広がる千
曲川原「白鳥河原」に挙兵しました。平家物語、源平盛衰記に
語り継がれる「白鳥河原の勢揃」です。義仲のもとに馳せ参じ
たのは樋口・・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣団を
はじめ、地元の海野・弥津・望月・小室ら滋野一族とした東信
濃の豪族と、西上州の武士団が集結。その数、二千騎とも三千
騎とも云われています。当時の海野郷は滋野一族の宗家、海野
氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝であった。
義仲は長野の横田河原、越中の倶利加羅峠で平家大軍を撃破
し破竹の勢いで京都に上洛。寿永3年(1184)1月、征夷
大将軍に任ぜられるも、その十数日後、近江粟津で戦死、旭将
軍の挙兵はわずか3年の悲運に終わります。
木曽義仲挙兵において中格を担った海野氏。中原兼遠から義
仲を託された当主・海野幸親のもと、嫡男・海野幸広は侍大将
を担い(備中水島の海戦で戦死)次男・海野通広は義仲の祐筆
で軍師としても活躍した大夫房覚明であると云われています。
また、幸広の嫡男・海野幸氏は義仲の滅亡後に源頼朝に仕え、
鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せた。
東御市教育委員会
海野宿の現在の地割図です
海野氏の石碑です
では、次へ行きましょう
千曲川右岸に曾ての中山道海野宿が観光池となっています
海野宿の東詰に白鳥神社が鎮座します
観光客用の駐車場がすぐ東側に有ります
東御市観光マップです
境内入口です
郷社 白鳥神社です
海野氏・真田氏の氏神だったのですね
説明版です
白鳥神社の社叢
昭和56年指定東御市天然記念物
海野宿の東端に位置する白鳥神社は、中世豪族・海野氏
の氏神であったが、現在は本海野区の産土神として祀られ
ている。
この神社の社叢は、けやき、杉、槐などの大木によって
構成されており、立派な鎮守の森となっている。
拝殿前のけやきの御神木は、胸高周囲約5,8m・樹高
30mにもおよぶ大木である。
東御市教育委員会
水盤です
境内に入ると参道左側に目的のケヤキの御神木です
南東側から
説明版です
重要伝統的建造物群保存地区
昭和62年4月28日選定(環境物件)
御神木
欅(ケヤキ)
樹齢700年以上
目通り幹囲7,3m
建久2年(1191年)海野幸氏が現在の場所に白鳥神社の
社殿を遷したと伝わります。木曽義仲の嫡男・清水冠者義高の
側近として鎌倉入りした海野幸氏は、のちに源頼朝に仕え、鎌
倉武士の弓馬四天王として名を馳せました。一族の中興の祖で
もあった幸氏。樹齢から推定して、その時代に植えられた古木
であるのかもしれません。
海野の地の栄枯盛衰、その永き歴史を見続けてきた御神木で
す。 とうみ
拝殿です
本殿です
境内南西端のケヤキの大木です
北東端のケヤキです
境内への東側入り口のケヤキです
境内内側から境内東端にはケヤキの大木が並びます
境内南東端に槐(エンジュ)の大木です
木曽義仲公挙兵の地の説明版です
木曽義仲挙兵の地
(白鳥河原の勢揃)
治承5年(1181)6月、後白河法皇の第二皇子、高倉宮
以仁王の発した平家討伐の令旨に応じ木曽に旗挙げした木曽次
郎源義仲は、丸子の依田城を経て、ここ白鳥神社前に広がる千
曲川原「白鳥河原」に挙兵しました。平家物語、源平盛衰記に
語り継がれる「白鳥河原の勢揃」です。義仲のもとに馳せ参じ
たのは樋口・・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣団を
はじめ、地元の海野・弥津・望月・小室ら滋野一族とした東信
濃の豪族と、西上州の武士団が集結。その数、二千騎とも三千
騎とも云われています。当時の海野郷は滋野一族の宗家、海野
氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝であった。
義仲は長野の横田河原、越中の倶利加羅峠で平家大軍を撃破
し破竹の勢いで京都に上洛。寿永3年(1184)1月、征夷
大将軍に任ぜられるも、その十数日後、近江粟津で戦死、旭将
軍の挙兵はわずか3年の悲運に終わります。
木曽義仲挙兵において中格を担った海野氏。中原兼遠から義
仲を託された当主・海野幸親のもと、嫡男・海野幸広は侍大将
を担い(備中水島の海戦で戦死)次男・海野通広は義仲の祐筆
で軍師としても活躍した大夫房覚明であると云われています。
また、幸広の嫡男・海野幸氏は義仲の滅亡後に源頼朝に仕え、
鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せた。
東御市教育委員会
海野宿の現在の地割図です
海野氏の石碑です
では、次へ行きましょう