豊野町豊野地区は、長野市役所野北東約10kmのところ
国道18号線アップルラインを北東へ進むと赤沼南信号の次の信号を左(北)へ、県道368号村山豊野停車場線です、北陸新幹線の高架を潜り、北しなの線を陸橋で越えた信号を右(東)へ、右手の丘の上に多賀神社が東向参道で鎮座します
参道入口北側の道路脇に車を止めさせて頂きました
駅前商店街の西端に多賀神社参道が見えて来ました
参道入口です
石段を上がると鳥居です
立派な水盤です
鳥居の右手に目的にケヤキが在ります
東側から
南側から
境内側(西)から
境内北側の社ですが、お名前が有りません
拝殿です
本殿覆い屋です
拝殿前から参道の鳥居とケヤキです
拝殿北側のケヤキです、参道の北側には多くのケヤキが在ったようですが伐られてしまっています
拝殿前南側境内端にはエンジュの大木です、目通り幹囲3.6mの大木です
お百度数え石ですね
鳥居の左手には家形庚申塔です
文化財標柱です
説明版です
市指定有形民俗文化財
多賀神社の石殿型庚申塔
平成17年1月1日指定
この庚申塔は、慶安5年(1652)8月10日の銘がある入母屋屋根の石祠である。
塔身上部と窓の両側に二鶏・二猿が彫られ、祠内には猿田彦を中心とする光背型三尊石像が安置されている。以前は神社の下を通る松代街道沿いで中尾への道の分岐点にあった。
庚申は、十干十二支の組み合わせで60日ごとに廻ってくる。中国では道教の説で、庚申の夜眠ると体内の三尸虫が抜け出して、その人の罪を天帝に告げるとも、命を縮めるともいい、虫が体内から抜け出ぬように徹夜する習慣があった。
この守庚申が平安時代に日本に伝わり、次第に貴族から武士へと広がって庚申侍と呼ばれるようになった。のちに民間信仰となり、江戸時代になると豊作福運を祈る庚申講が盛んとなり、仏家では帝釈天および青面金剛を、神道では猿田彦を祀って徹夜した。
入母屋・宝塔型の庚申塔は年代が古いだけでなく、善光寺平を中心とした北信地方に圧倒的に多いといわれ、この地方の特徴でもある。
平成26年3月20日
長野市教育委員会
では、次へ行きましょう
国道18号線アップルラインを北東へ進むと赤沼南信号の次の信号を左(北)へ、県道368号村山豊野停車場線です、北陸新幹線の高架を潜り、北しなの線を陸橋で越えた信号を右(東)へ、右手の丘の上に多賀神社が東向参道で鎮座します
参道入口北側の道路脇に車を止めさせて頂きました
駅前商店街の西端に多賀神社参道が見えて来ました
参道入口です
石段を上がると鳥居です
立派な水盤です
鳥居の右手に目的にケヤキが在ります
東側から
南側から
境内側(西)から
境内北側の社ですが、お名前が有りません
拝殿です
本殿覆い屋です
拝殿前から参道の鳥居とケヤキです
拝殿北側のケヤキです、参道の北側には多くのケヤキが在ったようですが伐られてしまっています
拝殿前南側境内端にはエンジュの大木です、目通り幹囲3.6mの大木です
お百度数え石ですね
鳥居の左手には家形庚申塔です
文化財標柱です
説明版です
市指定有形民俗文化財
多賀神社の石殿型庚申塔
平成17年1月1日指定
この庚申塔は、慶安5年(1652)8月10日の銘がある入母屋屋根の石祠である。
塔身上部と窓の両側に二鶏・二猿が彫られ、祠内には猿田彦を中心とする光背型三尊石像が安置されている。以前は神社の下を通る松代街道沿いで中尾への道の分岐点にあった。
庚申は、十干十二支の組み合わせで60日ごとに廻ってくる。中国では道教の説で、庚申の夜眠ると体内の三尸虫が抜け出して、その人の罪を天帝に告げるとも、命を縮めるともいい、虫が体内から抜け出ぬように徹夜する習慣があった。
この守庚申が平安時代に日本に伝わり、次第に貴族から武士へと広がって庚申侍と呼ばれるようになった。のちに民間信仰となり、江戸時代になると豊作福運を祈る庚申講が盛んとなり、仏家では帝釈天および青面金剛を、神道では猿田彦を祀って徹夜した。
入母屋・宝塔型の庚申塔は年代が古いだけでなく、善光寺平を中心とした北信地方に圧倒的に多いといわれ、この地方の特徴でもある。
平成26年3月20日
長野市教育委員会
では、次へ行きましょう