百舌鳥八幡宮からJR阪和線百舌鳥駅へ、大阪市内へ戻る各駅停車の電車に乗って8ッつ目の南田辺駅で降りました
南田辺駅東口を出て、自転車置き場を抜けて北へ進みます、駅北側の通りを東へ進むと間も無く土塀の内側にクスノキの大木が見えて来ます
法楽寺は南向き参道、立派な山門が有ります
南田辺駅東口です
駅の北側の道路を東へ進むと
法楽寺入口山門です
小松院法楽寺です、大聖不動明王が本尊ですね
田辺不動尊とよばれています
境内説明版です、目的のクスノキは境内右手に在るようです
略縁起
法楽寺の創建は治承二年(1178年)、平家の棟梁小松内大臣 平重盛公によりお堂が建立されました
源義朝公の念持仏、如意輪観世音菩薩を祀り、怨親平等(絶対平等の慈悲の心)で平家・源氏の菩提を祀ることでした。
その為に、宋国 阿育王寺に黄金三千両(陸前高田産出:岩手県)を施し結縁を求めました。阿育王寺仏照律師は重盛公の篤志に応えて印度渡来の二顆の仏舎利を重盛公に贈られました。(平家物語に記述が有ります)
元亀二年(1571年)秋、信長の兵火(河内攻め)により堂舎等焼失、荒廃、その後永きに渡り無住の時代(140年)が続きましたが、正徳元年(1711年)高徳の僧、洪善普摂和上が普山和歌山の雑賀衆の帰依を受け大和大宇陀の松山藩織田家の殿舎を移築し、お寺の再興に尽力しました。今日の山門・本堂はその時の建物です。
その後、洪善普摂律師,、忍綱貞紀和上と碩徳の住職が続きそのお弟子の慈雲飲光律師は「日本の小釈迦」と称され、また尊者と慕われた学徳兼備な高僧でした。
以来300年、脈々と法灯は護持され今日を迎えています。
境内に入ると正面に三重塔です
南西側から
左手に手水舎です
手水舎の脇のクスノキの大木です
保存樹標識です
参道左手の大師堂です
本堂は正面です
三重塔北西側に鶏です
三重塔北側にお地蔵様です
本堂です
本堂前のびんずる尊者の像です
右手に鐘楼です
参道から目的のクスノキを見ました
西側からお不動様越えに目的のクスノキです
北西向きにお稲荷様です
二宮金次郎・・・
南東側から・・・なぜか天狗面が
南西側から
根元に天然記念物表示板です
鐘楼の東側に境内社です
では、次へ行きましょう
南田辺駅東口を出て、自転車置き場を抜けて北へ進みます、駅北側の通りを東へ進むと間も無く土塀の内側にクスノキの大木が見えて来ます
法楽寺は南向き参道、立派な山門が有ります
南田辺駅東口です
駅の北側の道路を東へ進むと
法楽寺入口山門です
小松院法楽寺です、大聖不動明王が本尊ですね
田辺不動尊とよばれています
境内説明版です、目的のクスノキは境内右手に在るようです
略縁起
法楽寺の創建は治承二年(1178年)、平家の棟梁小松内大臣 平重盛公によりお堂が建立されました
源義朝公の念持仏、如意輪観世音菩薩を祀り、怨親平等(絶対平等の慈悲の心)で平家・源氏の菩提を祀ることでした。
その為に、宋国 阿育王寺に黄金三千両(陸前高田産出:岩手県)を施し結縁を求めました。阿育王寺仏照律師は重盛公の篤志に応えて印度渡来の二顆の仏舎利を重盛公に贈られました。(平家物語に記述が有ります)
元亀二年(1571年)秋、信長の兵火(河内攻め)により堂舎等焼失、荒廃、その後永きに渡り無住の時代(140年)が続きましたが、正徳元年(1711年)高徳の僧、洪善普摂和上が普山和歌山の雑賀衆の帰依を受け大和大宇陀の松山藩織田家の殿舎を移築し、お寺の再興に尽力しました。今日の山門・本堂はその時の建物です。
その後、洪善普摂律師,、忍綱貞紀和上と碩徳の住職が続きそのお弟子の慈雲飲光律師は「日本の小釈迦」と称され、また尊者と慕われた学徳兼備な高僧でした。
以来300年、脈々と法灯は護持され今日を迎えています。
境内に入ると正面に三重塔です
南西側から
左手に手水舎です
手水舎の脇のクスノキの大木です
保存樹標識です
参道左手の大師堂です
本堂は正面です
三重塔北西側に鶏です
三重塔北側にお地蔵様です
本堂です
本堂前のびんずる尊者の像です
右手に鐘楼です
参道から目的のクスノキを見ました
西側からお不動様越えに目的のクスノキです
北西向きにお稲荷様です
二宮金次郎・・・
南東側から・・・なぜか天狗面が
南西側から
根元に天然記念物表示板です
鐘楼の東側に境内社です
では、次へ行きましょう