中条日下野地区は、長野市役所の西約12kmのところ
国道19号線を西へ(犬戻トンネルの西詰めが土砂崩れの為片側交互通行した),笹平トンネル東信号から県道31号長野大町線を南へ入ります県道は国道19号の旧道です、笹平で斜め右へトンネル道路を避けるようにトンネルの上を越えています、3km程進んで県道452号古屋敷境の沢線を北へ、坂道を延々と登ります、標高500mを越えて梅木鉱泉を過ぎて県道401号小川長野線を東に向かいますが、すぐに県道をそれて北東へ向かいます、臥雲院の案内板が出ていますので案内に従って進みます
(大内山神社の日下野のスギを見てから臥雲の三本杉へ向かいます)
参道入口の道路脇に車を止めさせて頂きました
途中の県道脇に「中条村名所旧跡案内図」が有ります、目的の2か所のスギが案内図右上に載っています、まだまだですね
「石原」の案内板です、臥雲院まで600mです
臥雲院が見えました
臥雲院参道入口です
左手に目的の「臥雲の三本杉」です
臥雲院石柱のすぐ左手に在ります
南南東から
天然記念物標柱です
説明版です
長野市指定天然記念物
昭和55年5月1日指定
名称 卧雲の三本スギ
所有者 中条卧雲院
指定理由
この杉は地上3mのところで分岐して三幹となるが、ここで周囲約11mを有し,中央の幹は周囲4.5m、長さ39m余ある。他の二幹はこれに及ばないが村内屈指の大杉である。
かつて上方約180mの地にあったが、弘化4年(1847)3月24日の大地震に大地と共に滑り落ちたもので、45度に傾いているのはそのためである。
樹齢は明らかでないが、600年かと推定される大杉で、希有の大震災の史実を物語るものとしても貴重な天然記念物である。
長野市教育委員会
東側から
北側から
参道石段前から
参道石段です
山門です
六地蔵さまです
左側には石塔や石像が並びます
境内右手には「鎮守堂」です
鐘楼です
手水舎です
寺伝説明版です
曹洞宗 眠月山臥雲院の歴史
史実によると大同年間(806~809年)天台宗普済寺が開創され、370年位を経て、寿永年間に一時衰微し、後、源頼朝公の力により建久8年に再建された実に臥雲院の前身であるといわれている。
その後、鎌倉五山の一つ、建長寺の雷峯妙霖禅師は、ここ日里の山中に於て霊感を得、その地に七堂伽藍を建立、臨済宗眠月山雲上寺臥雲院を開基された。その時〔1328年〕であった。
時移り応仁の乱、川中島合戦等打ち続く戦乱の中から各地の寺院は戦火に遭う等衰微しつつあった、たまたまこの地の豪族萩野〔現在の笹平〕城主、春日大膳太夫景政、同修理太夫影秀父子は臥雲院の荒廃を憂い、仁科郡駒沢村〔現在の大町市平区〕神龍山大沢寺の八世南室寿頓を請して臥雲院の始祖とし、臥雲院中興の始祖とし、臨済宗を曹洞宗に改め、七堂伽藍を再建二十貫の地を景政公等より寄進されその再興をはかった。
眠月山臥雲院は、この時より大沢寺東末山〔臥雲院、性乗寺、大安寺、明松寺〕の筆頭として今日の臥雲院の基が定まったのである。時に永禄元年8月(1558年)であった。
以来歴代名僧が輩出し順次、久昌寺、正泉寺、西福寺、普済寺、五岺寺の五末寺が開創され、年々隆昌の一途を辿ったのである。
その後宝暦5年〔1755年〕2月10日火災起り総門を除く諸堂を焼失、その再建は天保年間〔1830~1843年〕に完成した。
弘化4年〔1847年〕3月24日夜善光寺大地震起り裏山が崩落完成間もない七堂伽藍はこれと同時に出火し炎を吹きながら4丁余渓間に転落埋没した、これより檀信徒は一丸となって再建をはかり、翌嘉永元年〔1850年〕本堂を、明治20年〔1887年〕衆寮を、また明治23年〔1890年〕鐘楼堂を再建往時の大伽藍を悉く再建して、西山中随一の偉容を見るに至ったのである。
第二次世界大戦による鐘の供出、終戦後これを再鋳、檀徒の菩提寺護持の信力が結集この大伽藍が護られて来たが、いずれも100年以上を経て老朽化したので、26世賢眞頼光和尚、大改修を発願、昭和56年より3ヶ年計画により本堂庫裏大屋根等の大改修事業を計画、全檀信徒の多額の浄財を得て、昭和の大改修・平成の大改修を経て山内を一新,平成9年10月に竣工した。
大師堂です
信濃新四国札所としての由緒説明版です
本堂です
モザイク画です
境内端から「臥雲の三本杉」を見下ろしました
では、次へ行きましょう
国道19号線を西へ(犬戻トンネルの西詰めが土砂崩れの為片側交互通行した),笹平トンネル東信号から県道31号長野大町線を南へ入ります県道は国道19号の旧道です、笹平で斜め右へトンネル道路を避けるようにトンネルの上を越えています、3km程進んで県道452号古屋敷境の沢線を北へ、坂道を延々と登ります、標高500mを越えて梅木鉱泉を過ぎて県道401号小川長野線を東に向かいますが、すぐに県道をそれて北東へ向かいます、臥雲院の案内板が出ていますので案内に従って進みます
(大内山神社の日下野のスギを見てから臥雲の三本杉へ向かいます)
参道入口の道路脇に車を止めさせて頂きました
途中の県道脇に「中条村名所旧跡案内図」が有ります、目的の2か所のスギが案内図右上に載っています、まだまだですね
「石原」の案内板です、臥雲院まで600mです
臥雲院が見えました
臥雲院参道入口です
左手に目的の「臥雲の三本杉」です
臥雲院石柱のすぐ左手に在ります
南南東から
天然記念物標柱です
説明版です
長野市指定天然記念物
昭和55年5月1日指定
名称 卧雲の三本スギ
所有者 中条卧雲院
指定理由
この杉は地上3mのところで分岐して三幹となるが、ここで周囲約11mを有し,中央の幹は周囲4.5m、長さ39m余ある。他の二幹はこれに及ばないが村内屈指の大杉である。
かつて上方約180mの地にあったが、弘化4年(1847)3月24日の大地震に大地と共に滑り落ちたもので、45度に傾いているのはそのためである。
樹齢は明らかでないが、600年かと推定される大杉で、希有の大震災の史実を物語るものとしても貴重な天然記念物である。
長野市教育委員会
東側から
北側から
参道石段前から
参道石段です
山門です
六地蔵さまです
左側には石塔や石像が並びます
境内右手には「鎮守堂」です
鐘楼です
手水舎です
寺伝説明版です
曹洞宗 眠月山臥雲院の歴史
史実によると大同年間(806~809年)天台宗普済寺が開創され、370年位を経て、寿永年間に一時衰微し、後、源頼朝公の力により建久8年に再建された実に臥雲院の前身であるといわれている。
その後、鎌倉五山の一つ、建長寺の雷峯妙霖禅師は、ここ日里の山中に於て霊感を得、その地に七堂伽藍を建立、臨済宗眠月山雲上寺臥雲院を開基された。その時〔1328年〕であった。
時移り応仁の乱、川中島合戦等打ち続く戦乱の中から各地の寺院は戦火に遭う等衰微しつつあった、たまたまこの地の豪族萩野〔現在の笹平〕城主、春日大膳太夫景政、同修理太夫影秀父子は臥雲院の荒廃を憂い、仁科郡駒沢村〔現在の大町市平区〕神龍山大沢寺の八世南室寿頓を請して臥雲院の始祖とし、臥雲院中興の始祖とし、臨済宗を曹洞宗に改め、七堂伽藍を再建二十貫の地を景政公等より寄進されその再興をはかった。
眠月山臥雲院は、この時より大沢寺東末山〔臥雲院、性乗寺、大安寺、明松寺〕の筆頭として今日の臥雲院の基が定まったのである。時に永禄元年8月(1558年)であった。
以来歴代名僧が輩出し順次、久昌寺、正泉寺、西福寺、普済寺、五岺寺の五末寺が開創され、年々隆昌の一途を辿ったのである。
その後宝暦5年〔1755年〕2月10日火災起り総門を除く諸堂を焼失、その再建は天保年間〔1830~1843年〕に完成した。
弘化4年〔1847年〕3月24日夜善光寺大地震起り裏山が崩落完成間もない七堂伽藍はこれと同時に出火し炎を吹きながら4丁余渓間に転落埋没した、これより檀信徒は一丸となって再建をはかり、翌嘉永元年〔1850年〕本堂を、明治20年〔1887年〕衆寮を、また明治23年〔1890年〕鐘楼堂を再建往時の大伽藍を悉く再建して、西山中随一の偉容を見るに至ったのである。
第二次世界大戦による鐘の供出、終戦後これを再鋳、檀徒の菩提寺護持の信力が結集この大伽藍が護られて来たが、いずれも100年以上を経て老朽化したので、26世賢眞頼光和尚、大改修を発願、昭和56年より3ヶ年計画により本堂庫裏大屋根等の大改修事業を計画、全檀信徒の多額の浄財を得て、昭和の大改修・平成の大改修を経て山内を一新,平成9年10月に竣工した。
大師堂です
信濃新四国札所としての由緒説明版です
本堂です
モザイク画です
境内端から「臥雲の三本杉」を見下ろしました
では、次へ行きましょう