田沢湖卒田黒倉地区は、仙北市田沢湖庁舎の南西約13km
仙北市角館庁舎の東北東約8kmのところです
角館庁舎側からは、国道105号線の上菅沢信号から県道257号広久内角館停車場線を東へ
道成りに進んで、広久内橋北詰で県道50号線に変わると間も無く、「わらび劇場」と温泉施設の「秋田芸術村温泉ゆぽぽ」入口です
*わらび劇場は、日本の劇団、劇団四季・宝塚歌劇団に次ぐ規模の劇団「わらび座」の本拠地(常設劇場:定員710名)です
すぐ先の変形十字路を右へ、突き当りを右へ進んで神代発電所の放水路を超えると広い抱返り渓谷駐車場です
抱返り渓谷の石碑越しに渓谷を眺めました
抱返り渓谷案内図ですが、解かりずらいですね~、数字も変ですよね~、でも目的の抱返神社はすぐそこの様です
観光案内図です、ミシュラン・グリーンガイドで星一つだそうです
抱返り渓谷への遊歩道に入って直ぐに鳥居です、先の右手に南西向きに抱返神社が鎮座します
杉林の間から境内に目的のイチョウが見えました
参道入口鳥居です
説明版です
抱返神社の由来
康平5年(1062年9月7日)前九年の役で源義家が、盛岡厨川の(くりやがわ)の柵の安部貞任を攻める為、此の地より玉川の川筋を進もうとし、川の流れの静かなる事を願って、持仏を祀って祈願した。
祈願を済した義家は、再び持仏を懐にして厨川の柵を攻めた、この戦いで義家は勝利を治め、ここまで無事に帰ることが出来た、これを喜んで義家は「これも仏の御蔭」と改めて堂宇を建て懐の持仏を祀ったのが懐返神社の始まりとされ、つまり、祈願した持仏を懐に入れお守りとして持って行き再び帰って来たから「懐き神社」「懐還神社」と言い伝えられています。
尚、明治維新後に抱返神社と改書された。
元録七郡絵図では、村の鎮守は水尺(みずしゃく)明神として図示されているが、現祀神は、水波能賣神を祀っています。また、往古より竜神・水分神・養蚕の守護神として、遠近各地より崇敬を仰いでいます。
康平5年(1062)に建てられたと言う堂宇も、その後幾度か建て替えられた様で、延宝3年9月16日(1676)社殿および長床を建てて若松村鎮守とした。 敬白
絵馬堂入口の説明書きです、参道入口の説明とかなり異なります
抱返神社
【御祭神】 水波能賣神
【由緒】 神社明細帳によると寛文13年、抱返村(現在の若松地区)の開墾の際に水源至難の為、大和の国(現奈良県)丹生川上神社御分霊を勧請し水波能賣神を奉祀しました。
延宝3年9月16日社殿および長床を建てて抱返村の鎮守社としました。これより毎年9月16日を例祭日としています。(現在は旧暦9月16日)
また古老の伝えには、抱返村の開墾の際、あまりにもお天気が続いて水源が枯れて植えつけた苗が枯れ死ぬという騒ぎとなりました。この知らせを聞いた秋田藩主佐竹公は使者に斉藤仁兵衛等を主張させ検分するに、聞きしにもまさる悲惨な様子に、抱返りの水源に雨乞をしたところ、不思議の奇端あり。たちまち掻き曇りて大雨となり枯れかかった苗も生色をみせ、百姓達は大喜びをしました。こうしたことから、渓谷に鎮まる水尺明神(水尺神社)を奉祀したといいます。
抱返村というのは若松新田村の元の名前です。当時この抱返より6kmほど先にある未開発地に、この地から堰を通し水を引いて開墾した地であり抱返神社の氏子地にあたります。
当時「抱返」「懐還」と表記されていました。水尺神社を抱返神社と改名したのは明治維新後です。
雨乞い、龍神・水分神・養蚕の守護神として、遠近各地の崇敬者より篤い信仰をいただいてます。
【絵馬】 神社に参拝した際に、祈願の内容を絵馬に記して奉納しますが、これはもともと、神に本物の馬を供えていたことに由来します。その起源は古く、平安時代に遡ります。祈雨の時は黒馬を、止雨の時には赤馬・白馬を献上していましたが、その後、この代用として馬像や、さらに紙や板に馬の絵を描いた絵馬が奉納されるようになりました。
当神社は、古来より渓谷に鎮まる水を司る神を祀り、雨乞い、龍神・水分神・養蚕の守護神としての信仰篤く、奉納された絵馬はには馬や龍が描かれたものが多数あります。
生きとし生けるものは、すべて水無くしては生命を保持することはできません。稲作をし米を主食とする私たちにおいては、雨を降らせ、また止めるなど雨を司る龍神に対する人々の尊崇の念はきわめて篤く、古来より今日にいたるまで変わることなく続いています。
境内に入ると左の建物に龍の絵馬が飾って有ります
手水舎です
手水舎の後ろにイチョウの大木です
社殿です
では、次へ行きましょう
仙北市角館庁舎の東北東約8kmのところです
角館庁舎側からは、国道105号線の上菅沢信号から県道257号広久内角館停車場線を東へ
道成りに進んで、広久内橋北詰で県道50号線に変わると間も無く、「わらび劇場」と温泉施設の「秋田芸術村温泉ゆぽぽ」入口です
*わらび劇場は、日本の劇団、劇団四季・宝塚歌劇団に次ぐ規模の劇団「わらび座」の本拠地(常設劇場:定員710名)です
すぐ先の変形十字路を右へ、突き当りを右へ進んで神代発電所の放水路を超えると広い抱返り渓谷駐車場です
抱返り渓谷の石碑越しに渓谷を眺めました
抱返り渓谷案内図ですが、解かりずらいですね~、数字も変ですよね~、でも目的の抱返神社はすぐそこの様です
観光案内図です、ミシュラン・グリーンガイドで星一つだそうです
抱返り渓谷への遊歩道に入って直ぐに鳥居です、先の右手に南西向きに抱返神社が鎮座します
杉林の間から境内に目的のイチョウが見えました
参道入口鳥居です
説明版です
抱返神社の由来
康平5年(1062年9月7日)前九年の役で源義家が、盛岡厨川の(くりやがわ)の柵の安部貞任を攻める為、此の地より玉川の川筋を進もうとし、川の流れの静かなる事を願って、持仏を祀って祈願した。
祈願を済した義家は、再び持仏を懐にして厨川の柵を攻めた、この戦いで義家は勝利を治め、ここまで無事に帰ることが出来た、これを喜んで義家は「これも仏の御蔭」と改めて堂宇を建て懐の持仏を祀ったのが懐返神社の始まりとされ、つまり、祈願した持仏を懐に入れお守りとして持って行き再び帰って来たから「懐き神社」「懐還神社」と言い伝えられています。
尚、明治維新後に抱返神社と改書された。
元録七郡絵図では、村の鎮守は水尺(みずしゃく)明神として図示されているが、現祀神は、水波能賣神を祀っています。また、往古より竜神・水分神・養蚕の守護神として、遠近各地より崇敬を仰いでいます。
康平5年(1062)に建てられたと言う堂宇も、その後幾度か建て替えられた様で、延宝3年9月16日(1676)社殿および長床を建てて若松村鎮守とした。 敬白
絵馬堂入口の説明書きです、参道入口の説明とかなり異なります
抱返神社
【御祭神】 水波能賣神
【由緒】 神社明細帳によると寛文13年、抱返村(現在の若松地区)の開墾の際に水源至難の為、大和の国(現奈良県)丹生川上神社御分霊を勧請し水波能賣神を奉祀しました。
延宝3年9月16日社殿および長床を建てて抱返村の鎮守社としました。これより毎年9月16日を例祭日としています。(現在は旧暦9月16日)
また古老の伝えには、抱返村の開墾の際、あまりにもお天気が続いて水源が枯れて植えつけた苗が枯れ死ぬという騒ぎとなりました。この知らせを聞いた秋田藩主佐竹公は使者に斉藤仁兵衛等を主張させ検分するに、聞きしにもまさる悲惨な様子に、抱返りの水源に雨乞をしたところ、不思議の奇端あり。たちまち掻き曇りて大雨となり枯れかかった苗も生色をみせ、百姓達は大喜びをしました。こうしたことから、渓谷に鎮まる水尺明神(水尺神社)を奉祀したといいます。
抱返村というのは若松新田村の元の名前です。当時この抱返より6kmほど先にある未開発地に、この地から堰を通し水を引いて開墾した地であり抱返神社の氏子地にあたります。
当時「抱返」「懐還」と表記されていました。水尺神社を抱返神社と改名したのは明治維新後です。
雨乞い、龍神・水分神・養蚕の守護神として、遠近各地の崇敬者より篤い信仰をいただいてます。
【絵馬】 神社に参拝した際に、祈願の内容を絵馬に記して奉納しますが、これはもともと、神に本物の馬を供えていたことに由来します。その起源は古く、平安時代に遡ります。祈雨の時は黒馬を、止雨の時には赤馬・白馬を献上していましたが、その後、この代用として馬像や、さらに紙や板に馬の絵を描いた絵馬が奉納されるようになりました。
当神社は、古来より渓谷に鎮まる水を司る神を祀り、雨乞い、龍神・水分神・養蚕の守護神としての信仰篤く、奉納された絵馬はには馬や龍が描かれたものが多数あります。
生きとし生けるものは、すべて水無くしては生命を保持することはできません。稲作をし米を主食とする私たちにおいては、雨を降らせ、また止めるなど雨を司る龍神に対する人々の尊崇の念はきわめて篤く、古来より今日にいたるまで変わることなく続いています。
境内に入ると左の建物に龍の絵馬が飾って有ります
手水舎です
手水舎の後ろにイチョウの大木です
社殿です
では、次へ行きましょう