黒木御所は順徳皇が佐渡に島流しとなって住まわれた場所です
黒木とは木の皮を剥いていない木材のことで
この黒木で建てた行宮が、黒木御所となりますなります
かなり粗末な家だったと思われ、この中で「上皇の金北山詣り」のなかでも
村人たちは上皇を高貴な方だと思っていなかったようです
では、
泉地区は、佐渡市役所の西約3kmのところ
県道306号市野沢中興線を西へ
黒木御所入り口を右(北)へ進むと間もなく右手に見えて来ます
向かい側の駐車場に車を止めさせて頂きました
黒木御所跡入り口です
順徳院御配所跡の石碑です
説明版です
黒木御所跡
承久の変(1221)により、順徳上皇は佐渡に配流となり、初め国分寺を行在所と定められたが、当時国主が直接管理していた泉に仮宮を行宮とし、そこに移られた。
御所の四隅には上皇の御持仏であった、観音・阿弥陀・薬師・天神が祀られ、日夜礼拝されたと伝えられている。
順徳院はこの黒木御所に御選幸以来、崩御までの22年間、行在所とされていた。
御所内には昭和天皇が皇太子であられた大正5年7月9日、行幸の際の御手植えの松が実在している。
案内板です
玉垣に囲われています
公園化された境内には歌碑がたくさん建っています
石碑が有りました
上皇の金北山まいり
順徳上皇がここ黒木御所に住まわれていた頃、やむごとなき高貴な方だとつゆ知らず、村人たちはある時上皇を金北山詣りに誘った。丁度その時上皇はドジョウ汁を煮ていたので「ドジョウ汁を食べてから出かける」と言って村人たちから出かけてもらった。あとを追った上皇は、村人たちが帰るのと抜川で出合った、上皇は村人たちと一緒に帰るため「わたしはここで金北山の神様に会うから」と言って川の水で口をすすぎ金北山に向かっておもむろに、かしわ手を打った。すると金北山の神様は白馬にまたがり空中を飛んで来た。村人たちはこの時はじめて、上皇がまみまみまらぬ高貴な方だと思うようになり、上皇を尊敬するようになった。
また、上皇が川の水で口をすすいだ時上皇の口からドジョウが飛び出して来ました。
今でも山中の抜川にドジョウがいるのはそのためであると伝えられる。
案内図が有ります
では、次へ行きましょう
黒木とは木の皮を剥いていない木材のことで
この黒木で建てた行宮が、黒木御所となりますなります
かなり粗末な家だったと思われ、この中で「上皇の金北山詣り」のなかでも
村人たちは上皇を高貴な方だと思っていなかったようです
では、
泉地区は、佐渡市役所の西約3kmのところ
県道306号市野沢中興線を西へ
黒木御所入り口を右(北)へ進むと間もなく右手に見えて来ます
向かい側の駐車場に車を止めさせて頂きました
黒木御所跡入り口です
順徳院御配所跡の石碑です
説明版です
黒木御所跡
承久の変(1221)により、順徳上皇は佐渡に配流となり、初め国分寺を行在所と定められたが、当時国主が直接管理していた泉に仮宮を行宮とし、そこに移られた。
御所の四隅には上皇の御持仏であった、観音・阿弥陀・薬師・天神が祀られ、日夜礼拝されたと伝えられている。
順徳院はこの黒木御所に御選幸以来、崩御までの22年間、行在所とされていた。
御所内には昭和天皇が皇太子であられた大正5年7月9日、行幸の際の御手植えの松が実在している。
案内板です
玉垣に囲われています
公園化された境内には歌碑がたくさん建っています
石碑が有りました
上皇の金北山まいり
順徳上皇がここ黒木御所に住まわれていた頃、やむごとなき高貴な方だとつゆ知らず、村人たちはある時上皇を金北山詣りに誘った。丁度その時上皇はドジョウ汁を煮ていたので「ドジョウ汁を食べてから出かける」と言って村人たちから出かけてもらった。あとを追った上皇は、村人たちが帰るのと抜川で出合った、上皇は村人たちと一緒に帰るため「わたしはここで金北山の神様に会うから」と言って川の水で口をすすぎ金北山に向かっておもむろに、かしわ手を打った。すると金北山の神様は白馬にまたがり空中を飛んで来た。村人たちはこの時はじめて、上皇がまみまみまらぬ高貴な方だと思うようになり、上皇を尊敬するようになった。
また、上皇が川の水で口をすすいだ時上皇の口からドジョウが飛び出して来ました。
今でも山中の抜川にドジョウがいるのはそのためであると伝えられる。
案内図が有ります
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