多賀城碑は、多賀城市役所の北西約kmのところ
多賀城跡の南門跡に在ります
城跡公園には、南門跡と多賀城跡入口に駐車場が有ります
北側道路からの入り口です
多賀城碑の北西面が見えています
南側からの覆い屋です
隙間から覗いてみました
西の文字がはっきり見えますが、他ははっきりしません
案内版です
重要文化財 多賀城碑
多賀城 去京一千五百里
去蝦夷国界一百 里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
他天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝猲修造也
天平宝字六年十二月一日
上部に「西」の字一字があり、その下、細い線で囲んだ中に11行、140字が刻まれ
ています。碑文内容は大きく2つに分かれ、前半は、京(平城京)などから多賀城までの
距離が記されています。当時の一里は約535mです。後半には、神亀元年(724)、
大野朝臣東人が多賀城を設置したこと、天保宝字6年(762)、藤原恵美朝臣朝猲が、
多賀城を修造したことが記され、最期の行に碑を建てた年月日が刻まれています。
碑文の内容が藤原朝猲による修造に力点を置いていることから、多賀城修造記念碑とみ
ることができます。
碑は草枕「壺碑」(つぼのいしぶみ)としても有名で、元禄2年(1689)松尾芭蕉
は「おくの細道」の旅の途中、碑と対面し、そのといの感動を紀行文「おくの細道」に書
き残しています。
また多賀城碑は、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)とともに、
日本三古碑のひとつに数えられています。
多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石文
として貴重であることから、平成10年6月30日、国の重要文化財(古文書)に指定さ
れました。
平成23年2月 多賀城市教育委員会
寸法 高さ196cm、最大幅96cm、厚さ70cm
石材 花崗岩質砂岩
南東側から
では、多賀城跡を見てみましょう
多賀城跡の南門跡に在ります
城跡公園には、南門跡と多賀城跡入口に駐車場が有ります
北側道路からの入り口です
多賀城碑の北西面が見えています
南側からの覆い屋です
隙間から覗いてみました
西の文字がはっきり見えますが、他ははっきりしません
案内版です
重要文化財 多賀城碑
多賀城 去京一千五百里
去蝦夷国界一百 里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
他天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝猲修造也
天平宝字六年十二月一日
上部に「西」の字一字があり、その下、細い線で囲んだ中に11行、140字が刻まれ
ています。碑文内容は大きく2つに分かれ、前半は、京(平城京)などから多賀城までの
距離が記されています。当時の一里は約535mです。後半には、神亀元年(724)、
大野朝臣東人が多賀城を設置したこと、天保宝字6年(762)、藤原恵美朝臣朝猲が、
多賀城を修造したことが記され、最期の行に碑を建てた年月日が刻まれています。
碑文の内容が藤原朝猲による修造に力点を置いていることから、多賀城修造記念碑とみ
ることができます。
碑は草枕「壺碑」(つぼのいしぶみ)としても有名で、元禄2年(1689)松尾芭蕉
は「おくの細道」の旅の途中、碑と対面し、そのといの感動を紀行文「おくの細道」に書
き残しています。
また多賀城碑は、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)とともに、
日本三古碑のひとつに数えられています。
多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石文
として貴重であることから、平成10年6月30日、国の重要文化財(古文書)に指定さ
れました。
平成23年2月 多賀城市教育委員会
寸法 高さ196cm、最大幅96cm、厚さ70cm
石材 花崗岩質砂岩
南東側から
では、多賀城跡を見てみましょう
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