ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県神栖市、息栖「東国三社・息栖神社」です!!

2024-12-16 06:30:37 | 文化財・寺社
 ここからは2024年12月12日の取材分です

 息栖地区は、神栖市役所の西約4kmのところ

 神栖市役所南側の国道124号線を西北西へ向かいます、約900mでガソリンスタンドの手前を左(南西)へ入ります

 約1.9kmの交差点を右(西北西)へ、約1.6kmで一時停止を斜め右(北西)へ、県道260号神栖外環道です

 約500mで左手に「東国三社 息栖神社」の案内板がありますので信号を左(南西)へ入ります

 左手は息栖神社の境内地です、約200mで左手の案内板を左に入ると「ニノ鳥居」前の駐車場です 

 参道のニノ鳥居です

 振り返ると道路の先に一の鳥居は常陸利根川に面して建っています

 東国三社息栖神社社號標です

 水郷筑波国定公園特別地域説明版です
 自然の景観と環境を保護するために、この区域は、自然公園法に基づく「特別地域」に指定されています。
 特別地域内で、工作物の設置や木竹の伐採、指定植物の採取など、景観や自然生態系に影響を与えるような行為を行う場合には、県知事の許可が必要となります。
 自然保護と環境美化のため、皆様のご協力をお願いいたします。
   水郷筑波国定公園指定植物一覧(34科124種)  昭和56年3月23日告示
     以下略ですが、ランなどの草本類が多数を占めています

 境内案内図です

 参道右手に昭和39年7月の息栖神社造営碑です

 説明版です
   息栖神社
 息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を大同2年、右大臣藤原内麿の命に依り、現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
 史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑條、授常陸国 正六位上於岐都説神従五位下」の於岐都説神とは、息栖神社の事とされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)
 古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあった事が記されている。
 祭神は、現在岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、海上守護・交通守護の守り神と奉られている。
 江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曽名所図会、新編常陸国誌)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑「此里は気吹戸主の風寒し」は、その関蓮を物語っていると思われる。
 社殿は享保元年に建替えられたたが、それが昭和35年10月消失し、昭和38年5月に新たに完成した。
 末社(高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮)
      中略
    令和5年3月  神栖市教育委員会

 鳥居を入ると左手には稲荷神社です

 石燈籠の並ぶ参道を進みます

 手水舎です

 説明版です
   息栖神社の由緒について
 息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、天鳥船・住吉三神を相殿の神として祀られており、古くから国史にも見え(三代実録に書かれてある於岐都説神社)がいまの息栖神社です。
 鹿島・香取・両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社です。
 岐神(くなどの神)は厄除招福・交通守護の御麗格の高い神で、鹿島・香取の大神と共にその先頭に立たれ国土の経営にあたられた。
 天鳥船神(あめのとりふねの神)は航海・航空の守護の御霊格が高く、古事記に(天鳥船を建御雷神に副えて遣わす云々)とあり、鹿島の大神の御先導を務められた神であります。
 (住吉三神)は海上守護・漁業関係の御霊格が高い三柱の神様である。
 このように五柱の神々を祀られているので、古くは息栖五所明神とも称された。
    以下略

 神門です

 説明書きです
   おきすの津(港)と碇
  大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思わざらむ   (柿本人麿)
  今よりはぬさとりまつる船人の 香取の沖のに 風向うなり (藤原家隆)
 広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社の所在する息栖の地は、おきすの津(港)とよばれて、周辺の陸地との交通上の船着場として、大きな港としての役割を果たしていた。
 徳川時代になると、幕府の拠点江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷地帯・銚子川口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。
 これらの長距離輸送には、当然大型船舶が用いられ、その往復途上、息栖の津に立寄っては、息栖の神々に航路の安全と、家族の安泰とを祈願した。
 この碇はそうした祈りを込めて、息栖の神に献納された物であろうが、それが何船によってのことかさだかではない。
 けらども潮に晒され、鉄片のはがれ落ちた碇の姿から、道の奥(東北)と坂東(関東)との間にたって、物資輸送に励まれた船人の、遠い昔を偲ぶ手掛かりとなっている。
     *帆柱ぞみをつくしなる大船の かとりの浦の見るめからねど(利根川図誌より)
          神栖市教育委員会

 参道左には

 力石と

 芭蕉の句碑です

 参道右手に境内社(説明版の末社)が並んでいます、左に4社合祀(鹿嶋神社・伊邪那岐神社・高房神社・奥宮)と右に5社合祀(香取神社・手子后神社・八龍神社・江神社・若宮)で祀られています

 石碑が並びます、新し石碑には「鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる 」の藤原時朝の歌です

 更に東側に歌碑です、右側に諦如法師、左に稱佛法師の歌が彫られています

 説明版です
   息栖ゆかりの歌碑
 鎌倉時代に編さんされた「新和歌集」(藤原為氏撰)の中には、息栖周辺を詠んだ歌が収められています。
 その歌の表題は、「藤原時朝、鹿島のおきす社にまいりて彼社僧に十首歌すヽめ待ちける」とあり、次の歌は、そのうちの一首です。
   *海原や沖つ潮合に立浪の鎮めがたきは心なりけり  理然法師(息栖神宮寺僧)
 なお「息栖の歌」とは別に「新和歌集」には、渡り鳥「ほととぎす」の歌があります。
 この三つの和歌は、藤原時朝が、鹿島詣での際、歌仲間と船中で十首詠んだうちの三首です。
   *鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる         藤原時朝
   *われのみを待ちつる暮を郭公(ほととぎす)またたか為に鳴てすくらん  諦如法師
   *里とをき山のすそのヽほととぎすたか為になく初音成らむ        稱佛法師
 ☆新和歌集十巻
 和歌。鎌倉時代に藤原為氏の撰した私撰集。「新式和歌集」「宇都宮打聞新式和歌集」ともいわれ、正嘉2年(1258)11月1日から正元元年(1259)8月15日前後までの間に生立したといわれています。
 ☆藤原時朝(笠間時朝)
 鎌倉時代の歌人で、勅撰集にも選ばれており、三十三間堂をはじめ、各地の寺院に奉仏、納経をしています。
 また、常陸国笠間荘の領主となり笠間氏を称し、初代笠間城主となりました。
     平成15年3月   神栖市教育委員会・神栖市歴史民俗資料館

 拝殿です


 本殿です

 拝殿北側には、旧社殿で使われていた礎石です

 次は、境内の木々を見て行きましょう





 2024・12・12・07・10

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