二日町向山地区は、紫波町役場の北東約2kmのところ
志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます
約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「⇐盛岡・国道4号線」の標識に従って左(北)へ
約300mで左に勝源寺の逆ガシワ(国指定)を見て、すぐ先の「城山入口」信号を右(東)へ
坂道を緩く上って約400m「吉兵衛舘跡⇒」の看板の先で左(北)へ、約700mで右手に
立派な鳥居が有りますが高水寺です
まずは、直ぐ北側の走湯神社から、鳥居です
社號標です
高水寺と走湯神社の吾妻鏡の説明版です
二日町鹿踊発祥の地
平泉、鎌倉、南部藩関連の神社
今日(頼朝は)陣岡を発たれた。
今まですでに7日間、ここに逗留された。
ところで高水寺(こうすいじ)の鎮守は(伊豆の)走湯権現(そうとうごんげん)を勧請したものであるが、傍にもまた小さな社があり大道祖といった。
これは(藤原)清衡が勧請したものである。
この社の後に大きな槻の木があった。
二品(源頼朝)はこの樹の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢の鏑二つを射立てられた。
文治5年(1189)9月11日 現代語訳 吾妻鏡より
石段を上がって走湯神社の境内へ行ってみましょう
手水舎です
参道から左鍵の手に曲がって西向きに拝殿です
本殿屋根です
境内社の道祖社と稲荷神社の相殿です
もう一つの境内社は諏訪神社です
こちらは左から天満宮、八幡宮、八坂神社です
庚申塔に金毘羅山、湯殿三山の石碑です
南側の高水寺へ行ってみました
石段を上がると宝物庫です
本堂です
説明版です
岩手県指定文化財
木造十一面観音立像
「吾妻鏡」の文治5年(1189年)9月9日の記録によると、当時この地にあった高水寺には、称徳天皇の勅願になる1丈の観自在菩薩像が安置されていたという。
この十一面観世音は、その後身と伝えられている。しかし、これに至るまでの経緯については定かでない。
藤原末期の作と推定される一木造りの秀作で、昭和35年12月24日に岩手県の有形文化財に指定された。
当国33番のうち7番の札所として、近郷の信仰を集めている。
では、次へ行きましょう
2024・9・13・10・05
志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます
約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「⇐盛岡・国道4号線」の標識に従って左(北)へ
約300mで左に勝源寺の逆ガシワ(国指定)を見て、すぐ先の「城山入口」信号を右(東)へ
坂道を緩く上って約400m「吉兵衛舘跡⇒」の看板の先で左(北)へ、約700mで右手に
立派な鳥居が有りますが高水寺です
まずは、直ぐ北側の走湯神社から、鳥居です
社號標です
高水寺と走湯神社の吾妻鏡の説明版です
二日町鹿踊発祥の地
平泉、鎌倉、南部藩関連の神社
今日(頼朝は)陣岡を発たれた。
今まですでに7日間、ここに逗留された。
ところで高水寺(こうすいじ)の鎮守は(伊豆の)走湯権現(そうとうごんげん)を勧請したものであるが、傍にもまた小さな社があり大道祖といった。
これは(藤原)清衡が勧請したものである。
この社の後に大きな槻の木があった。
二品(源頼朝)はこの樹の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢の鏑二つを射立てられた。
文治5年(1189)9月11日 現代語訳 吾妻鏡より
石段を上がって走湯神社の境内へ行ってみましょう
手水舎です
参道から左鍵の手に曲がって西向きに拝殿です
本殿屋根です
境内社の道祖社と稲荷神社の相殿です
もう一つの境内社は諏訪神社です
こちらは左から天満宮、八幡宮、八坂神社です
庚申塔に金毘羅山、湯殿三山の石碑です
南側の高水寺へ行ってみました
石段を上がると宝物庫です
本堂です
説明版です
岩手県指定文化財
木造十一面観音立像
「吾妻鏡」の文治5年(1189年)9月9日の記録によると、当時この地にあった高水寺には、称徳天皇の勅願になる1丈の観自在菩薩像が安置されていたという。
この十一面観世音は、その後身と伝えられている。しかし、これに至るまでの経緯については定かでない。
藤原末期の作と推定される一木造りの秀作で、昭和35年12月24日に岩手県の有形文化財に指定された。
当国33番のうち7番の札所として、近郷の信仰を集めている。
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