大東町鳥海小山地区は、一関市役所の東北東約27km、一関市役所大東支所の北西約6kmのところ
一関市役所大東支所前から南西へ出て、約300m砂鉄川の橋のところの丁字路を右(西北西)へ、県道10号線です
道成りに約5.8km「一関市立興田小学校」西側の十字路を左(南西)へ
約500mのゴミ集積所の所を右(北北西)へ坂道を上ります
約700mで丁字路を右(東)へ
間も無く左手に興田神社が南東向きに鎮座します
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
文化財説明版です
興田神社の指定文化財
岩手県指定有形文化財(工芸品)
銅鰐口
所在地 一関市大東町鳥海字小山
年代 鎌倉時代(14世紀)
指定年月日 昭和49年(1974)2月15日
この鰐口は、鋳銅製両面式で裏面に鍍金を施し、表面の撞座に五弁撞蓮華文が配され、鋳出し銘には「元徳2年壬申3月1日施主平重村」とあることから、制作年代は元徳2年(1330)とかんがえられますが、壬申は正徳元年(1332)となることから、そのいずれかと推察されます。
撞座には破れがあるものの、意匠は鎌倉時代の図案が見られ、形式も古様を呈しており、在銘の鰐口としては本県最古のものといわれています。
岩手県指定有形文化財(工芸品)
金銅製前立
所在地 一関市大東町鳥海字小山
年代 南北朝時代(14世紀)
指定年月日 昭和59年(1984)5月1日
この前立ては、高さ70cm、最大張97.2cmで、銅版前立に鍍金を施した左右対称の2枚の角形を、立会雲を唐草風に毛彫りされた中央部受座金具に挿入固定した半月形を呈しています。
社伝によれば、源頼義が前九年合戦の勝利を謝して安部貞任着用の前立を奉納した、あるいは天正18年(1590)に和賀氏は落居の際に当社に奉納したものと伝えられていますが、調査により南北朝時代の作と判明しています。
参道石段上には隋身門です
随身門を潜ると右手上に鐘楼です
更に参道石段を上がります
手水場です
拝殿です
本殿です
社殿の見事な彫刻です
本殿右手には境内社が並びますがお名前が分かりませんでした
石碑や石祠も並びます
北東側の石段を下ると、社務所前には神楽殿(舞殿)です
水盤です
では、境内のスギを見て行きましょう
2024・9・11・06・25
一関市役所大東支所前から南西へ出て、約300m砂鉄川の橋のところの丁字路を右(西北西)へ、県道10号線です
道成りに約5.8km「一関市立興田小学校」西側の十字路を左(南西)へ
約500mのゴミ集積所の所を右(北北西)へ坂道を上ります
約700mで丁字路を右(東)へ
間も無く左手に興田神社が南東向きに鎮座します
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
文化財説明版です
興田神社の指定文化財
岩手県指定有形文化財(工芸品)
銅鰐口
所在地 一関市大東町鳥海字小山
年代 鎌倉時代(14世紀)
指定年月日 昭和49年(1974)2月15日
この鰐口は、鋳銅製両面式で裏面に鍍金を施し、表面の撞座に五弁撞蓮華文が配され、鋳出し銘には「元徳2年壬申3月1日施主平重村」とあることから、制作年代は元徳2年(1330)とかんがえられますが、壬申は正徳元年(1332)となることから、そのいずれかと推察されます。
撞座には破れがあるものの、意匠は鎌倉時代の図案が見られ、形式も古様を呈しており、在銘の鰐口としては本県最古のものといわれています。
岩手県指定有形文化財(工芸品)
金銅製前立
所在地 一関市大東町鳥海字小山
年代 南北朝時代(14世紀)
指定年月日 昭和59年(1984)5月1日
この前立ては、高さ70cm、最大張97.2cmで、銅版前立に鍍金を施した左右対称の2枚の角形を、立会雲を唐草風に毛彫りされた中央部受座金具に挿入固定した半月形を呈しています。
社伝によれば、源頼義が前九年合戦の勝利を謝して安部貞任着用の前立を奉納した、あるいは天正18年(1590)に和賀氏は落居の際に当社に奉納したものと伝えられていますが、調査により南北朝時代の作と判明しています。
参道石段上には隋身門です
随身門を潜ると右手上に鐘楼です
更に参道石段を上がります
手水場です
拝殿です
本殿です
社殿の見事な彫刻です
本殿右手には境内社が並びますがお名前が分かりませんでした
石碑や石祠も並びます
北東側の石段を下ると、社務所前には神楽殿(舞殿)です
水盤です
では、境内のスギを見て行きましょう
2024・9・11・06・25
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