北浦真山水喰沢地区は、男鹿市役所の北西約11kmのところ
県道59号男鹿半島線を東へ、国道101号線との五差路信号を左(北西)へ国道へ入ります
約3km船川港仁井山信号を左へ「なまはげライン」へ入ります
道成りに約7.3kmなまはげ直売所の十字路を左(南西)へ坂道を上って行くと
大きな鳥居を過ぎ、観光施設の「なまはげ館」の前を過ぎて、真山神社の
駐車場に入ります
真山神社は東北東向きに鎮座します
境内案内図です、目的の榧は右側に「榧大樹」として描かれています
参道入口です
手水舎です
説明版です
男鹿真山神社縁起
御祭神 主祭神 天津彦火瓊瓊杵命(あまつひこほににぎのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
合殿神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
豊受大神(とようけのおおかみ)
豊玉毘女神(とよたまひめのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
大名持神(おおなもちのかみ)
賽神三柱神(さいのかみみはしらのかみ)
■由緒沿革
社伝によれば景行天皇の御代、竹内宿禰が北陸地方諸国視察のため男鹿半島に下向の折、涌出山(わきいでやま、現在の真山、本山)に登って使命達成と国土安泰・武運長久を祈願して、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀ったのが始原とされる。
平安時代以降仏教の伝播が男鹿へも至り、貞観年中には慈覚大師によって涌出山を二分し、北を真山、南を本山としたと伝えられる。
以来修験の信仰が昴り、天台僧徒のによって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。
南北朝時代には真山別当光飯寺は真言宗に転じ、支配も東北豪族の安部氏、清原氏、藤原氏と移りながらも、その庇護のもとに修験霊場として一山繁栄を誇った。
江戸時代には国内十二社に指定され、佐竹候の祈願所として数々の寄進崇敬とともに、幾多の堂塔伽藍が営まれてきた。
明治維新後は神仏分離令によって元の神域複し、名も赤神神社から真山神社と改められた。明寺14年には県社に列格され、ますます深厳な境内を維持してきた。
平成3年9月、台風による烈風で多くの老杉が倒れて甚大な被害を受けるも、7年間の復興事業で境内整備が完工した。
ご本殿は今なお真山山頂に鎮座し、国家安泰、五穀豊穣、海上安全、勝運の守護神として崇敬されている。
■柴灯祭(せどまつり)
本社の特異神事であるこの祭りは、正月三日夕刻境内に柴灯を焚き、この火によってあぶられた大餅を、お山に鎮座する神に献じ、その年の村内安全、五穀豊穣、大漁満足、悪疫除去を祈る祭儀である。
なまはげはこの神の使者「神鬼」の化身といわれ、長治年中より行なわれてきた。
また毎年2月の第2金・土・日には「なまはげ柴灯祭り」として当神社を会場に開催される。この時神鬼に献じられる餅は、護摩餅(ごまのもち)と称され、災難除去の護摩符として氏子参詣者に頒賜される。厳寒の宵に斎行される神秘な神事で、冬の東北五大雪祭りの一つとして広く知られている。
・・・例祭日等略
仁王門です
阿形像です
吽形像です
参道石段を上がります
丸木舟が祀られています
拝殿です
本殿です
本殿北側には注連縄が巻かれ杉の大木です
榧へ向かいましょう
細い歓喜天社への参道を進みます
左奥の祠には弘法大師像があるようです
手水舎は「真山神社神水」です
歓喜天社です
説明書きには「歓喜天堂、歓喜天は仏教の守護神で形像は象顔人身の単身と双身がある。この御神体は双身で男女和合の姿を表し、縁結び、夫婦和合、子宝、商売繁盛の神として信仰が厚い。」と記されています
目的の榧の大樹です
東側の幹を見上げました
説明版です
榧の木
所在地 男鹿市北浦真山
往昔、名刹であった光飯寺のの庭に、慈覚大師がお手植えされたと伝えられる樹齢千百余年の名木である。
根元の周囲4m、樹高11m、枝が四方へ伸び広がり東西24m南北18mと鬱蒼と茂っている巨木で、真山の永い歴史を象徴といえよう。
昭和29年秋田県天然記念物に指定されている。
「いにしえの 光飯寺の跡とめくれば 樹齢千数百年の 大木の榧」結城哀草果
結城哀草果は、歌人・随筆家、山形市生まれ、農業に従事しつつ作歌に励み、1914年(大正3)「アララギ』に加入、郷土出身の斎藤茂吉に師事した。
歌集『山麓(さんろく)』(1929)、「魑魅」(1935)などで東北農民の哀歓を詠じている。『村里生活記』(1935)随筆も書き、地方文化の発展に寄与したそうです)
南東側から
南側から
南西側から
西側から見ました
カヤの実が沢山付いていました
北側道路から見上げました
説明版です
光飯寺跡
遍照院光飯寺は廃滅して、今は礎石のみである。
建立は、平安時代末期(1100年代)と伝承されており、仏教の伝播に伴って、秋田及び男鹿地方における信仰の聖地となった。その後、天台から真言宗に転じるなど変遷の道をたどり、修験の霊場として名を馳せるが、別当光飯寺は、陸奥の安倍氏、橘氏、安東氏、佐竹氏と歴代にわたる崇敬と被護を得て、繫栄をきわめた。とりわけ安東氏など中世領主は、海上の要地としての男鹿に早くから進出し、航海安全、領国の民生安定などの祈願のため、光飯寺の堂塔造営と修復を行っている。
明治の廃仏毀釈により廃寺となり幾多の寺宝は散失してしまったという。
男鹿市教育委員会
「菅江真澄の道」説明版です
光飯寺宝物(男鹿の春風)
文化7年(1810)4月10日遍照院光飯寺にいくと、寺宝を出してみせてくれた。明沢(妙沢)作の不動尊等がある。弘法大師自筆の自画像は古びていた。出山の釈迦仏は雪舟が描いている。中国人の描いたという釈迦仏の画あり、また石摺りの不動は慈覚大師の作である。
弘法大師が口、手、足などで書いたのを、五筆の心経といって一巻にしている。また、光明皇后の筆跡で大般若経や、蜀錦のきれに描いた阿羅々仙人が囲碁をしている図がある。なお、面が二つあり、一つの面は秘蔵のもので雨乞いの時にだけ、神主がこの面をかけて舞う。また、もう一つの面は丹塗りの天狗の面で、雨あげの時これをつけて舞う。
小さな塔の中に鳳凰石に刻んだ雪山の釈迦像は、修行中、乏しい穀物ばかりをとっていたために痩せたお姿である。爪石、雷杖(石器)などがある中で、蓬華石というのは、ふきのとうでも化石したようだ。礱(すり臼)がある。また、西王母の桃の核だといって出して見せてくれた。
安部貞任の所持した軍配扇もあるが、ずいぶん古びている。この寺の庭の隅に大鐘がかけてある。刻文に「康安二年(1362)六月朔日」とあって、四百年余の昔が偲ばれた。
では、次へ行きましょう