ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・前二子古墳」です!!

2024-12-08 06:36:10 | 遺跡・史跡
 ここからは、2024年11月25日に群馬県に行った帰りの取材分です

 西大室地区は、前橋市役所の東約12km、前橋市役所大胡支所の南東約6kmのところ

 前橋市役所大胡支所は、以前にも紹介している大胡城址の南側です

 大胡支所前を南へ出て、直ぐの県道34号線を左(東南東)へ、次の「大胡信号」を右(南南西)へ、県道40号線です

 約250mの「宮寺橋西詰」信号を左(南東)へ、県道72号線です、間も無く上毛電鉄の踏切を越えます

 約2.8kmの「下大屋町信号」を左(東)へ、県道76号線です

 約2.8kmで「南口駐車場」の標識を左(北)へ入り、約300mで広い駐車場の西端列に車を止めることが出来ました

 古墳群の案内図です

 南駐車場南側の草むらを通って、住宅沿いの南側の道路を西へ進むと

 前二子古墳の後円部が見えました

 更に西へ進むと道路脇に「史蹟 前二子古墳」標柱です

 説明版です
   黄泉の国へのタイムトラベル
     国指定史跡 前二子古墳
 明治11年に石室が発見されました。狭くて長い石室は、まるで黄泉の国への入り口です。
 石室からは土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬品が出土しました。
 詳しい調査記録から、副葬品の配置状態や日本全国から6000人にものぼる見学者があったことを知ることができます。
 さらに明治13年英国外交官アーネスト・サトウが調査に訪れました。
 調査によって周堀のほかに外提と外周溝があり、上段墳丘に葺石があることがわかりました。
 従来から門や扉があり複雑な構造とされた横穴式石室は、床面に加工された凝灰岩が敷かれ「べんがら」によって赤く塗られていることが分かりました。
 また、円筒埴輪は大室古墳群の中で最も大きなものです。杖形埴輪(石見型埴輪)は遠く離れた奈良県のものと良く似ています。
 出土遺物には従来「四神付飾土器」と呼ばれた装飾器台(須恵器小像付筒形器台)があります。朝鮮半島の南部のものと共通した小像が付けられています。

 北西側から見ました

 西側から

 説明版です
   史跡 前二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
     「前二子 長い石室 古きあかし」
 大室古墳群で最初に造られた前方後円墳です。この古墳からは円筒埴輪の他に人物・馬・家・大刀・靫・蓋などの埴輪が出土しています。
 特徴的な細長い石室から、武具・馬具・装身具・鏡・土器などたくさんの副葬品が発見されました。
 関東地方で最も古い時期の横穴式石室を持つ6世紀初めの古墳です。 

 西南西側から前方部です

 南西側から

 南側の中提から後円部です

 説明版です
   史跡 前二子古墳 (6世紀初め)
 墳丘の長さ93.7m、後円部の高さ13.6m、周堀と外周溝を含めると148mにもなる。大室古墳群で最初に造られた大前方後円墳です。
 ・墳丘の上段部の葺石部分をササで表現しています。・墳頂部、下段の平坦面、周提上に埴輪列がめぐります。
 〇細くて長い石室
 石室は小ぶりの石で積まれ、玄室と羨道が長いのが特徴です。床面には、加工された凝灰岩の平石が敷かれ、石室はベンガラで赤く塗られています。玄室は扉石を立て閉じられていました。
 これらのことから、関東地方に横穴式石室が取り入れられた最初の頃のものであることがわかります。
 石室全長 13.89m。
 〇形象埴輪
 人物・盾持人(たてもちびと)・馬・家・大刀・靫(ゆき)・蓋(きぬがさ)などがあります。中でも蓋・威杖形埴輪が注目されます。
 〇上毛野氏(かみつけぬ(の)し)の先祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の墓と言い伝えられた古墳の一つで、古くから大切に保存されてきました。
 明治11年(1878)3月、村人により石室が開かれた際、多くの貴重な副葬品が発見され、記録が残されました。
 主な出土品
 ○武具ーーー鉄鉾・大刀・鉄鏃
 ○馬具ーーー轡・杏葉・鏡板・帯金具
 ○農耕具ーー刀子・斧・鋤・鑿・針
 ○装身具ーー耳環・銀製空玉・管玉・臼玉・ガラス小玉
 ○鏡 ○その他ーーー鉤状金具・釘
 〇出土品は当時の人々の興味をひき、県外からもたくさんの人々が訪れました。
 明治13年(1880)には、イギリスの外交官、アーネスト・サトウもこれを見て、「上野地方の古墳群」(日本アジア紀要8巻3号)で外国にも紹介されました。

 南側に玄室です

 覗いてみましたが奥までは見えません

 墳丘に登って見ました、前方部です

 後円部です

 後円部から前方部を見ました、左奥には八ヶ岳北部の山々、右のマツの間に浅間山が見えました

 後円部から次に廻る中二子古墳を見ましたが、木々に覆われているので、前方後円墳の形が分かりませね

 北側の中段を西側から

 南側の中段を西側から見ました

 南東側に戻って来ました

 次は、中二子古墳を見て回りましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・愛宕山古墳」です!!

2024-12-07 18:48:00 | 遺跡・史跡
 愛宕山古墳は、博物館入口の県道77号古墳通りの北側に接しています

 駐車場にも、博物館にも近いのですが、最後に成りました


 博物館への県道からの入り口です

 さきたま古墳庚園案内図です

 南西側県道77号古墳通り南側から愛宕山古墳です

 発掘調査が行われていますが

 本日はお休みでブルーシートが掛けられています、位置的には外堀の部分です

 西側から前方部です


 北西側から

 北側から

 説明版です
   愛宕山古墳
 全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。
 最小ではありますうが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。
 墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
 出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・大刀・盾・蓋(きぬがさ:貴人の傘)などを表現した象形埴輪があります。
 円筒埴輪は、高さ40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。
 古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。
         平成21年(2009年)3月    埼玉県教育委員会

 *さきたま史跡の博物館のホームページでは、墳丘長54.7mとなっています。また、墳丘上に愛宕神社があったようです。

 北東側の丸墓山への遊歩道わきには「臨済宗 妙心寺派 海東山 天祥禅寺」山門です

 築地塀に説明版です
   天祥寺由来
 旧藩時代大名の数、270余藩というが、10万石以上は50余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外6家に過ぎず、御三家、加賀100万石より上位なり。
 初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。
 天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥寺の本寺たり。
 9代忠尭公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、11代名君忠国公、12代忠誠公の3君、この蛍城の地下に眠る。
 近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。
 現在松平家の墓所は、行田市の文化財に指定を受けた目下大方の檀家のご協力を得、伽藍建立途上にあります。


 では、今回の取材は終わりにして、自宅へ帰ります
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埼玉県行田市、埼玉「さきたま史跡の博物館・国宝常設展示」です!!

2024-12-07 06:38:20 | 遺跡・史跡
 さきたま史跡の博物館は、久しぶりの訪問でした、常設展示も変化しています

 常設展示場入口です

 右側から展示を順に観て行きましょう

 趣旨説明です
   展示趣旨
 埼玉県発祥の地、行田市埼玉に所在する埼玉古墳群は、大型前方後円墳を中心に密集して築造されており、全国でも稀有な例として、昭和13年、国指定史跡となりました。
 その後、「さきたま風土記の丘」建設事業において整備を進め、現在では博物館を中核にした史跡公園として整備されております。
 稲荷山古墳はこの整備計画に基づいて、昭和43年8月に墳丘の発掘調査が行われ、後円部から礫槨と粘土槨の2基の埋葬施設が検出されました。
 そして、10年後の昭和53年には、礫槨から出土した鉄製品の保存処理中に、一振りの鉄剣から115文字の金象嵌の銘文が発見され、「100年に一度の大発見」として大きなニュースになりました。
 その内容は、日本古代国家成立に貴重な手掛かりとなる大一級資料であり、昭和58年には出土品が国宝「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として指定されております。
 本展示室では、この稲荷山古墳の主体部からの出土品を中心に公開するものです。
 被葬者とともに副葬されていた辛亥年(西暦471年)銘を刻む国宝の金錯銘鉄剣をはじめ、鏡などの装身具・武器・馬具・工具などの指定品を列品しております。
 また、周堀内から出土した円筒埴輪や冑をかぶった武人、巫女などの人物埴輪、盾などの器材埴輪、動物埴輪などのほか須恵器等を紹介いたします。
 さらに、将軍山古墳をはじめ、他の古墳からの出土品も併せて公開しております。
 埼玉県の至宝になっている古墳時代の優品としての考古遺物をご覧いただければと存じます。

 古墳の年代別大きさ別の表示です

 国宝から順に観て行きます、まずは

 稲荷山古墳出土の鉄剣です

 稲荷山古墳の説明です
    稲荷山古墳
 埼玉古墳群で最初に造られた古墳(5世紀後半)です。全長120mを誇り当時の埼玉県域では最大の前方後円墳です。
 昭和12年には前方部を土取りされてしまいましたが、平成16年には復元されました。
 昭和43年には、史跡整備に伴う発掘調査が行われ、2基の埋葬施設を後円部で確認しました。
 西寄りの埋葬施設は、古墳の主軸に沿って川原石を舟のような形に積み上げた「礫槨」であり、南寄りのものは素掘りの墓穴でした。棺は大木を半割にして刳り抜いた木棺だと考えられます。
 前者を「礫槨木棺墓」、後者を「木棺直葬墓」と呼びます。
 礫槨木棺墓からは、金錯銘鉄剣の他、帯金具・武器・武具・馬具などが出土しました。これらは、一括して国宝に指定されました。
 木棺直葬墓は、棺を粘土で固定していました。本墓は盗掘されており、わずかに鉄鏃片が確認されただけでした。

 埋葬施設案内と鉄剣です

 帯金具と天冠です

 帯金具と鉄剣です

 金銘鉄剣説明と鉄鏃展示です

 武器・武具です

 珪甲(甲冑状の武具)の展示です

 馬具です

 画文帯環状乳神獣鏡の展示です

 鉄製工具の展示です

 崎玉古墳群出土の土器の展示です

 鉄剣の展示ケースが変更に成っています

 説明です
   スペシャルスポット展示「金錯銘鉄剣ものがたり」
 当館では金錯銘鉄剣をより安全な保管環境で展示公開するために、所有者である文化庁の指導のもと、これまで長年使用してきた展示ケースに換えて、新たな展示ケースを設置することになりました。
 それまでの間、金錯銘鉄剣は窒素ガスを封入し、当館の特別収蔵庫内で保管されます。
 金錯銘鉄剣が、新たな展示ケースで再び展示されるようになるまでの間、ここでは、金錯銘鉄剣が発掘されてから現在に至までの主な出来事を紹介するスペシャルスポット展示「金錯銘鉄剣ものがたり」を開催いたします。
 金錯銘鉄剣が発見され、現在の姿となって展示公開されるまでには様々な経緯がありました。
 始まりはいまから56年前の稲荷山古墳の発掘です。鉄剣は盗掘を免れた礫槨からの副葬品の一つとして出土しました。
 そして発掘から10年後、保存処理の作業中に金象嵌の文字が発見されたことは、古代史研究上の大発見として世間を騒がせました。金象嵌文字の発見から5年後には国宝に指定されました。
 本展示では、金錯銘鉄剣の紹介とともに、鉄剣が発見されてからの主な出来事を「稲荷山古墳の発掘」、「金象嵌文字の発見と保存処理」、「金錯銘鉄剣の公開と科学分析」として紹介いたします。


 金錯銘鉄剣の展示です

 稲荷山古墳から出土した埴輪の展示です

 金錯銘鉄剣の発見された稲荷山古墳の説明です

 稲荷山古墳出土の人物埴輪について

 形象埴輪について


 円筒埴輪の展示です

 説明です
   稲荷山古墳出土の円筒埴輪
    〈墳丘を囲み守る装置〉
 円筒埴輪は弥生時代の墓に供えられた壷をのせる筒状の土製の台(器台)が源です。
 稲荷山古墳では立てられた位置をとどめるものはほとんどありませんが、墳丘上や墳丘裾の平坦部、中提や造出し上に、すき間なくたてられていたと推定され、こわれて破片となった埴輪が墳丘や周堀から大量に出土しています。
 使われた粘土の種類で焼き上がりの色が違うのは、生産地(生産した工人集団)の違いによるものと思われます。
 灰白色のものは5~6条の凸帯(帯)を持ち、しっかりとした作りの大型品で、半円形のスカシがあります。
 外面には縦方向にハケメ(スジ状の仕上げ痕)があり、一部には古い技法の横方向のハケメが施されています。
 その他の赤褐色や橙色のものは大型品のほかに3~4条凸帯の小形品があり、やや雑に製作されています。
 

 二子山古墳出土の須恵器の杯と土師器の高杯の展示です

 小円墳郡からの出土品です

 二子山古墳出土の円筒埴輪の展示です

 全国銘文刀剣の展示です

 金錯銘鉄剣のパネルです

 家形埴輪と琴を弾く男性埴輪です、左側の女性埴輪は、前回の企画展示に出張中です

 動物埴輪(水鳥埴輪)と瓦塚古墳出土の盾持埴輪です

 稲荷山古墳の竪穴式石室と将軍山古墳の横穴式石室の比較展示です

 馬冑の展示です

 大きな須恵器の壷の展示です

 鉄砲山古墳出土の埴輪の展示です

 最後は円筒埴輪の比較展示です

 では、博物館を出て、最後に残った「愛宕山古墳」に行きましょう

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埼玉県行田市、埼玉「さきたま史跡の博物館・企画展示古墳時代の装い」です!!

2024-12-06 19:27:53 | 遺跡・史跡
 埼玉県立さきたま歴史の博物館は、この日は「埼玉県民の日」で、無料で観覧出来ました

 (通常一般は200円・高校生100円で、将軍山展示館も見る事が出来ます)

 駐車場側からの通路です

 「埼玉県立さきたま歴史の博物館」まで150mです

 埼玉県の名前の石碑です

 由来の文面です
   埼玉県名の由来
 明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設定するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。
 以後、幾度かの変遷を経て、明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。
 「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
 埼玉郡は、律令による國郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見られる。また、延喜式神名帳も埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
 ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て県名発祥の記念とする。
      昭和62年4月    埼玉県

 博物館入口です

 埼玉の日の催し物として博物館前の通路では「火起こし体験」が行われていました

 左手に「古墳時代の装い」の企画展示です

 ロビーの航空写真です

 埼玉県内の国・県史跡の図の中に、埼玉古墳公園は特別史跡に指定されています
   埼玉県の史跡
 県内に約11000か所ある古墳や城跡などの遺跡のうち、特に価値の高いものを、国や県では、それぞれ「史跡」に指定して保護しています。
 さらに、国が指定する史跡のなかでも、学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴とされる史跡は、特別史跡に指定されています。
 また、2023年からは国の史跡に相当する遺跡が「指定相当の埋蔵文化財」として認定、公表されています。
   埼玉県内史跡数(2024年3月31日現在)
 国指定史跡 25、うち特別史跡1、県指定史跡105、国指定相当埋蔵文化財1
 *国指定相当埋蔵文化財の1か所は、最近なにかと話題になっている北本市の「デーノタメ遺跡」です

 企画展展示場の中心には古墳時代の衣装です

 埴輪を見る上での注意点です(*展示を見る上で重要な内容ですね)
   人物埴輪から古墳時代の「装い」を考える際の注意点
 古墳時代とは、前方後円墳を代表とする、土を高く盛り上げたお墓(古墳)が多く造られた3世紀中頃から7世紀の間を指します。
 この時代の「おしゃれ」や「装い」を考える手がかりとして、人物埴輪があげられます。
 人物埴輪は人物を模して作られた埴輪で、髪型や衣服、装身具などの表現があり、絵画や文字資料がほとんどない古墳時代の「装い」を復元する際にはいくつかの注意が必要です
 ①人物埴輪の出現時期
 人物埴輪は古墳時代の中頃(5世紀)から作られるようになりました。
 それ以降の古墳時代前期(3世紀中頃~4世紀代)には、人物を模した考古資料はほとんどなく、「装い」に関する情報が非常に少ない状況です。
 本展示でも紹介する資料の大半が、古墳時代中期から後期のものに成ります
 ②人物埴輪の意味
 人物埴輪の意味については様々な説がありますが(首長権継承儀礼説、死後の近習説など)、どの説でも人物埴輪は古墳時代のごく一部の人々、基本的には首長とその周辺の人々を表現していると考えられています。
 さらに、彼らの日常生活というよりは、特殊な場面を切り取って表現した可能性が高いとされています。
 ③人物埴輪の表現技法
 埴輪は粘土を成形して焼き上げて作るため、表現を省略、抽象化、誇張する傾向があります。
 さらに人物埴輪には上半身と下半身の両方を表現する「全身像」と上半身のみを表現する「半身像」があります。
 「半身像」の埴輪の方が多いため、下衣や沓の表現などの下半身の「装い」に関する情報は少ない状況にあります。

 右側の壁面から順に見て行きました、女子埴輪です

 説明です
   女子埴輪  伝東松山市 三千塚古墳群出土  個人蔵
 髷や櫛を挿し、首や腕には玉飾りを着けています(脚の玉飾りは推定復元)。
 耳の位置に貼り付けられた円環状の粘土は耳環と呼ばれる耳飾りの表現です。
 右肩から左脇にかけた袈裟状の布やその下げ緒には曲線や直線の赤彩で文様が表現されています。
 非常に「おしゃれ」な女性埴輪といえるでしょう。

 男子埴輪です

 説明です
   男子埴輪  伝美里町出土   さきたま史跡の博物館 所蔵
 男子の前身像で、上衣と下衣が表現されています。
 鈴を付けた太い帯を胴部に締め、身体の中央に太刀をさげた姿から、身分の高い人物を表現していると考えられます。
 腕には籠手を着け、左の腰には鞆(左手首の内側につけて弓の弦が腕に当たるのを防ぐ道具)が表現されています。
  *頭部は復元

 馬形埴輪です

 説明です
   馬形埴輪  熊谷市 北島遺跡第5号墳出土  埼玉県教育委員会 所蔵
 日本列島では、古墳時代の中期に馬が伝わったと考えられており、馬を模した馬形埴輪が出土しています。
 馬形埴輪の多くは馬に乗るための実用的な道具(鞍や鐙など)以外にも多くの装飾品が表現されており、実際にきらびやかな馬具が多く出土しています。
 また、鬣を髷状に結った表現もよく見られ、馬の全身が「おしゃれ」に飾り立てられていた様子が想像できます。


 農夫埴輪です

 説明です
   農夫埴輪  伝熊谷市東別府出土  さきたま歴史の博物館 所蔵
 笠を被り、鍬を担いで腰には細い帯を締め、帯からは鎌をさげています。
 一見、素朴な農夫を表現しているように見えますが、耳には耳環をつけています。
 「果たして農夫が耳飾りをつけるのか?」と研究者の興味を引く埴輪です。


 ヘアスタイルについての展示です

 かぶり物コレクションです

 入れ墨や化粧の展示です

 古墳時代のファッション展示です

 女性埴輪のファッションです

 古墳時代のアクセサリーです

 耳飾りの展示です

 最後の展示は、勾玉や黄金アクセサリーです

 では、常設展示場(国宝展示場)へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・瓦塚古墳と旧遠藤家住宅」です!!

2024-12-06 06:37:10 | 遺跡・史跡
 瓦塚古墳は、埼玉古墳群のほぼ中央部にある前方後円墳です

 鉄砲山古墳の北側を西へ向かうと

 右手に瓦塚古墳が見えて来ます

 南西側から

 説明版です
   瓦塚古墳
 全長73mの前方後円墳です。
 他の前方後円墳と同じく周囲には長方形の堀が二重に巡り、墳丘のくびれ部には造出しと呼ばれる張り出しがあります。
 また、造出し正面外堀には、通路と見られるブリッジ状の堀り残しがあります。
 整備に先立つ発掘調査の結果から、その周辺の中提には、琴を弾く男子、踊る男女、武人などの人物埴輪、家型埴輪など多種の埴輪が立て並べられていたと推定されています。
 墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
 古墳の造られて時期は、出土した遺物から6世紀前半から中頃と推定されています。
      平成21年(2009年)3月   埼玉県教育委員会


 西南西側から

 西側から

 くびれ部の造出しです

 北西側から前方部です

 後円部です、後円部の北側は住宅地に成ってしまっているので、欠けています

 説明版です、内容は南西側の説明版と同じでした

 ブリッジです
 
 博物館通路脇には休憩舎がありますので一休みしました

 南側に戻ると旧遠藤家住宅の入り口です

 住宅を南側から見ました

 間取り図説明版です
   旧遠藤家間取り図
 埼玉県幸手市大字千塚から移築された民家で、江戸時代末期に建てられたものです。
 面積は222.453㎡(67.41坪)あります。
 屋根には煙出しの高窓があり棟の両側に火難除けとして「水」と「龍」の文字が書かれています。
 座敷部分はチョウバ・ナカノマ・デイ・チャノマ・オクなどがあります。
 土間部分はダイドコロ・シタザシキ・ウマヤとなっています。
 稲作農家らしく土間が広く屋内での仕事がしやすくなっています。 

 東側には厩(ウマヤ)です

 中央部分には玄関(出入口)です

 土間の台所です

 西側部分です

 座敷が並んでいます、屋根の棟には煙出しです

 では、「さきたま史跡の博物館」に行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・浅間塚古墳」です!!

2024-12-05 19:07:37 | 遺跡・史跡
 浅間塚古墳は、埼玉古墳群の東端にある円墳です、墳丘上には前玉神社が南向きに鎮座しています

 北側の県道77号古墳通りに面して北東向きに参道が開いています

 前玉神社の案内板です

 北東側の県道77号古墳通りから参道です

 「延喜式内 前玉神社」社號標です

 鳥居の説明版です
   市指定文化財 建造物
     前玉神社の大鳥居
       平成11年3月25日指定
 この鳥居は、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領氏子達によって建立されたものである。
 鳥居は明神系の形式で、正面左側の柱に由来を示す銘文が刻まれており、江戸時代における浅間神社の隆盛を伝える貴重な建造物である。
   平成13年2月     行田市教育委員会


 駐車場には太い注連縄の巻かれた御神木のマキの大木です(このブログでも紹介させて頂いております)

 説明版です
   行田市指定文化財
     槙(マキ)昭和39年1月31日指定
 前玉神社は、平安時代の「延喜式神明帳」に「前玉神社二座小」と記されている古社です。
 その入口に植えられているこの大木は、「イヌマキ」と称される常緑の高木の雄木です。
 御嶽山信仰の奉納植樹の御神木で、推定樹齢600年、樹高20m、目通り幹囲4.0m、根回り5.5mを計ります。
 現存する槙としては埼玉県内最大のものです。
 樹幹北部の中心部には大きな空洞があり、その中には木曽御嶽神社の石碑がおかれています。
           行田市教育委員会


 参道を進むとニノ鳥居です

 手水舎です

 右手奥には稲荷神社です

 三ノ鳥居です

 浅間塚古墳の説明版です
   ぎょうだ歴史ロマンの道
     浅間塚古墳
 浅間塚古墳は、埼玉古墳群の南東部に位置する墳径約50m、高さ8.7mの円墳です。
 古墳の墳頂に前玉神社、中腹に名前の由来となった浅間神社がまつられています。
 前玉神社は、平安時代の「延喜式神名帳」にその名が見られ、古くから埼玉郡の総社として信仰を集めていました。
 浅間塚古墳については、比較的最近まで古墳であるのか、後世に築かれた塚であるのか、議論が分かれていましたが、平成9・10年に行われた発掘調査で幅10mに及ぶ周溝が巡ることが確認され、古墳であることがほぼ明らかになりました。
 埴輪が樹(た)てられていなかった可能性が高いこと、古墳の南西部の絵馬堂付近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、埼玉古墳群の築造が終わりを迎える7世紀前半頃に築かれた古墳と推測されています。
 埼玉古墳群の終わりを考える上で、重要な古墳であると思われます。
       平成21年3月     行田市教育委員会
 

 石段を上がると右手に浅間神社です

 社殿北側にも注連縄の巻かれた御神木のマキの木です

 境内社です

 見上げる位置に前玉神社社殿が見えました


 燈籠です

 説明版です
   行田市指定文化財
     石燈籠  昭和42年3月10日指定
 この石段の登り口にある高さ2m、2基の石燈籠は、元禄10年(1697)10月15日に、地元埼玉村(現在の行田市埼玉地区)の氏子一同が奉納したものです。
 本殿に向かって左側の石燈籠には、「前玉之 小崎乃沼余 鴨曾翼霧 己尾余 零置流霜乎 掃等余有斯(前玉の小崎の沼に鴨ぞ翼きる 己が尾に降り置ける霜を掃うとにあらし)」と「万葉集」9巻ー1744の「小崎沼」の歌が、右側の石燈籠には「佐吉多萬能 津余乎流布乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曾弥(埼玉の津に居る舟の風を疾み 網は絶ゆとも言は絶えそね)」と「万葉集」14巻ー3380の「埼玉の津」の歌が、美しい万葉仮名で竿の部分に刻まれています。
 この2首の歌は、地元行田市埼玉地区に関連する歌と考えられています。
 この石燈籠は、「万葉集」に納められた歌の歌碑としては、全国的にみて非常に古いものになります。
 江戸時代には「万葉集」の研究が盛んになり、関心も高まっていました。
 そうした中でいち早くこの歌碑を建立した当時のこの地域の人々の文化的水準の高さと、江戸時代の「万葉集」への関心の高まりがうかがえる、貴重な文化財と言えるでしょう。
       平成23年    行田市教育委員会


 急な石段を上がります

 見上げり位置に拝殿です


 本殿覆い屋です

 木々の間に鉄砲山古墳が見えましたが写真では分かりませんね~

 境内から下りて西側の木々の間に社殿を見上げました

 南側から木々越しに見ました

 では、次は「さきたま史跡の博物館」近くへ戻り、「瓦塚古墳」へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・中の山古墳」です!!

2024-12-05 06:31:07 | 遺跡・史跡
 中の山古墳は、埼玉国古墳群の南端にあります

 公園案内図の一番下側です

 奥の山古墳から南東側へ遊歩道を進むと中の山古墳(西側)です

 北西側から前方部です

 後円部です

 説明版です
   中の山古墳
 墳丘全長推定79m、6世紀末から7世紀初頭の前方後円墳で、埼玉古墳群で造られた最後の前方後円墳です。
 発掘調査の範囲が限られているため、墳丘の規模や埋葬施設、周堀の範囲などが定かでありませんが、二重の周堀が巡り、南側の外堀は戸場口山古墳の外堀に壊されていることが明らかになっています。
 また、かつて墳丘から石棺が発見されたという伝承も残されています。 
 埼玉古墳群の前方後円墳の中では唯一、須恵器生産の方法でつくられた底のない壷のような形をした埴輪が古墳の周りに並べられていました。
 これから須恵質埴輪は、全国的にも例の少ないもので、埼玉古墳群から約30km離れた埼玉県北部の大里郡寄居町末野窯跡群で生産され、中の山古墳まで運ばれていたことが明らかになっています。
       令和5年(2023)3月   埼玉県教育委員会

 南西側から、こちら側(前方部)は土取りなどで破壊されているようです

 南側から、この東側には住宅が建っていて内堀が遊歩道に成っています

 東側から

 後円部です

 では、中の山古墳の北東側にある浅間塚古墳に向かいましょう

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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・奥の山古墳」です!!

2024-12-04 19:49:40 | 遺跡・史跡
 鉄砲山古墳の南西側にあるのが、奥の山古墳です、公園の南端へまず行ってみました

 埼玉古墳群の大きなモニュメント越しに見えるのが奥の山古墳(南西側から)です

 盾持人埴輪です

 説明版です
   奥の山古墳の発掘調査
 奥の山古墳は墳丘全長66m、四角形の二重の堀をめぐらせた前方後円墳です。
 後円部西側には造出しと呼ばれる張出部があり。ここから子持壷や大型器台などの珍しい須恵器が出土しています。
 奥の山古墳は6世紀前半に造られたと考えられています。
 2018年の発掘調査の際に、外堀南西部の形が明らかになりました。
 想定されていた堀の位置とは異なり、中提の隅角部が外側に突き出るような形をしていることが分かりました。
 外堀からは盾持人埴輪が一体見つかっています。
 これまでの整備と最新の発掘成果が一部整合しないため、外堀の範囲を舗装により平面的に表現しています(右の写真「奥の山古墳」の三角形部分)。

 説明版右部分です
   盾持人埴輪
 外堀からは盾持人埴輪がうつ伏せの状態で出土しています。
 盾持人埴輪は、人間の頭と盾が一体化した形をしており、墓である神聖な古墳を邪悪なものから守る役割があったと考えられています。 
 出土した盾持人埴輪の頭部が欠けていたため、瓦塚古墳と将軍山古墳から出土した盾持人埴輪を参考に復元しています。

 後円案内図です、奥の山古墳は下端近くにあります

 西側から奥の山古墳を見ました、造出しが無いようですが説明版によると後円部に張り出しがあるようです

 説明版です
   奥の山古墳
 墳丘全長66mの前方後円墳です。
 奥の山という名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから付けられました。
 発掘調査により、それまで一重と考えられていた周堀が二重であることや、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどがわかりました。
 また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。
 後円部墳丘西側には張出部があり、子持壷や大型器台といった祭祀に使われた須恵器が出土しています。
 こうした出土遺物から6世紀中ごろから後半にかけてつくられた古墳と考えられています。
       平成24年(2012年)3月   埼玉県教育委員会

 南西側から

 前方部です

 南側から

 南東側から前方部です

 後円部です

 北東側から見ました

 鉄砲山古墳の外堀から見ました

 では、次は奥の山古墳の南東側の中の山古墳へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・鉄砲山古墳」です!!

2024-12-04 06:30:53 | 遺跡・史跡
 鉄砲山古墳は、藩政時代に鉄砲の発射場(訓練場所)になっていたことに由来する名前だそうです

 二子山古墳から南西側へ

 すぐ南側の県道77号古墳通りを横断歩道で南西へ渡ります

 住宅地を抜けると左手に鉄砲山古墳の後円部が見えて来ました、一部石材店の資材置き場になっているようです

 古墳のくびれ部分がへこんでいいます、この位置は造出しがあったと思われる部分です

 鉄砲山古墳角場遺構(江戸時代忍藩砲術訓練場跡)の標識が立っています

 北側にあった中提造出しは公園(薬草園)に成っています

 北側のフェンス沿いを進んで北東側から後円部です

 更に遊歩道を進んで、南東側から後円部です

 前方部です

 説明版です
   鉄砲山古墳
 墳丘全長107.6m、横穴式石室をもつ6世紀後半の前方後円墳で、埼玉古墳群で3番目の規模を誇ります。
 古墳の名前は、江戸時代に忍藩の砲術訓練場(角場)として墳丘を利用していたことに由来します。
 墳丘は二段築成成、中段のテラスなどには最大で9条の突帯をもつ大型の円筒埴輪が並べられていました。
 墳丘の周囲には、他の古墳と同様に方形の二重周堀が巡ります。
 さらに、外堀の北西側では古墳の堀とみられる遺構も確認されています。
 また、外堀の南西側は、鉄砲山古墳よりも古い時期に造られた奥の山古墳の外堀に接するとみられています。
 古墳が密集し土地が限られいても、他の古墳と同じ様に二重の周堀で囲まれていたようです。
      令和5年(2023)3月  埼玉県教育委員会
 *ウィキペディアの数値も墳丘長107.6mと変わりがありませんでした。後円部径49.7m、高さ8.5m、前方部幅68.1m、高さ9.5mでした。
 また、周堀を含めた全長は163mと推定されていまが、北側の二重堀は水路や民家の敷地になっているため、確認できなくなっていて、南側外堀も南側の奥の山古墳の外堀と重なっています。
 *鉄砲山古墳周辺の木々の伐採計画があるとの表示もありました、写真に写っている大きなケヤキが数本伐られるようです

 南側から

 南西側から見ました

 次は、鉄砲山古墳の直ぐ南側の「奥の山古墳」へ行ってみます
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・二子山古墳」です!!

2024-12-03 18:40:52 | 遺跡・史跡
 二子山古墳は、武蔵野国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の古墳で最大の前方後円墳です

 丸墓山古墳の南、稲荷山古墳の南南西、将軍山古墳の南西側に当たります

 二つ山古墳は、二つの山があるように見えることからこの名がります。

墳丘長132.2メートル[1]
後円部径67.0メートル・高さ11.7メートル
前方部幅83.2メートル・高さ13.7メートル
方形の二重周濠をもつ。現在の内堀は水をたたえているが、元々は空堀だったことがわかっている。
西側くびれ部に造り出しがある。
墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なる。
もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれる。 内部埋葬施設は不明であるが、周濠からは1メートルを越える円筒埴輪が、多数出土している。

古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられている。

浸食作用で墳丘外周の崩落が深刻化したため、内堀の水を抜いて埋め立てて「空堀」にする工事が進んでいる。


 将軍山古墳南西側の駐車場から二子山古墳の後円部が見えました

 北西に進んでこの先を左へ入ります

 二子山古墳の北側へのルートです

 二子山古墳内堀の西側の端近くから見ました

 堀跡の草刈作業が行われていましたが、中提と内堀の間には背の高い草があって写真が撮れませんでした

 内堀南西側角から
.
 南西側から、堀の中の草苅が済んで見やすくなったのかな

 説明版です
   二子山古墳
 全長138mの前方後円墳です。
 かつての「武蔵国」(埼玉県・東京都・神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。
 周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
 現在遊歩道になっている高まりが中提にあたります。
 内堀は、今は水彫になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています
 本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。
 出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀始め頃と推定されています。
     平成20年(2008年)3月  埼玉県教育委員会
 *ウィキペディアでは、違った数値が出ていました
 *墳丘長132.2m、後円部径67m高さ11.7m、前方部幅83.2m、高さ13.7m、西側くびれ部に造り出しがあります。
 墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳(通称仁徳天皇稜)に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なります。
 もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれ、未発掘のため内部埋葬施設は不明ですが周濠からは1mを越える円筒埴輪が、多数出土しています。
 古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられています。

 南側から、内堀は空堀に成っていますね


 すぐ南側の県道77号古墳通りから見ました

 では、次は県道77号古墳通りを渡った南側の鉄砲山古墳です
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・将軍山古墳」です!!

2024-12-03 06:30:11 | 遺跡・史跡
 丸墓山古墳・稲荷山古墳に続いて将軍山古墳です

 将軍山古墳は、実物の横穴式石室を建物の中から見学できる、将軍山古墳展示館が設置されています

 丸墓山古墳の南西側入口脇の案内図です、さきたま古墳公園図の下端(公園の東端)に潰れた形で将軍山古墳です

 南西側の駐車場から見ました、説明版も有ります

 北西側に行ってみました、説明版の脇には外堀のブリッジと左手に造出しです

 説明版です
   将軍山古墳
 将軍山古墳は、全長90m、後円部の直径39m、前方部の幅68mの前方後円墳です。
 明治27年(1894)に、地元の方々によって発掘調査が行われ、横穴式石室から、銅鋺・太刀・鉄矛・甲・冑・金銅製馬具・馬冑・蛇行状鉄器など多数の豪華な副葬品が出土しました。
 造られた年代は、出土した遺物から、6世紀の後半と考えられます。埼玉古墳群の中では、4番目に大きい前方後円墳で、はじめて横穴式石室を採用した古墳です。
 この横穴式石室には、千葉県富津市付近の海岸で採取された「房州石」と呼ばれる石材が利用されており、関東地方の古墳時代の歴史を考える上で重要な古墳となっています。
 平成3年度から平成8年度に、文化庁の協力を得て、墳丘・堀の発掘調査及び復元、石室の保存施設の建設などの整備を行いました。
 発掘調査の結果、周囲には長方形の堀が二重にめぐり、後円部と中提に、死者を弔う祀りが行われた場所と考えられる大きな造出しがあり、稲荷山古墳・二子山古墳と同じ形態であることがわかりました。
 また、前方部には木の棺を竪穴の中に安置した、木棺直葬と呼ばれる埋葬施設が新たに発見されました。さらに、墳丘頂上と斜面の段、堀の中(墳丘から落下したもの)からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪をはじめ、盾・靫・人物などの形象埴輪が出土しました。
 後円部南側には、副葬品の復元模型が置かれた横穴式石室や古墳の断面が見学できる展示館があります。

 後円部と造出しです、円筒埴輪が並べられています

 南西側から見ました

 将軍山古墳展示館へ行ってみましょう

 将軍山古墳南東側の堀跡は無くなってしまっていますが、アオサギが水路脇に居ましたよ

 後円部南側に将軍山古墳展示館です

 将軍山古墳展示館に入ります、通常入館料が必要ですが「埼玉県民の日」ということで無料でした

 一階の展示室に入りました、将軍山古墳出土の埴輪などが並んでいます

 騎馬像が展示されています


 説明版です
   復元!古墳時代の馬の装い
 わが国に騎馬の風習がはじまるのは、4世紀末ころからで、朝鮮半島との交流のなかで、はじめて騎馬術と馬具がもたらされました。
 馬具は5~6世紀の古墳に、副葬品として納められていますが、金属部分をつないでいた革や布・木質部分は、腐食してしまうため残りません。馬への装着方法は、馬具の形状や馬形埴輪を参考に復元しました。
 将軍山古墳のような、金色に輝くきらびやかな馬具や旗をつけて飾りたてる馬は、儀式や祭典などの際に重要な役割を果たしました。時には馬冑をつけて武装し、威信を高めることもあったと考えられます。

 二階へ上がると、横穴式石室(玄室)の復元展示です

 馬具装着想定図です
 将軍山古墳から発見された馬具には、騎乗に必要な轡・鞍・鐙・馬を飾るための鏡板・辻金具・鈴・杏葉・雲珠・蛇行状鉄器、戦いの際に馬の頭を保護する馬冑があります。
 これらの馬具の中で、馬冑と蛇行状鉄器は全国的にも発見例が少ない貴重な資料です。蛇行状鉄器は、鉄棒を数段にわたって折り曲げ、一方を二股に作って鞍に装着し、片方の端に旗竿を差し込んだものです。
 この使用例は、埴輪や朝鮮半島の古墳の壁画にみることがでみます。
 将軍山古墳からは鉄製の珪甲と衝角付冑が出土しています。これらは敵の攻撃から身を守るための防具です。
 珪甲は約900枚の小札とよばれる孔の開いた細長い小さな板を、紐や革で綴じ合わせて作る「よろい」です。
 衝角付冑の頂には、三尾鉄とよばれる後方に3本の枝が出る小さな部品が付き、ここには、偉容を表わすために鳥の羽をつけていたようです。
 想定図のように、頸・肩・腕を守るための装具が出土する例もあり、これらで武装すると30kg近い重量になります。

 遺構模型配置図です
 将軍山古墳は、埼玉古墳群で初めて横穴式石室を採用した古墳です。石室は石積みで造られ、棺を納めるための長方形の玄室と、外部から玄室に通じる羨道で構成されています。
 側壁の石は、120kmも離れた千葉県富津市の海岸で採取されたと考えられる「房州石」が使用され、天井には埼玉県長瀞町付近で採取される、大きな板状の緑泥片岩を使用していました。
 現在は石積みの最下段だけが残り、他の部分の石は、石室周辺の土とともに消失していました。また、羨道も全長の半分以上が失われています。
 将軍山古墳の横穴式石室は、明治27年(1894)に最初の発掘が行われ、多数の豪華な遺物が出土していることで知られています。
 しかし、遺物の多くは破損し、腐食していることから、これらの遺物の復元模型を製作し、石室内に副葬された当時の状態を想定して配置し、埋葬のようすを再現してみました。
 遺体の安置には木棺が使われ、鏡・金環・玉・大刀は棺の中に納められます。矛や矢は棺の周辺に、銅鋺や須恵器などの容器は棺の手前に置かれ、甲・冑などの武具、鞍・鐙などの馬具は各々がまとまりをもって置かれたと推定されます。
 副葬品には時期差が認められることから、追葬が行われたことが考えられます。その際には古い副葬品は隅にかたづけられたようです。

 では、将軍山古墳展示館を出て、次は南西側の二子山古墳へ行ってみましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・稲荷山古墳」です!!

2024-12-02 18:30:15 | 遺跡・史跡
 続いて、前回の丸墓山古墳頂から東側に見えた稲荷山古墳です

 稲荷山古墳は、国宝指定の「金錯銘跌剣」を初めとする多数の遺物が出土しています

 丸墓山南西側のさきたま古墳公園案内図です、稲荷山古墳は図の左端(さきたま古墳公園北の端)にあたります

 南西側の稲荷山古墳入口です

 左手(西側)に丸墓山古墳を見ました

 前方部です

 説明版です
   稲荷山古墳
 全長120mの前方後円墳です。
 周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
 古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。
 前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復元されました。
 1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。
 そのうち礫槨は良く残っており、多くの副葬品が発見されました。
 その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。
      平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会

 左手の二重堀跡です、中提に遊歩道が通っています

 復元された前方部に登ります

 前方部から後円部です

 一度くびれ部に下って行きます

 後円部に登ります

 後円頂部です

 頂部西側に頭部が北東に向いた埋葬施設です

 南東側から

 説明版です
   国宝武蔵稲荷山古墳出土品
 115文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を作らせたヲワケという人物の8代にわたる系譜と、ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。
 多彩な副葬品とともに、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、1983年に国宝に指定されました。 
 これらの資料は詳しく解説とともに博物館に展示しています。
   稲荷山古墳 礫槨
 1968年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。
 舟の形に堀た竪穴に河原石を貼り付けて並べ、その上に棺を置きました。
 棺や衣服などの有機物は残っていませんでしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。
 実物の礫槨は、地下1mに保存されています。

 頂部の南西側には二つ目の埋葬施設が石の列で表現されています

 説明版です
   稲荷山古墳 粘土槨
 この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。
 盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、礫槨出土品とともに国宝に指定されています。


 西側に丸墓山古墳です

 南側に将軍山古墳です

 北東側に下りて来ました

 北側から稲荷山古墳を見ました

 中提部の遊歩道を南西へ進みます

 北側の造出しです

 南側から後円部です

 では、公園内広場を真っ直ぐ南へ出て、「将軍塚古墳」へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・丸墓山古墳」です!!

2024-12-02 06:37:00 | 遺跡・史跡
 ここからは、2024年11月14日埼玉県民の日の埼玉(さきたま)古墳公園の取材分を古墳毎の紹介させて頂きます

 埼玉古墳群は、行田市役所の南東約2kmのところ、市役所は忍城跡に当たります

 まず最初は、丸墓山古墳です、豊臣秀吉の小田原攻(北条氏)の際に、石田三成が陣を置いた事でも有名です。
 和田竜による日本の歴史小説として、またそれを原作とする2012年の日本映画、野村萬斎さん主演の「のぼうの城」でも描かれていますね
 忍城跡や石田堤の考察は、「余呉くんのお城のページ」に詳しく出ていますので参考にしてくださいね

 今回は、赤城山(群馬県前橋市:深田久弥の日本百名山第40番)にキャンプに行った帰りで、利根大堰(行田市大字須加字 船川)で魚道の様子を見て(魚はいませんでした)から、県道20号から県道306号へと南下して、「野合新橋信号」を左(東南東)へ

 間も無く左手の駐車場の入り、奥(北)側に車を止めさせて頂きました

 駐車場脇の「さきたま古墳公園 案内図」です。丸墓山古墳は図の上方に丸い黄緑で表現されています

 「埼玉県立さきたま史跡の博物館」の北側の県道入口から北へ伸びる遊歩道北東へ進みます

 丸墓山への入口です、桜並木は石田堤に上に植栽されています

 古い「さきたま古墳公園案内図」です

 石田堤説明版です
   石田堤
 この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部です。
 長さ約28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川のミスを流入させたと言われています。
 三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られました。

 「史跡埼玉村古墳群」の標柱です

 「埼玉村古墳群」石碑です
    埼玉村古墳群
 武蔵北部は隣国上野と共に古墳の依存殊に多く、凨に人煙稠密交運の発達熾なるを察せしむ本村は、寶年真中樞を占めて埼玉郡名北基く所、縣名また此属に由来し百越沼で算する大小の古墳累々起伏するもの故なきに非ず。
 昭和13年8月特に顕著なる丸墓山、二子山・・9基は埼玉村古墳群として文部大臣より史跡の指定を受けしが、古墳群の指定は僅かに九州に1例のみ、まして未だ他余見ざる所なり。
 丸墓山は規模壮大に圓境として布有の・・に属し、天正18年豊臣氏の小田原征討の際、部将石田三成陣営を設けて忍城攻略を計ると傳へられ、今回保存の・・全うせん為め挙村の協力に依り指定地域を村有と為に堂召建碑の議あり、本史跡は指定に関係なること前後久しき放を以て予に其汜残属せらるのち一言を氏・に叙す。
     昭和14年10月   柴田常恵・・撰  ・村担・書
 *読めない文字が沢山ありました<m(__)m>
 *柴田 常恵は、明治10年(1877)~昭和29年(1954)、日本の歴史考古学者で、慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任しています。

 丸墓山古墳説明版です
    丸墓山古墳
 直径105mあり円墳では日本最大級です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約17mあります。
 墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。
 出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。
 埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。
 南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。
 水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。
        平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会

 *ウィキペディアによると・・・
 最大の円墳は埼玉古墳群中にある丸墓山古墳(墳径105m)とされてきた。しかし奈良県奈良市にある円墳の富雄丸山古墳を市教育委員会が平成29年(2017)に測量調査した結果、従来直径86mとされていたこの古墳が直径110m前後に復元できることが判明した。
 そうなれば富雄丸山古墳が丸墓山古墳を抜いて最大の円墳となる。ちなみに前方後円墳最大の大山古墳の後円部径は250mであり、後円部径が100mを超える前方後円墳は約50基を数える。
 と、なっていて、説明版の「最大級」の上張りされた理由ですね

 丸墓山へ登りましょう

 丸墓山に上がって来ました

 振り返って南西側の上り口です

 北西側です

 忍城の御三階櫓を模した「行田市郷土博物館」です

 北西側には説明版です
   丸墓山古墳と忍城
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km(一説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。
 丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。
 北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。 

 東側には、左手に金文字鉄剣で有名な「稲荷山古墳」と右手に古墳が展示館に成っている「将軍山古墳」が見えます

 北東側の下り口です

 北東側に下って来ました

 丸墓山古墳頂部です

 丸墓山古墳の北西側にはの石だ堤の跡のような高まりです

 では、次は「金錯銘鉄剣」出土の「稲荷山古墳」へ行きましょう 
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岩手県陸前高田市、気仙町砂盛「 高田松原の奇跡の一本松と大防潮堤」です!!

2024-12-01 07:01:00 | ドライブ
 気仙町砂盛地区は、陸前高田市役所の南西約2kmのところ

 道の駅高田松原・東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)が併設されていて、JR釜石線BRTの「奇跡の一本松駅」にもなっています。

 平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で被災した「旧道の駅高田松原(タピック45)」でしたが、新たに「重点道の駅」に選定され、震災の犠牲者への追悼と鎮魂、復興への強い意志を国内外に向けて明確に示すことを目的として整備されました。
 「高田松原津波復興祈念公園」は、約130 ㌶( 東京ドームおよそ30 個分)という広大な面積を誇り、国、県、市による復興プロジェクとの一環として、令和3年(2021)に完成しました。
 「国営追悼・祈念施設」及び「東日本大震災津波伝承館」が、たくさんの方に追悼や学習のためなどに利用され、この日も、土曜日ということもあり大勢の方々が、道の駅を利用していました。

 駐車場南西端に車を止めさせて頂きました
 
 曇り空で降ったり止んだりの一日でしたが、降らないようなので「道の駅高田松原 大屋根休憩スペース」から南西に向かいます

 右手に見えるのは

 巨大なベルトコンベアの基礎(土台)です

 説明版です
   希望のかけ橋とベルトコンベアの基礎
 ・希望のかけ橋
 東日本大震災津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市では、高さ10m以上に及ぶ市街地のかさ上げ盛土工事が行われました。
 その工事で土砂を運搬した巨大ベルトコンベアとそのためのつり橋希望のかけ橋の基礎部分が、ここに残されています。
 気仙川をはさんで、高台の住宅地造成のために掘削した土砂を、市街地のかさ上げ盛土用に運んだベルトコンベアは、幅1.8m、全長3km。
 2014年(平成26年)3月末から2015年(平成27年)9月末までの稼働期間中に運んだ土砂は500万㎥。
 これは、かさ上げ盛土に必要な1200万㎥の約4割にあたり、10tトラックなら9年ほどかかる運搬作業を1年半に短縮しました。
 市内の小学生に公募し決定した希望のかけ橋。「まちの復興と未来へのかけ橋に」との願いが込められました。
 ・復興遺構として後世に伝える
 2015年(平成27年)9月まで稼働し、被災した市街地のかさ上げ盛土工事の工期短縮に大きな成果をあげた希望のかけ橋とベルトコンベアは2016年(平成28年)から解体が進む中で保存の声が上がり、気仙川をはさんだ基礎部分の保存がけっていしました。
 ベルトコンベアと橋の設置に当たっては、土砂のスピーディーな運搬はもちろん、サケやアユが遡上する気仙川の環境にも配慮し、河川内に支柱を建てるのないつり橋構造が採用されました。
 復興への道のりは長く険しいものです。希望のかけ橋は、長期にわたるこうした復興過程を後世に伝える場所として、その新たな役割を果たしています。

 対岸に「奇跡の一本松」が見えて来ました

 奇跡の一本松の説明石碑です
   奇跡の一本松
 平成23年3月11日に発生した東日本大震災津波は、東日本各地に未曾有の被害をもたらしました。
 陸前高田市においても多くの方々が犠牲となり、市街地は壊滅し、市の象徴であった高田松原も失ってしまいました。
 そんな中、唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」でした。
 震災直後から、陸前高田市民だけでなく全世界の人々に親しまれてきた「奇跡の一本松」。
 その後、海水による傷みによって枯死してしまいましたが、陸前高田市では、この一本松を鎮魂・希望・復興の象徴として保存することといたしました。
 この保存企業は、日本全国、そして世界からの数多くのご支援によって実現したものです。
 みなさんの想いがこめられた「奇跡の一本松」は、これからもずっと、わたしたちを見守りつづけます。
         平成25年3月  陸前高田市

橋を渡って北側から、後方にはユースホステルの残骸です

 震災遺構 奇跡の一本松
 ・震災前の「奇跡の一本松」
 東日本大震災津波被害前、「奇跡の一本松」の東側に広がっていた「高田松原」の約7万本の松林は、江戸時代の防風、防潮林としての植林がその始まりでした。
 その後、津波多発地帯であった三陸沿岸には、1896年(明治29年)の明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波など何度も大津波が襲来、沿岸住民に多大な被害を及ぼすとともに多くのマツも枯死するなどの被害を受けてきました。
 しかし「奇跡の一本松」はその度に津波被害を乗り越え、生き残ってきました。
 「奇跡の一本松」は、アカマツとクロマツの交雑種(アイグロマツ)で、高さは約27.5m、幹の直径約90cm、東日本大震災津波発災時の樹齢は173年でしたが、「高田松原」内の周囲の老樹のマツに比べてもとりわけ大ぶりなマツの木でした。
 ・被災状況
 2011年(平成23年)3月11日、大地震とともに発生した大津波は、5.5mの防潮堤(当時)を倍以上の高さで乗り越え、松林をなぎ倒しながら陸前高田市の市街地を襲いました。 
 過去の度重なる津波には耐えてきた松林でしたが、ほとんどのマツが流失しました。
 その中で、津波を耐え抜き、倒れずに最後まで残ったのがこの「奇跡の一本松」でした。
 震災津波で深く傷ついた人々の心の支えとなり、復興のシンボルとして全国に知れ渡った「奇跡の一本松」でしたが、海水により深刻なダメージを受けており、震災翌年の2012年(平成24年)5月には、枯死が確認されました。 
 しかし、保存を願う市民、また内外からの温かい支援により、モニュメントとして保存され、今も震災の記憶を伝え続けています。
 ・保存活動ーー奇跡の一本松プロジェクトーー
 枯死が確認された一本松をモニュメントとして保存することを目指したプロジェクトは、国内外の多くの方々から寄せられた募金を原資として、2012年(平成24年)9月にスタートしました。
 屋外でのこのような保存例はありませんでした。そこで幹部分は、特殊な防虫防腐処理を行い、自立させるため芯棒を入れ、その素材には航空宇宙技術などさまざまな先端技術が使われました。
 2013年(平成25年)6月に完成しました。

 東側から見上げました

 「奇跡の一本松」の南側には、震災遺構「陸前高田ユースホステル」です

 陸前高田ユースホステルの説明石碑です
   震災遺構 陸前高田ユースホステル
 「陸前高田ユースホステル」は風光明媚な高田松原公園内にあった宿泊施設でした。
 1969年(昭和44年)竣工の鉄筋コンクリート2階建て、延べ床面積698㎡、玄関ホールを中心に左右に客室がのびた美しい建物でした。
 2011年(平成23年)1月から休館中だったため東日本大震災津波の発災当日は無人でしたが、津波によって建物は完全に水没。
 砂地だった地盤が大きくえぐられ、建物の東半分が折れ曲がるように破壊された姿は、津波の脅威を如実に物語っています。
 「奇跡の一本松」は、この建物があったために津波の直撃を免れ、倒れることなく残ったと考えらてれます。

 北東側から

 東側から見ました

 奇跡の一本松の東側には「被災したマツの根株」がありましたが、ほぼ残っていません

 説明石碑です
   被災したマツの根株
 巨大津波に襲われた名勝高田松原。江戸時代から植林を重ね、地域の人々に親しまれてきた約7万本の松林は、津波に飲み込まれ、そのほとんどが流失しました。
 津波の去った後には、地面の砂が洗われて浮き上がった沢山のマツの根株が残されていました。

 大防潮堤に登って見ましょう

 奇跡の一本松付近に「松坂新右衛門翁顕彰碑」が設置されました。この碑は東日本大震災津波で流され気仙川水門工事の際に発見されたものです。松坂新右衛門はかつて江戸時代に不毛の地であったこの場所に私財を投じ松を植え高田松原の礎を築き、初めて植林に取り組んだ菅野杢之助と並ぶ偉人の一人です。(高田松原の北東側にあったとされる菅野杢之助翁顕彰碑はまだ見つかっていません)
 顕彰碑の文面には・・・
    松坂新右衛門定宣翁
      顕彰碑
        岩手県知事 千田正 書
 この旧称今泉松原は、その始め享保年中気仙町和名倉松坂家第4代の租松坂新右衛門定宣翁によって植栽されたのである。
 当時此の地は一木も無く、海風は絶えず砂じんを耕地に吹き入れ、そのため田圃は埋没荒廃し、収獲皆無こと再びに及んだ。
 翁は此のことを深く憂え、之が対策は防風林の造成にあるのみと、多額の私財を投じて苗木を求め、人夫を雇い、自らも身を挺して赤松の数千を植え付け、更に幾多の悪条件を克服し、かつ補植をつづける管理をよくし、以て今日の美林の基をつくりあげた。
 それより歳月を経ること250余年、我々は今松原を郷土の名勝として他に誇り、安んじて農耕に従事して豊穣を喜ぶ。是皆翁の深慮の賜と言うべきである。
 気仙川の清流は、滔々として千載に語り、太平洋の碧浪は白砂を打って賛歌を奏で、翁の功業を常してに称えようとしている、我等気仙町民亦是を子孫に伝えてその功績を謝し、永く後世の亀鑑とせんと此の閑地に石文を建て、以て顕徳の微意を表する次第である。
        昭和47年仲春

 三陸ジオパーク説明版です
   高田松原ジオサイト
 ・概要
 高田松原には、かつて約2kmに及ぶ砂浜と約7万本のクロマツが防潮林として存在していました。
 東日本大震災津波で甚大な被害を受け、奇跡的に残った松は「奇跡の一本松」と呼ばれ、復興のシンボルとなっています。
 南部三陸海岸は、入り組んだ岬や入り江で知られるリアス海岸が天然の良港となるとともに、複雑な岩礁が海洋資源を育んでいます。
 一方で、湾の入り口から奥へ狭くなる形状と、水深が浅くなる地形的特徴から、津波の波高が大きく増幅されるため、繰り返し大きな被害に見舞われてきました。
 ①繰り返される津波被害
 ②災害文化の伝承と次世代への継承
 周囲の見どころ
 ③玉山金山跡
 ④氷上山
 ⑤気仙縄文遺跡(「中沢浜貝塚」)
 ⑥南部北上帯の古生界
 三陸地域の成り立ち
     三陸ジオパーク推進協議会
 ③

 防潮堤の斜面を上がると西側に気仙川水門が良く見えます

 防潮提に上がりました、右(西側)から

 南側です、松原の再生が進められています

 東側ははるか遠くまで防潮提が続いています

 高田ユースホステルと奇跡の一本松を見下ろしました

 気仙川水門へ行ってみます

 防潮堤上から南側(広田湾)側に下りて水門を見上げました

 東側は波に洗われていますので諦めて戻ります

 水門脇から高田ユースホステルと奇跡の一本松を見ました

 防潮堤上を東へ進みましょう

 「道の駅高田松原」正面(南東側)の「海を望む場」から西側の松原です

 南側です

 東側です

 「道の駅高田松原」へ戻りましょう

 戻って来ました、右側(北東側)が東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)です

 賑わって居たので、トイレだけ借りて、今回の宮城・岩手の取材旅行2024年10月15日からの5日間を終わりにし、三陸道から東北道で埼玉へ戻ることにしました

 2024・10・19・15・00


 今回は、かなり長いブログに成ってしまいました、ご覧いただきありがとうございます<m(__)m>


コメント (1)
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