始皇帝には二十数人男子がいたとされるが、また、姚氏は隠士が遺した章邯(しょうかん)の書物にある「李斯は17人の兄を廃(殺して)して、(胡亥)を二世皇帝として、今の王として擁立した」とする記録があるから、始皇帝の18番目の男子であると推測します。
始皇37年(紀元前210年)10月、父の始皇帝が5回目の巡幸に出た際、左丞相の李斯は始皇帝がお供となり、右丞相の馮去疾(ひょうきょしつ)が留守を任された時、胡亥は巡幸のお供となることを願い、始皇帝に許され、巡幸に同行することになった。
巡幸中に始皇帝は発病し、ますます病は重くなった(始皇帝は長寿の薬として水銀を服用していた)。そこで、胡亥の長兄にあたる公子の扶蘇へ、皇帝の印を捺した「(始皇帝の)喪を(秦の都である)咸陽(かんよう)で迎えて、葬儀を行え」という内容の文書を作り、与えることにした。皇帝の印が捺された文書は封印がされ、中車府の令(長官)であり、符璽(皇帝の印)を扱う事務を行う趙高のところにあり、まだ、使者には授けられていなかった。
同年7月、始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御した。左丞相の李斯はこの知らせを秘密裏にし、すぐには発表しなかった。同時に宦官の趙高は胡亥にこの事を伝え、「扶蘇様が即位すれば、他の公子にはわずかな土地も与えられません」と告げた。胡亥は「父が決めた事に、私が何を口を挟むことがあろうか」と答えたが、趙高はさらに帝位の簒奪(さんだつ)を促し、「殷の湯王や周の文王は主(夏の桀王(けつおう)・殷の紂王(ちゅうおう)を誅し、天下の人々は殷の湯王や周の文王の義を称えました。小事に拘って大事を蔑ろにすれば、後に害が及ぶものです。ためらえば必ず後悔することになります」と述べた 。度重なる訴えについに胡亥は趙高の謀略に同意し、その後趙高は宰相の李斯をも説得し、謀略に引き入れた。3人は始皇帝の詔を偽って胡亥自身は皇太子に即位し、長男の扶蘇と将軍の蒙恬には使者を送り、始皇帝の筆と偽って多数の罪状を記した書状を渡して、両名に死を賜った。
書状を受け取った扶蘇はすぐに自殺したが、蒙恬はこれを疑って再度の勅命を要求した。胡亥は蒙恬を許すことを望んだが、趙高はかつて蒙恬の弟である蒙毅が、自身を法に基づいて死罪にしようとしていたことを恨んでいたため「先帝(始皇帝)は長らく優れていた胡亥様をこそ、太子に立てようと望んでおられました。しかしこれに蒙毅が反対していたため、実現に至らなかったのです。これは不忠にして、主君を惑わすものです。誅殺するに越したことはありません」と唆した。胡亥はこれを聞くと蒙恬・蒙毅を投獄した。胡亥が咸陽に着くと、始皇帝の死を発表し、太子である胡亥は即位し、二世皇帝となった。
蒙恬・蒙毅の処刑
同年9月、始皇帝を驪山(りざん)に葬った。胡亥は始皇帝の後宮の女官らを、全て始皇帝に殉死させた。また始皇帝の棺をすでに埋めた後で、「工匠たちは(始皇帝の墓の)機械をつくったので、全員が埋蔵されたものを知っています。埋蔵されたものは貴重であり、埋蔵したものが外に漏れたら、大ごとになります」という進言を受けて、墓の中門と外門を閉めて、埋蔵に従事した工匠たちを全て閉じ込めて、二度と出られないようにした。さらに、墓の上に草や木を植え、山のように見せかけた。
胡亥は趙高を側近として信任した。趙高は、蒙恬兄弟を中傷して、その罪過を探し、弾劾した。胡亥の兄 である子嬰(しえい)は、蒙恬兄弟をいたずらに処罰することを諫めたが、胡亥は聞き入れなかった。
また、時期は不明ながらこの頃、胡亥は趙高を召して「私は耳目に心地よいものや心から楽しいと思うものを全て極めつくした上で、宗廟を安んじて、天下万人を楽にして、長く天下を保ち、天寿を終えたいと望んでいる。このようなことを可能にする手立てはあろうか?」と尋ねた。趙高は「法を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、大臣を滅ぼし、(胡亥の)親族を遠ざけて、陛下(胡亥)が新しく取り立てたものをお側に置けば、枕を高くして楽しみを得らえるでしょう」と答えた。胡亥は同意して、法律を改めて、群臣や公子に罪あるものがいれば、趙高に引き渡して、糾問させた。
胡亥は蒙毅に使者を遣わして「先主(始皇帝)は、(胡亥を)太子に立てようとしたのに、卿は反対した。丞相(李斯)は、卿が不忠であるとみなしている。罪は、宗族に及ぶほどであるが、朕(胡亥)は忍びないので、卿に死を賜う(自殺すれば、罪は宗族に及ばないという意味)」と言い渡した。蒙毅は弁明の機会を要求したが、使者はこの言葉に耳を傾けず蒙毅を殺害した。続いて、胡亥は蒙毅の兄の蒙恬にも使者を遣わし、蒙毅の罪を糾弾した。蒙恬は胡亥への諫言の後に罰を受ける事を要請したが、使者は「私は詔を受けて、法を将軍に執行しようとしているだけです。将軍の言葉を上(胡亥)にお伝えすることはできません」と答えた。蒙恬は毒薬を飲んで自決した。
公子らの粛清
胡亥は法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時「大臣は私に服しておらず、官吏はなお力を持っている。諸々の公子に及んでは、必ず私と争う気でいる。どうすればよいのか?」と尋ねた。趙高は「群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」と促し、胡亥はこれを受けて大臣や諸々の公子の粛清を実行した。公子12人は咸陽の市場で処刑され、公主10人は杜(地名)において車裂の刑に処された上に市場で晒し者とされ、財産は朝廷に没収された。公子の一人であった高などは逃亡しようとしたが、一族が連座するのを恐れ、自ら始皇帝への殉死を訴え出た。
同年4月、胡亥は始皇帝の開始した阿房宮の工事の再開を命じ、「今、阿房宮が完成しないままに放置したら、先帝の行いを過ちであったと咎める所業である」と述べた。また郡県に物資や食料の上納を命じ、豆や穀物、まぐさを徴発して咸陽に運ばせたため、咸陽の周囲300里は収穫した穀物を食べることすらできなくなったという。また、法令や誅罰は日々厳しさを増していき、道路の工事や租税の取り立てがますます重くなり、兵役や労役は止むことがなかった。
陳勝・呉広の乱
同年7月、秦の朝廷への大規模な農民反乱である陳勝・呉広の乱が、南方の楚にて勃発します。反乱を起こした陳勝たちは陳を制して長楚の王を名乗り、また国内各地に武将を派遣して秦の官軍の攻略を命じ、反乱には数え切れないほどの農民が参加した。
胡亥は使者から反乱の事実を伝えられたが、これに怒って使者を獄に繋いだ。その上で諸々の学者や博士を召して「楚の守備兵(陳勝・呉広たち)が蘄を攻略し、陳に侵入したようだ。君たちはどう見るか」と尋ねた。多くの者は「これは反乱ですので、すぐに軍を出して討伐してください」と答えたが、学者の一人であった叔孫通(しゅくそんつう)は「ただの盗賊や泥棒ですので、郡の守尉がすぐに捕らえるでしょう。心配に及びません」と回答した。胡亥は叔孫通の言葉に同意し、全ての学者に対して改めて「反乱と捉えるか、盗賊と捉えるか」と答えさせた。胡亥は「反乱である」と答えた学者を取り調べさせ、「言うべきではないことを言った」との理由で投獄した。胡亥は、叔孫通に絹20匹と衣一組を賜い、博士に昇進させた。官舎に帰った叔孫通は、「危うく虎口を脱しそこねるところだった」と話して、すぐに朝廷から逃亡したという。
この頃から、丞相の李斯はしばしば胡亥を諫めようとしていたが、胡亥は李斯が諫めることを許さず、逆に「私には私の考えがある。古代の聖人君子であった堯・禹らは、衣食住を質素とし、捕虜よりも重いほどの労役を自ら行ったが、これは愚か者の行為であり、賢君の行為ではない。賢君とは天下を己の思い通りに治めるものであり、自分を満足させることさえできないのに、天下を治めることができるだろうか」と反論した。李斯は保身のために忖度して「堯や禹のやり方は間違っていました。君主が独断専行を行い、厳しい刑罰を実行すれば、天下の人々は罪を犯す事はないでしょう。賢君は嫌う臣下を廃し、好きな臣下を取り立てるものです。仁義の人、諫言を行う臣、節に死ぬ烈士を遠ざけるべきです。臣下への統制が厳格なものとなれば、天下は富み、君主の快楽はさらに豊かなものになるでしょう」と上書したので、胡亥はこれに喜んだという。以降、胡亥は臣下への圧迫・刑罰がますます厳しくなり、民から重い税を取り立てるものが優秀な役人とされた。また民衆の中にあっても刑罰に処されたものは国民の半数にも達し、処刑されたものは日々市に積み上げられたという。
丞相・李斯の刑死
この頃、胡亥は、趙高から「陛下は若くして皇帝に即位されたばかりであるため、陛下に過ちがあれば、群臣たちに短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」という進言を受ける。これ以降、胡亥は常に禁中にこもり、大臣たちは趙高を介してしか対面できなくなった。
丞相の李斯はこの措置に不満を持ったが、趙高は表向き李斯に「胡亥を諫めてほしい」と伝え、胡亥が酒宴を行っている時に限って李斯に上殿を要請したため、胡亥は李斯が酒宴の時に限って訪ねてくることに憤りを漏らした。すると趙高は「李斯は故郷の近しい陳勝たちと内通し、君主位の簒奪を狙っています」と讒言した。これを聞いた胡亥は、李斯への取り調べを開始した。李斯は上書して「趙高には謀反の志があります」と訴えたが、胡亥は「趙高は忠義によって昇進し、信義によって今の地位にあるのだ。趙高の人柄は清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じている。朕は趙高をすぐれた人物と思っている。君も彼を疑ってはいけない」と趙高を擁護した。李斯はなおも「そうではありません。趙高は元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。ですから、私が危険であると見なしているのです」と処断を求めたが、胡亥は李斯が趙高を殺すことに恐れを抱き、趙高にこの頃を告げた。趙高は「私が死ねば、丞相は秦を乗っ取るでしょう」と答え、胡亥は李斯の身柄を趙高に引き渡すよう命じた。
胡亥は、趙高に、李斯の罪状を糾明して裁判することを命じ、李由の謀反にかかる罪状について、糾問させた。李斯の宗族や賓客は全て捕らえられた。胡亥は使者を派遣して、李斯の罪状を調べさせたところ、李斯は趙高の配下による拷問に耐えられず、罪状を認めてしまった。胡亥は、判決文の上奏を見て、喜んで言った。「趙君(趙高)がいなければ、丞相(李斯)にあざむかれるところであった」。胡亥が取り調べようとしていた三川郡守の李由は、使者が着いた時には、項梁配下であった項羽と劉邦と戦い、戦死した後であった。趙高は李斯の謀反にかかる供述をでっちあげた。
李斯に五刑 を加え、咸陽の市場で腰斬(ようざん)するように判決が行われた。李斯の三族も皆殺しとなった。
この頃、王離(おうり)に命じて、趙を討伐させる。王離は趙歇(ちょうけつ)・張耳(ちょうじ)らの籠る鉅鹿(きょろく)を包囲した。
鹿を謂いて馬となす
二世三年(紀元前207年)胡亥は李斯に代わって趙高を中丞相に任命し、諸事は大小に関わらず全て趙高が決裁することとなった。この頃、秦の将軍の章邯は、朝廷に背いて王を名乗った趙歇の居城・鉅鹿の包囲に向かっていたが、同年12月、楚軍を率いる項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破して秦軍の包囲を解いた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽に属することになった(鉅鹿の戦い)。翌年1月には楚軍の項羽率いる諸侯連合軍により、秦の将軍で王翦(おうせん)(始皇帝の中華統一に貢献し、項羽の祖父の項燕を戦死させた)の孫の王離が捕らえられ、さらに同年3月には同じく楚軍の劉邦が秦将の趙賁(ちょうふん)・楊熊(ようたい)らを破った。楊熊は滎陽へ敗走したが、胡亥は使者を派遣し、楊熊を処刑して見せしめとした。
同年4月、項羽率いる楚軍は章邯を攻め、章邯はしばしば退却を取ったため、胡亥は使者を派遣して章邯を叱責した。章邯は副将の司馬欣を首都咸陽に派遣して援軍を要請しようとしたが、司馬欣は趙高に捕縛され処刑されそうになったため、司馬欣は咸陽から逃げ出した。そのため最終的に、章邯は司馬欣の勧めもあって楚軍に降伏し、項羽によって章邯は雍王に封じられた(鉅鹿の戦い)。
この頃から、趙高は胡亥の弑殺を企むようになり、その前段階として群臣たちの思惑を問い質そうとした。そこで趙高は鹿を用意し、「馬です」と称して胡亥に献上した。胡亥は「鹿の事を馬だと言うとは、丞相は何を間違えたのだ」と笑って答えたが、胡亥が左右の群臣たちに問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高に阿り従って「馬です」と言い、ある者はその通りに「鹿です」と言った。趙高は「鹿です」と答えた諸々の者たちを、密かに処罰したとされる。これが、いわゆる「指鹿為馬」(鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった。
望夷宮の変とその後
この頃胡亥は、1匹の白虎が自分の馬車を轢く左の馬を食い殺してしまう、という夢を見て不安を感じ、夢占いの博士と相談した後に、咸陽宮から涇水周辺にある望夷宮へと移った。その後も趙高による謀反の計画は進行しそしてついに同年の某日趙高の娘婿の閻楽(えんらく)が「宮中に賊が入った」と称して兵士たちを率いて宮中に押し入り、胡亥の寝所にまで押し寄せ、胡亥の罪状を数え上げて「あなたは無道な君主であり、天下の者は皆あなたに背いている。あなたは自裁するべきである」と言い渡した。
胡亥は「丞相(趙高)に会うことはできないのか」と尋ねたものの聞き入れられず、さらに「(位を退くから、せめて)郡王にしてくれないか」と求めたが、閻楽は同意しなかった。胡亥はなおも「(それならさらにせめて)万戸侯(ばんここう)にしてくれないか」と臨んだが、閻楽はこれにも同意しなかった。そして最後に胡亥は、「妻子ともども、平民百姓としてでも良いから生かしてほしい」と懇願した。しかし閻楽は「私は丞相の命を受け、天下の百姓(ひゃくせい)に代わってあなたを死刑に処す。あなたは多くを話したが、敢えて丞相に報告することはない」と語った。胡亥は生き延びられない事を知り、自害させられた。これが『史記』始皇本紀に記された、胡亥の死の顛末であります。(望夷宮の変)。
趙高は胡亥から皇帝の玉璽を奪い取ったが、百官が従わなかったため、胡亥の兄 である子嬰に玉璽を渡し、同年9月、子嬰は正式に秦王に即位する。胡亥は庶民の礼式のみを以て、杜南の宜春苑の中に葬られた。悪政をすればその報いがあるし、無能で傍に付いていた趙高も悪い力量ばかりで自分の保身と欲ばかりだから秦が滅びるのは当然の結果でしたね。