針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

山法師今年も綺麗に咲きました。

2024-07-04 05:22:09 | 立科・信州の話。

今年は花が咲くのが早いのかね?。車でうち迄来る途中、普段より早く咲いている木が多く見られます。早く見られるのはいいのですが、やはり温暖化が気になりますね。良く「温暖化」を取り上げてますけど、太陽系の話からすると、段々と太陽に近づいてしまいには取り込まれてしまう訳ですが、1cmでも近づくと徐々に気温も上昇してくるので気がかりです。

よくFS小説や映画で地球脱出の光景がありますが人類が他所の天体に移住する事なんかできるんだろうかね?。とまあ、何億年という先の話なんですけど。

            

それより馬鹿なプーチン、習近平、キムジョンウンなんかが核を使って地球を破壊してしまうかも知れないね。
今はもう目の前の綺麗な花を愛でて、風流に浸るとしよう。

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やっとブースターポンプが着きました・・・と思ったら

2024-06-25 06:40:26 | DIY

1年掛かってやっとブースターポンプが着ました。これでやっと元の自分の部屋に入れると思ったら、何と天井からポツリポツリと漏水が始まってしまった。その原因と言えば、そのブースターポンプの圧力が強いので大体老朽化していた管が耐え切れなくなって漏り始めたという事です。

このポンプ1台で全の給水が出来るので地下にある受水槽もいらなくなって此処が一つの部屋になってくれるので収納の部屋が出来るので喜んでいたのだが、豈はからんやぽたぽたと漏り始まてしまった。幸い漏っていた箇所がすぐに見つかって応急措置をして減圧装置を各階に取り付ける事に。

              

針外しは老朽化した管に新しい圧の強いポンプで配水すると耐えられなくて漏水する箇所が出てくると監督に言ったら管の内側は塗料で塗膜がされているので心配ないとの事でしたが2か所も漏水してしまいました。幸い漏洩箇所が目で見て分かる処だったので良かったですが。

結果各ポンプの前に減圧装置を付ける事になった。そのお陰で勢いが強くて圧力調整が出来なかったのだが、調整が出来るようになりました。

 

          

人間事を始めると。何かしらそれに付随して問題が起きてきます。前々から言っている様に自分の身辺の問題は出来るだけ早く片づけておくのがいいですね。「どうせ、必要に迫られて事が起きるのでその時片付ければいいや!」なんてそれは甘いです。問題が山積してくると人間、「時が解決してくれる」なんて甘い事言って結果、うっちゃちゃいますね。

        
                こういうクランクしている処が腐りやすいのだね。

問題は一つ一つ解決して行かないと消えていきません。

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蓮華つつじが満開です。

2024-06-18 17:10:03 | 立科・信州の話。

立科のここいらは本来牧場だったと聞いていますが定かではありません。牛とか馬とか野生のシカが牧草とか美味しい草を食べるのですが、この蓮華つつじは花とか葉に毒素があるらしく当然食べません。でこの蓮華つつじが結果残る事になったわけです。名前も隣の管理地は「つつじが丘」って名前も付いています。

     

うちの庭にも群生が幾つかありまして今回は丁度いい時期に来れた訳です。それでも剪定はある程度しないと駄目ですし、肥料もあげないと花付きが良くありません。本体野生なので肥料なんて上げなくてもいいのですが、それは太陽が良く当たって土壌も保湿されているのが条件です。此処の土地は保湿性はいいのですが、やはり日陰は成長も花付も良くありません。林野庁の方が裏手を伐採してくれたお陰で日当たりが良くなり裏手のつつじもきれいな花を付けるようになりました。

     
道路から家のほうを向いて右の方は植樹してあった白樺がおおきくなったのもあって、日影が増えてあまりよくありませんね。山つつじの枯れ枝や名前の分からない雑木を切ったり払ったりしたら、随分とお日差しがはいるようになってつつじも生き返りましたね。

     
以前、「油粕」を撒いたらここいらに住む「ヤマネ」ちゃんの格好の餌となって随分と食べられてしまったことがあります。物置に入れて置いたら袋を破られて食べられたことがありそれがわかりました。彼等にとってそれが「ごちそう」だったのかもね。

     
また、「ヤマネ」ちゃんが物置小屋に住むとそれを狙った「蛇」(ヤマカガシ)も小屋に住むようになったので、「樟脳」を撒いたり、人間が其処に入ると兎角問題を起こしがちになるもんです。

     

それからは、クリアーのトラックボックスに入れて侵入出来ないようにしました。枯れた部分を取り除いたり、しましたが「強度の切り戻し剪定」はしません。大体がそんなことしなくても咲くと思うからです。

     

とまあ、色々な事を乗り越えて定着してきたのかなあ?。針外しは本来「ど素人」ですから分かるはずもありませんが、下手な思い込みだけはせずに自然に任せた方がいいのかも知れません。人間の思い込みは時によってはその地域の障害になる事になりかねない。それだけは気を付けないとね。

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また今年も飯五の祭りがやってきました。

2024-06-11 11:43:52 | 熊野さんのお祭り

コロナが開けたと思ったらまた何処かでくすぶっているみたいです。針外しは恐竜がいきていた時代に生まれたもんですから、太古から大陸からの黄砂や各種インフルエンザの恩恵を持ちまして免疫がたくさん蓄積されています。というか針の住んでいる東麻布1丁目飯五町会では感染したと聞きませんけどね。

もうこうなったら神輿勢いよく担いで黴菌を吹き飛ばしてしまいましょうや。4年もの間相当我慢をしてきたので、相当皆さん入れ込んでいます。やる気満々ね。例年参加してくれている、通称「担ぎ屋」さんの御一行様がまた来てくれました。この人たちは飯五の宝です。小池のさっちゃん、高橋久幸ちゃん、鷲頭さん、野上さん、そして村山の親父さん(針と同い年ですけどね)ただお一人佐々木の親父さんがお亡くなりになられて非常に残念だし、寂しい限りですけどね。

今年は針の家の隣の会社社長さん以下5人も参加してくれています。新しく参加の人は神輿を歩かせない為にも針外し少々御託を並べて説明ひとしきりです。何故かというと小池君曰く、針外しの声はでかい。(爆音と名付けてくれました)その場でやると皆吃驚してしまいます。あらかじめ、言って心の準備をしておかないとね。

   
                   宵宮、御霊入れです。

今年は針の仲間の「ワン友」さんが4人共、所要、病気、病み上がりですので、2人だけ参加です。この地区は地下鉄が通るようになってマンションが増えたね。今までマンションの上から見ていたのが下に降りてくるようになった。最近は自分も担ぎたいと思っている人も増えたんだ。外人さんも多くなった。彼等も横をスタスタ通り過ぎて横目でみて行きますが、本音は「俺も(私も)やってみたい」と思っているに違いないね。

神輿の出だしは皆、恥ずかしがり屋なのか。声が小さいね。針外しは「お前ら棺桶担いでいるんかい」と大声でどなって、発破をかけます。だから今回は4町会,4騎(基)連合ですが、飯五の神輿は最初から重厚感があります。其処へ持ってきて担ぎ屋さん達が要所要所に入っていますので、神輿が締ってきます。皆も担ぎ屋さんの「担ぎ方」を真似してどんどん上手くなっていきます。他所の神輿を見ると声が揃ってないのでドタバタ、グラグラしています。あれじゃ肩痛いね。三四丁目の神輿も何回か入って声の出し方を見せたんですが、役員たちがただ見ているだけなので、神輿が未だ滅茶苦茶です。

    
    針外しは見るに堪えないので修正済みです。担ぎ屋さん達は顔出さないでくれと要望があったので隠します。

大西の頭も「飯五の神輿が一番いいね」って言ってくれました。だから、例年の宮神輿は他の町会がうちの神輿に入ってきますし。入りたがります。以前は他の町会の娘さんがそっちの半纏着ないで飯五の半纏借りてうちの神輿担いでいました。その娘(こ)も何か悩んでいるみたいでしたが吹っ切れたみたいで、社会に羽ばたいて出ていきました。それも神輿のいい処でね。神輿は大きさの問題ではありません。如何に威勢よく、声を出して調和を取ることが重要です。

 

前回は台風に当たってしまい神酒所ごとぶっ飛んでしまった。奉納書き担当の針外し、4回書き直したがその度に大風がきて飛んでしまったぞ。今年は最後にほんの一寸通り雨みたいに振ったが合間をぬって、恙無く終わることが出来ましたぞ。

                                              

これもまた、担ぎ屋御一同、町会員の皆様,およびご参加の皆様のお陰です。来年もこの勢いを落とす事無く頑張るぞ。

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で、こんな感じ。

2024-06-09 10:26:25 | サボテン・植木・花

 で、咲き始めですがこんな感じです。立科という処に植わっている花の咲く植物は、大別すると、「辛夷(こぶし)」「蓮華つつじ」、「山法師」、「山紫陽花」「山桜」と「小梨の木」位ですかね。中でも「小梨の木」はこんなにも沢山植わっていたかと、咲いてみて吃驚します。

東京なんかですと桜の名所は数多くありますが、立科の山はそこいら中にこの「小梨の木」が植わっています。普段は只の雑木ですが花が咲くと一変しますね。近くのペンションにも「ペンション・小梨の木」という宿もある位です。多分。此処に店を出した時に小梨の木の花の付きようが半端で無かったので感動して命名したんだろうと思います。

                               
       小梨の木の花の付きようは桜の比ではありません。とんでもなく密集しています。

うちの裏にある小梨の木は枝垂れがかっていますが、まるで花の滝のようですね。蓮華つつじにしても紅葉、山法師にしても、座って窓から見えますので花見が出来ます。春の暖かい日差しの中で花見酒と洒落こむととても気持ちがいいですね。

今回丁度この時に庭に植えた木瓜(ボケ)もまだまだ少ないですけど花を付けていました。早咲きの真っ赤な花の「黒潮」オレンジ色の「樺長寿」サーモンピンクの「丹頂紅」、白花の「白寿」草木瓜の「黄華」等まだ一輪しか咲いていませんけど、冬を越して今年になって徐々に勢力を増してきたので嬉しい限りです。

                 

         
    白寿」なんかは衰退して枯れるかとも思いましたが去年の春先に肥料をくれたら元気になって一輪だけど花を咲かせてくれました。

これから期待するのがl黄色の花の「金鵄殿」「司牡丹」桃色の「夢」等ですね。立科の高地は土が60cm凍結(凍結深度と言います)するので中々根張りが悪いのです。だから「発酵油粕」「鶏糞」を土に混ぜてあげないと育ちません。都会ですと今年植えれば来年には花が咲きますが、此処では翌々年にやっと根が張ってそのまた翌年に花芽が出るくらいですね。

他にも白赤混じった「東洋錦」「高嶺錦」なんかも植えたのでいよいよ期待が高まります。

ただでさえ、ボケという品種は新芽が出て翌々年に花芽を付けるそうな。こうやって花芽が出て最多という事は来年からが期待の年になるという事ですね。

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山に行ってきました。

2024-05-29 20:04:35 | サボテン・植木・花

山はもう春です。下界ではもう夏になろうとしていますが山は高度がある分だけ春が遅いです。でも五月の末になると白樺、小梨、他、新緑がまぶしくなってきます。針外しが山に着いた時は小梨の木が蕾の状態で、今にもはち切れそうです。久しぶりに山にきましたがもう新緑が綺麗です、白樺の葉、春もみじ、ボケも一寸ですが花が咲いているのもあります。

都会からくると此処は緑が眩しい。本来、田舎暮らしは性に合っているので此処にくると帰りたくなくなります。



暫くぶりの山ですので、やる事がいっぱい有ります。ボケ(管理人が「呆け」という意味ではありません)の庭の周りの網が雪の重み、暴風中には鹿が網に気が付かなくて体当たりをして棒がひん曲がってしまっているのもあります。イボが付いている棒と支えの黒い棒とも材質は、「アルミ製」です。針外しは以前「鈑金塗装」の仕事をしていましたが、車が衝突してフレームが曲がりますと以前は鉄製のフレームなら温めれば元に戻りますが「アルミ製」ですと元に戻った途端にボロッと切れた割れてしまいます。結果、アルミを使ったフレームを持つ自動車は結果、交換せざるをえないのでエンジン下ろしてそのためにフロントパネルグループを全部外すので工賃がかさむので車の代替えになり、元の車は廃車となってしまいます。

なにはともあれ、いったん曲がったものは修復がききません。

今付けている網は鹿にとって見えずらいので(細かい黒)視認しやすい防鳥ネットに交換です。イボ棒を更に打ち直します、前は下端を土に埋めていたので下草が刈れません張替えによって作業性が改善されました。まずまず、大きい仕事が一つ終わりましたのでちょっと安心ですね。

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狡兎死して走狗烹らる

2024-05-23 18:42:55 | 漢詩・古典・エトセトラ
「狡兎死して走狗烹らる」。「狡兎死して走狗煮らる」とも言います。『史記・越世家』に「飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して走狗烹らる(鳥がいなくなれば良い弓も捨てられ、兎が死ねば猟犬も煮て食われる)」とあるのに基づきます。

「狡兎」とは、すばしっこい兎。「走狗」とは、猟犬の事です。兎を捕まえる猟犬も、兎が死んでいなくなれば用無しになり、煮て食われることから、価値があるときは大事にされ、なくなれば簡単に捨てられることをいう。事が成って、国が安定しだすと、忠臣が幅を利かせて、勢力が大きくなってくると君主の地位を犯してくると当然不安になってきますね。

そうなってくると、左遷とかの問題ではなくなって、あらぬ罪を着せて楼に入れるとか処刑してしまいます。「敵国が滅びると、軍事に尽くした功臣であっても不要になって殺される」現状を比喩するために用いられた。なお、もともとあった能力がなくなったために、切り捨てられるという意味で使うのは少し意味が違います。

例を挙げると ①「越王勾践を助け、呉王夫差を破った氾践は、自分が伍子胥の二の舞になると悟り、同僚だった大夫の種に手紙を送り、君も越にいては危険だから勾践の元を去ったほうがよいとすすめたときに言った。

②秦の蒙恬(もうてん)が始皇帝の死後李斯と趙高によって謀反人扱いされて一族誅殺(ちゅうさつ)されてしまった。

③ その李斯も暗愚な皇帝「胡亥」に諫言するのを恐れ疎まれて趙高に疑い、でっちあげを仕組まれてこれも一族が殺されてしまいました。

④ これが針外しが一番当てはまっていると思う漢の「国士無双・韓信」です。高祖・劉邦の死後,太后の呂雉(りょち)に韓信の勢力が余りにも大きくなってきたので邪魔になり罪をでっちあげられて「車引き」の刑にされてしまいました。この時、幕僚の かい通(かいとう)が韓信に進言します。「狡兎死して走狗烹らる」と言います。と注意を促すのですが、何故か韓信は聞く耳を持ちませんでした。その後、呂雉(ろち)に殺されてしまいます。

これは日本でもあります。
➄蘇我石川麻呂日本乙巳の変の実行犯であるが、首謀者である天智天皇に叛意ありと称され一族自害

藤原泰衡日本源頼朝に圧迫されて源義経を討伐するも、結局は自身も頼朝に討たれてしまう。

福島正則日本江戸幕府成立後は武家諸法度違反を言いがかりのような形ででっち上げられ改易。

とまあ、話が長くなるのでこの辺りで。忠義もいいですけど、得てして、一生懸命尽くしても結果が悪い方向になることが多いので注意しましょうね。

 
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物置小屋に電灯を付けます。

2024-04-29 00:23:58 | DIY

お山の夜はそれはもう真っ暗です。夜に作業をする訳ではありませんが、ちょっとした物を取りに行くのに小屋に電気がないととっても不便ですね。昼間作業していて足りない物を夜に作るときに小屋に道具を取りに行くのにも明かりがないと不便でしょうがないね。

で東京でリフォームをしているのにどうしても余ってしまったLEDランプを山に持って行って小屋に付ける事を思いついた次第です。
これ台所の照明で使っていたので光量が足りるか分かりませんが、小屋の中で物を探すの位には十分だと思いますね。

          

 

ただ問題は屋外の電源ソケットがデッキの向かって左にあるのでどうしても長いコードを用意しなければなりません。ログなので一番近い部屋のコンセントを使いたいのですが木に穴を開けるのがどうしても嫌なんです。
上の汚い図のように小屋のデッキの下にコードを沿わして行くのですが距離がある分だけ面倒なのは仕方ありません。

   

 矢印の先に屋外コンセントがあるので、此処からデッキの下に這わせて反対側で線を立ち上げて此処にアイプレートを取り付けてワイヤーを這わせ小屋の中に電線を引き込みます。
ワイヤーを張るのにターンバックルを使います。

     
                                             ターンバックルとアイプレート

LED ソケットの裏側には電線を入れる穴が2セットあるので反対側から他の機会用のソケットを取り付ける事が出来ます。小屋の中での簡単な作業もこれで出来るというもんです。家のリフォームで1年近く山に行けてませんでしたので、早く行って片付けたいものです。

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公孫鞅 衛鞅(えいおう)商 鞅

2024-04-19 22:45:18 | 漢詩・古典・エトセトラ

商 鞅(しょう おう 紀元前390年~紀元前338年)は、中國戦国時代の秦国の治家・将軍・法家であり兵家です

姓は姫、氏は公孫。名は鞅、また、衛の公孫系の為衛鞅(えいおう)とも言います。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称です。法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも秦軍に攻められ戦死しました。

彼は衛の公族出身で、魏の恵王【在位:紀元前370年~紀元前335年)の宰相・こ公叔座の食客となり、中庶子に任ぜられます。

公叔痤は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅を推挙した。しかし恵王はこれを受け入れず、公叔痤はこれを見て「公孫鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私はやはり臣下よりも主君を優先せねばならぬから(鞅が他国に行けば強敵となるため)お前を殺すように進言した。お前はすぐに逃げた方がよい」と述べたが、公孫鞅は「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、私を殺せというあなたの言葉も王が採用するはずがありません」と述べて、かえって逃亡しなかった。公孫鞅の考えどおり、恵王は公叔痤が耄碌(もうろく)してこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。

                  

公孫鞅は魏を出て秦に入国し、宦官の景監を頼って秦の若き君主孝公に面会する事が出来た。公孫鞅は自分の弁舌が発揮するのはここぞとばかりに孝公に向かって熱弁した。最初に会った時はまず最高の為政者である帝の道を説いた。しかし、孝公は退屈そうにして途中で居眠りしてしまった。次に会った時は一つ程度を下げて王の道を説いた。しかし、この時の孝公の反応は変わらず、三度目に会った時にさらに程度を下げて覇の道を説いた。そうすると孝公は熱心に聞き入り、無意識の内に公孫鞅ににじり寄るほどにこの話を気に入った。

孝公の信任を受けた公孫鞅は国法を変えようとしたが、孝公は批判を恐れて躊躇した。これに対して公孫鞅は疑行は名なく、疑事は功なしと述べて孝公を励ました。「疑」は確信を欠いたあやふやな気持ちをいう。なにごとであれ、やるからには自信を持って断行しなくてはいけない。あやふやな気持ちでやったのでは、成功もおぼつかなければ名誉も得られないという意味。この言葉は後世にて故事成語となった。

しかしなお甘竜(かんりゅう、かんりょう)・杜摯(とし)といった者たちが「法は慣習となり人民も役人も馴染んでおり、法を変えずとも臣民を従わせるのは徳によってなされるべきです。道具は利が十倍なければ変えぬもの。法ともなれば百倍なければ」と旧制を変えるべきではないと述べたが、公孫鞅はこれを「夏・殷・周はいずれも異なる法で王となり、五覇の法も異なります。古来より賢者が法を定め、愚者はただそれに従うものです。国に利無くば慣習に従う必要はありません。殷の湯王・周の武王は慣習に従わず王者となり、夏の桀・殷の紂王は変えず滅びました。法とは慣習に従うから良い、反するから悪いとするものではありません」と論破し、孝公も公孫鞅の言を由とした。

商鞅変法 墾草の令 、紀元前359年第一次変法  紀元前356年、孝公は公孫鞅を左庶長に任じ、変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行する。これは第一次変法と呼ばれる。主な内容は以下の通り。

  • 戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分ける。この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は什伍全てが連座して罰せられる。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。
  • 一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。
  • 戦争での功績には爵位を以て報いる。私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。
  • 男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。
  • 遠縁の宗室や貴族といえども、戦功のない者はその爵位を降下する。
  • 法令を社会規範の要点とする。

まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈もの長さの木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、賞金を五十金にした。すると、ある人物が木を北門に移したので、公孫鞅は布告通りに、この人物に五十金を与えた。こういったことで、まずは変法への信頼を得ることができた。

しかし、最初は新法も成果が上がらず、民衆からも不満の声が揚がったが公孫鞅は意に介さなかった。公孫鞅は法がきちんと守られていないと考えた。孝公13年(紀元前349年、太子の嬴駟(後の恵文王)の傳である公孫虔(こうそんけん)が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への黥刑に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝權(しゅくけん)を死刑に処した。このために公子虔・公孫賈の両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅を憎悪したという。この後は全ての人が法を守った。

そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。秦の民衆には、はじめ不満を漏らしていたのに手のひらを返して賞賛の声を揚げる者もあったが、公孫鞅はそのような者も「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。これにより、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。

第二次変法   紀元前354年、元里の戦い紀元前353年の佳陵の戦いで魏が斉に大敗すると、紀元前352年には変法で蓄えられた力を使い秦は魏に侵攻し、城市を奪った(安邑・固陽の戦い)。同年、この功績で公孫鞅は大良造に任命された。

紀元前350年秦は雍から咸陽(かんよう)へ遷都した。この年に公孫鞅はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は以下の通り。

  • 父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。
  • 全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。
  • 井田を廃し田地の区画整理を行う。
  • 度量衡の統一。

秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に、第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やし、旧地にとどまりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があったと思われる。二度の変法によって秦はますます強大になった。

紀元前341年の馬陵の戦いで斉の孫臏(そんぴん)(孫子の兵法はこの孫臏だとする説があります。この臏は足切りという意味も。)によって魏の龐涓(ほうけん)が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の戦い)。またかつて親友であった魏の総大将である公子卬(こうしごう)を欺いて招き、これを捕虜にして魏軍を打ち破り黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は首都を安邑(現在の山西省運城市夏県)から東の大梁(現在の河南省開封市)に遷都し、恵王は「あの時の公叔痤の言葉に従わなかったために、このような事になってしまった…」と大いに悔やんだという。この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれることになります。

比類なき功績で得意の絶頂であった商鞅だが、強引に変法を断行した事により太子の傅を初めとして商鞅を恨む人間を大量に作っていた。彼らの多くは旧来の貴族であり、変法によって君主の独裁権が確立されると彼らの権限が削られていくので商鞅を恨んでいた。商鞅の腹心であった趙良は主人の身を案じて「あなた様は今すぐ宰相を辞し、他国に赴くことをお勧めします」と厳重に忠告した。だが商鞅は「趙良よ、私の身を案じるのは有難いが、私はまだまだやることがたくさんあるのだ」とこれを退けたという。これを聞いた趙良は禍を恐れて他国に逃亡したという。

紀元前338年、孝公が死去し、太子駟が即位し、恵文王(この時点では恵文君)となった。この時にかねてより商鞅に恨みを持つ新王の後見役の公子虔・公孫賈ら反商鞅派は讒訴し、商鞅に謀反の罪を着せようとした。恵文王も太子時代に自分を罰しようとした商鞅に恨みを持っていたので、危機を悟った商鞅は慌てて都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず、「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」とあっさり断られた。商鞅は「法を為すの弊、一にここに至るか」(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)と長嘆息し、いったん魏に逃げるが、公子卬を騙した事を忘れていない魏は、軍を発し即座に国内から追放した。仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。恵文王の厳命でその遺骸はで見せしめとして車裂きの刑(くるまさき)に処せられ、身体は引き裂かれて曝しものとなった。

秦はそれまでは内陸奥地の起源を持ち、中国中央とはやや異なった風習でもあり、野蛮国と見なされてきた。しかし彼によってそういった面は改革され、さらに魏に勝ったことで強国として一目置かれることとなった。

また、恵文王以降の秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。商鞅より半世紀前、呉起(ごき・孫氏、呉氏の兵法もとしてゆうめいですね)商鞅のように厳しい法を残したが、そちらは呉起の死後に廃止されている。このため王と法の元にひとまとまりとなった秦は、門閥の影響が強く纏まっていなかった楚などを着実に破っていく。最終的に秦が戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。商鞅の言の通り「旧習に従わず王者となり、変えなかったものは滅んだ」のである。

現代では政治家および法律学者(法家)としての評価が高いが、戦国時代には稀代の将軍・軍事思想家(兵家)としても敬服されていた。『荀子』「議兵篇」において、荀子は、戦国時代の名将として商鞅(原文では衛鞅)を田単ら他二人と共に上げている(ただし、荀子自身は商鞅等四人を小手先の兵法に通じた者として批判し、春秋時代の覇者や、古代の王者よりは下としている)。商鞅の軍事思想を記録したものとして、『漢書』「芸文志」は『公孫鞅』二十七篇を記載しているが、後に散逸した。

なお、伝説的ではあるが、蘇秦(そしん)はその弁舌を生かす活動を始めた際、まず周を訪れたが相手にされず、次に秦を訪れた。彼は恵王に「軍事教練を強化すれば、帝と称することが出来るようになる」と説いたという。しかし王はこれを拒否した。その理由の一つが商鞅を処刑した後であり、弁舌の士を嫌ったのだという。蘇秦はその後合従(がっしょう)の連盟を作ることに成功し、そのため蘇秦は15年にわたって国外に出られなかった。

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中国のお酒(種類)

2024-04-14 20:42:21 | お酒
中国酒の種類について
中国酒とは中国で製造されている酒。多種の穀類といろいろな薬料を配合し作られた麹が独特の香りを出しています。主な中国酒は黄酒、白酒。文化大革命後は節約の一環で果酒の生産が奨められた。現在、生産量が多いのはビールで生産量は世界一である醸造法、原料によって蒸留酒、醸造酒、果酒、薬酒に分けられます。

 

【醸 造 酒】 原料はもち米、うるち米、きびなど。歴史が古く四千年以上ある世界で最も古い酒。色が黄色い。度数は12度~18度。老酒…長期間熟成させた黄酒
(代表的な酒)(黄酒)
紹興加飯酒、恵泉酒、醇香酒、丹陽封缸酒、九江封缸酒、寿生酒、沈缸酒、福建老酒、連江元紅、苜莉青、珍珠紅、即墨老酒、大連黄酒、杏花黄酒、汾州黄酒、丁坊酒 

            
よく、中国の小説を読むと、女の子が生まれると。酒を(老酒が多い)仕込んで、嫁入りの時に出して皆にふるまいます。因みに中国の嫁入りは9歳から11歳・11歳は遅い位。なんでそんなに早いかというと、大人になるまで嫁ぎ先の家風に馴染ませ、仕来りを教え込まれる訳で、お金で買われます。これが結納金な訳です。富裕層ではこれがお嫁さんの持参金、になります。大概は今までの生活に掛かった費用を支払う訳ですね。

三侠五義に出てくる錦毛鼠(きんもうそ)の白玉堂がとある村の酒屋に入って酒を注文するとその店の主人が「当家の勧盤」で御座います」と言って出されたのを「駄目だ、駄目だお前には娘がいるだろう。その仕込んだ酒を甕(かめ)ごと持ってこい」と言うくだりがあります。

              
                        甕というのはこの位の大きさです。


【蒸 留 酒】(白)
原料は高粱、トウモロコシ、芋類 麦 黍。(色が透明)現在、中国でゃ黄酒より多く生産されています。口当たりがまろやかで甘く強い香りがあります。世界三大蒸留酒の一つとされています。
(代表的な酒)
茅台酒、汾酒、瀘州老窖特曲酒、西鳳酒、五粮液、六曲香、剣南春、瀘州老窖特曲、全興大曲酒、郎酒、董酒、坊子白酒、景陽春、滄州薯干白酒、叢台酒、迎春酒、燕潮酩、古井貢酒、口子酒、宝豊酒、特制黄鶴楼酒、白雲辺、武陵酒、徳山大曲酒、全州湘山酒、桂林三花酒、洋河大曲、双溝大曲、長楽焼、竜浜酒、哈爾浜高粱糠白酒、金州特曲、

凌川白酒、関帝聖酒、天津高粱酒、千山白酒、孔府家酒、板橋宴酒、賖店老酒、湘泉酒、酒鬼酒、寧城老窖、宋河糧液、沱牌曲酒、二鍋頭酒
   (白酒十大銘酒) 貴州茅台酒(評価が高い酒)、汾酒、西鳳酒、五粮液、剣南春、董酒、古井貢酒、洋河大曲、濾州特曲、郎酒、

      
【果 酒】(醸造酒)
原料は果物(葡萄、リンゴなど)。白酒に果汁を混ぜて作った酒。最も醸造が早く始まった酒。度数12~16度。味わいが濃厚で甘口。
(代表的な酒)

玫瑰香紅葡萄酒、味美思、煙台紅葡萄酒、民権紅葡萄酒、民権干紅葡萄酒、中国紅葡萄酒、青島白葡萄酒、沙城白葡萄酒、民権白葡萄酒、豊県白葡萄酒、北京干白葡萄酒、
貴人香、長白山葡萄酒、化葡萄酒、通化人参葡萄酒、渠県紅桔酒、渠県広柑酒、紫梅酒、香梅酒、長白山五味子酒、熊岳苹果酒、瀋陽山楂酒、北京桂花陳酒、茘枝酒、
杏露酒、楊梅酒、桂花陳酒(金木犀を漬けた清朝宮廷の秘酒)

            
       杏露酒、桂花陳酒はシンガポールなんかに行くと」必ずといって良いほど女性に勧められる。

【薬 酒】
原料は薬草や動物のエキスを混ぜたもの。黄酒、白酒、果酒に薬草や動物のエキスなどを漬け込んだ滋養強壮の酒。漢方薬。
(代表的な酒)

北京蓮花白酒、杏花村竹葉青酒、広州五加皮酒、霊芝酒、玫瑰露酒、菊花酒

酒に関しては説明いらないね。実際、飲んでみないと分かりません。大体日本で手に入るか分からないですからね、『三侠五義』とか『聊斎志異』、読みながらまたは『李白』、『杜甫,』『杜牧』を読みながらお酒をたしなべば、味わいがより一層深くなるのは間違いないないね。

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小野道風

2024-04-08 22:07:35 | 御先祖様

小野道風

    名前は良く知っていますが所謂どういうお方は全くと言って知りませんね。花札の柳の下で蛙が一生懸命、葉に飛びつこうとしているのを見て悟り書の大家になったと記憶していますがその他は全くしりません。(とうふう・みちかぜ)とも言われています)平安時代の前期~中期の人物で894年(寛平6年)に生まれて967年2月9日(康保3年12月27日に亡くなりました。貴族・能書家で参議篁(小野篁殿)の孫です。大宰大弐、小野葛絃の三男、官位は正四位・内蔵頭です。

小野小町とは従兄(いとこ)に当たりますそれまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されています。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれています。醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇、冷泉天皇に仕えました。兄弟には兄の好古がいます。子には奉時、長範、奉忠、奉明、公時がいます。


         

小野葛紘が尾張国春日井郡、上条(現在の愛知県春日井市松河戸)に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる。史実としては確認できない、あくまで伝承の類でありますが、江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていたとあります(本当かよ。)

                              
                     これは道風の書ではありません。こんなに下手ではありませんね。(そう針外しが書いたんだ)
                しかし、よく恥ずかしくもなく、出したもんだ。(習ってないからしょうがねーだろ)

醍醐朝の延喜5年(905年)には弱冠12歳にして大嘗会(だいしょうえ)の屏風の色紙形を書く。延喜20年(920年)能書の撰により非蔵人に補されると、翌延喜21年(921年右兵衛少尉に任ぜられる。延長3年(925年〉少内記となるが、同年に勧修寺(かんしゅうじ)で行われた醍醐天皇の生母である贈皇太后(なんと読むか分かりません)・藤原胤子’(たねこ?)の法要において、道風は供養願文の法華経の清書役に抜擢されました。

以後道風の宮廷内における能書活動が活発になっていく。延長4年(926年)興福寺の寛健が入唐するにあたって、当時の日本の文士文筆を唐に対して誇示するために、菅原道真らの漢詩とともに、道風の書いた行書・草書各一巻を携行しており、既に日本を代表する能書家になっていた様子が窺われます。のち、醍醐朝では書家として以下の活動があります。

  • 延長5年 (927年)2月、大納言・藤原清貫の60歳の賀にあたり、小野忠則とともに金銀泥下絵の色紙に『法華経『薬師経』などを書いています。
  • 延長5年(927年)12月、円珍に智証大師の諡号が贈られた際、諡号の勅書を浄書(智証大師諡号勅書)
  • 延長6年 (928年)6月、清涼殿、南廂の白壁に漢唐の名君賢君の徳行を揮毫
  • 延長6年(928年)12月、内裏の屏風六帖に、大江朝綱の漢詩を浄書。なお、この下書が『屏風土代』であります。
  • 延長6年(928年)醍醐寺の西大門、東大門の額を揮毫。南大門にも道風の草書があげられたが、得意の草書を選定した醍醐天皇の鑑識眼に対して、道風は「あな、賢王や」と感激している。
  • 延長7年 (929年)9月、紫宸殿の障子の賢臣像の銘を書き改める

朱雀朝では従五位下に叙勲され、内蔵権や右衛門佐(うえもんのすけ)
を務めた。朱雀朝での活動には以下がある。

  • 承平2年(932年)11月、大嘗祭において屏風の色紙型を揮毫
  • 承平3年(933年)8月、康子内親王の裳着(しょうちゃく)で屏風の色紙形を揮毫
  • 天慶2年(939年)11月、『慈覚大師伝』を書写
  • 天慶5年(942年) 4月、醍醐寺釈迦堂の門額を揮毫

村上朝に入ると、天慶9年(946年)右衛門府の官人が職務を怠り会昌門を開かなかったとして処罰され、右衛門佐であった道風は贖銅(しょくどう)2斤の刑に処される。さらに、翌、天暦(てんれき)元年(947年)には障りの由を伝えないまま荷前使の差遣に参加しなかったため解官の憂き目に遭った。その後は以下の活動を行っている。

  • 天暦3年(949年)11月、屏風の色紙形に『坤元録』の屏風詩20首を書く
  • 天暦7年(953年)8月、朱雀院御周忌の一切供養に際して『目録之外廿六巻』を分担執筆
  • 天暦8年(954年)8月、文章博士・橘 直幹の民部大輔を兼任を請う申文を清書
  • 天徳元年(957年)右大臣・藤原師輔の大饗において屏風の色紙形を書く

天徳2年(958年)正月に道風は山城守への任官、あるいは近江権守の兼帯を請う奏状を村上天皇に奉じる。その願いは叶わなかった一方で、その文章は平安時代の代表的な詩文集を集めた『本朝文粋』に収められている。同年3月に新たに乾元大宝(硬貨)が鋳造されることになったが、眼病(老人性白内障)の進行により細字を書くことが困難になっていたため、銭文の土代(字様)を書くことができなかった。しかし、第一の能書としての評判は変わらず、翌天徳3年(959年)5月に藻壁門の額字を揮毫。さらに、8月に清涼殿で行われた詩合において、慣例であれば左右の各10首の清書は別人が書くべきところ、村上天皇は両方の清書を道風が行うことを望む。

そこで、左方は勅令により道風が清書し、右方は右兵衛督・源 延光
の邸宅に強引に連れ込まれて酒でもてなされたあげく道風が清書させられている。しかしこの時の清書も「能書之妙」「義之再生」と絶賛された。康保3年(966年)12月27日卒去。享年73。最終官位は正四位下行内蔵権頭。
とまあ、履歴はこの位にして

能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王義之の再来」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。

晩年は健康を壊して随分と苦しんだ。痛風に苦しんでいたらしく、65歳ぐらいの頃から目が悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「道風のふるい筆」といっている。

勅撰歌人として『後撰和歌集』に5首の和歌作品が採録されている

道風の作品は、雄渾豊麗、温雅で優れ、草書は爽快で絶妙を極め、その筆跡を「野跡」という。醍醐天皇は深くその書を愛好され、醍醐寺の榜や行草法帖各一巻を書かせた。

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戦国、趙の丞相 郭開

2024-04-05 12:10:03 | 漢詩・古典・エトセトラ

 紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は天下統一のため、趙に対して王翦(おうせん)を将とした軍を送った。趙の幽繆王(ゆうみょうおう)は当時の趙の名将であった李牧司馬尚(司馬印の父)に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。

秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし、李牧は王命に応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡して、解任された。王は李牧を捕らえて、これを処刑して葬り去った。

翌年、趙は秦に邯鄲を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだと言える訳ですね。

郭 開は趙が秦に併合された後、秦王、政に功績を主張して除名を嘆願したが、私腹を肥やしていた事が秦王にばれていて、釜茹での刑に処せられたとなっています。
始皇帝は最初から郭 開を相手にしていなくて、葬り去ろうとしていたという事です。良くに目が眩むとろくな事がありませんね。

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趙高

2024-03-30 21:29:37 | 漢詩・古典・エトセトラ

趙高

趙 高(ちょう こう)、(? - 紀元前207年)は、秦の政治家。弟に趙成。趙高は隣国の趙の遠縁の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯した。この時、趙高が宮刑(腐刑)に処されており、のち秦に宦官として仕えたという説が知られるが、これには疑問が残されています。実際に趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは、『史記』秦始皇本紀に一切記されておらず、不明である。勤勉で法律に詳しいことから、始皇帝の末子の胡亥のお守役を拝命した。その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることになり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。これが後になって秦を滅ぼす原因になったのを誰として予想出来なかったですね。

皇帝の操り手

始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。沙丘の変と言います。

この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った口癖の決まり文句

断じて行えば鬼神もこれを避く」である。

そして、自ら郎中令(九卿の一つ)。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡(かいらい)ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった。

政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。

また、蒙恬(もうてん)と秦の公子将閭(しょうりょ)や2人の弟たち・公子高など有力者や敵対者を悉く冤罪で処刑した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することとなり、恐怖政治を敷いたことと合わせて趙高は大いに人民から恨みを買うことになった。

秦帝国の滅亡と趙高の最期

天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を腰斬で処刑させ、自分が後任の丞相となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将,章邯(しょうかん)が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。しかし、項羽の群には兵糧が乏しく結果、二十余万の兵を谷底に駐屯させて一気に穴埋めにしてしまった。以前,章邯も同じような事をしたのでその報いを受けてしまったんですね。

その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽(かんよう)のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。

趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。

このエピソードが「鹿」の由来の一説である故事成語『指鹿為馬・鹿を指して馬となす』である。

二世3年(紀元前207年)8月、趙高は反対者を粛清したのち、謀反して胡亥を弑逆した。これを望夷宮の変と言います。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や宮中百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは全く相手にされていなかった。どこまで汚い奴なんだ。

同年9月、胡亥の後継として、人望の厚い子嬰(しえい)に玉璽を授けて秦王として即位させ、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとする。だが、趙高は彼を憎悪する子嬰と韓談(かんだん)らによって、子嬰の屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

趙高の死より、秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。始皇帝も全国統一を成し遂げたのは良かったが、一番かわいがっていた胡亥が大馬鹿ときていて趙高は自分の懐ばかり肥やしてばかり。こんなんじゃ滅亡は最初から決まっていたようなものだ。

始皇帝が苦労して築き上げた秦の国家でしたが、皮肉にも一番目を掛けていた胡亥に台無しにされたしまった訳です。

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リムニーのベル

2024-03-29 17:37:52 | ギタ-・ロックの話

何時もギターを弾くときはお酒を飲んでいる時が多いので、CDかけて音を拾うのだが、この曲のサビの部分がリッケンバッカーの12弦だしアルペジオで微妙だったのでなかなかとれなかった。

曲はバーズのファーストアルバム「Mr.Tambourine Man]に入っている「リムニーのベル」だよ。

                 

 何十年も面倒くさくて取れなかったのだが、やっとまじめにやって取ることが出来た。(と思う)→おいおい!。

 でここで針の爺さん、湯治を兼ねて山に保養に行ってきます。バーズのロジャーマッギンの真似をしてさ。針もジョージハリスンモデル(←ジョージ針さんではないよ・爆)の12弦を持ってね。色はミッドナイトブルーでっせ。

             


 山の管理地は本来カラオケ、とか楽器の大音量は御法度なんですが、大体が一番奥で、人のいないところ。特に冬はスタッドレスを履いてこないとこれないので、そこいらは無人。自由気儘なのさ。

曲の歌詞は何かの繰り返しで、日本人の針には意味がよく分からないんです。アメリカの人は由緒とか、言われを知っているんだろうね。

      THE BELLS OF RHYMNEY
D            G      F#m  Em        D
Oh what will you give me ?   Say the sad bells of  Rhymney   

D                                   C            Bm    A7   D
Is there hope for the future  Sey the brown bells of  Rhymney
D                                       C             Bm    A7   D
Who made the mine owner  Say the black bells of Ronda
D            G    F#m       Em     D 
And who killed the miner  Say the grim bells of bliana

Throw the vavdals in court  Say the bells of  NewPort                 
All world be well if  if  if  if  if  Say the green bells of Cardiff        
Why so worried sisters , why? Say the silver bells why  
Oh what you give me? Say the sad bells of Rhymney

D     D     Bm    Em    Gm    Em (ここの部分)
 
しかしまだ完全ではない
かも知れない。

Oh what you give me? Say the sad bells of Rhymney
Is there hope for the future  Sey the brown bells of  Merthyr
Who made the mine owner  Say the black bells of Ronda
And who killed the miner  Say the grim bells of Bliana 

                             G Bm  Em   D

             G F#m Em D
 たかが此処だけの部分なのだが、CDからとるのが実に難しかった。単純だから、尚更なのね、どのコードを持って来ても、合わない感じなんだね。ピアノを現役でやっておられる方が近くにいたら、よかったんだけど、残念ながら、誰もいなかった。 これを弾きに行って完璧にしてきます。

てな訳で、来年の3日まで行ってきます。ブログはお休みね。しばしのお別れで御座りまする。

いつも針の拙いブログにお付き合い頂きまして有難う御座います。みなさん、来年はより良きお年をお迎え出来るようにお祈りします。

 

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胡亥

2024-03-28 15:43:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

胡亥(こがい)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称され、姓は(えい)、氏は(ちょう)。始皇帝の末子であり、始皇帝から寵愛を受けていた。胡亥の年齢は、『史記』始皇本紀では、二世元年(紀元前209年)の皇帝即位の年に21歳であり、始皇17年(紀元前230年)生とするが、『史記』始皇本紀に附された『秦記』では同年12歳であり、始皇26年(紀元前221年)生とされています。

始皇帝には二十数人男子がいたとされるが、また、姚氏は隠士が遺した章邯(しょうかん)の書物にある「李斯は17人の兄を廃(殺して)して、(胡亥)を二世皇帝として、今の王として擁立した」とする記録があるから、始皇帝の18番目の男子であると推測します。

始皇37年(紀元前210年)10月、父の始皇帝が5回目の巡幸に出た際、左丞相の李斯は始皇帝がお供となり、右丞相の馮去疾(ひょうきょしつ)が留守を任された時、胡亥は巡幸のお供となることを願い、始皇帝に許され、巡幸に同行することになった。

巡幸中に始皇帝は発病し、ますます病は重くなった(始皇帝は長寿の薬として水銀を服用していた)。そこで、胡亥の長兄にあたる公子の扶蘇へ、皇帝の印を捺した「(始皇帝の)喪を(秦の都である)咸陽(かんよう)で迎えて、葬儀を行え」という内容の文書を作り、与えることにした。皇帝の印が捺された文書は封印がされ、中車府の令(長官)であり、符璽(皇帝の印)を扱う事務を行う趙高のところにあり、まだ、使者には授けられていなかった。

同年7月、始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御した。左丞相の李斯はこの知らせを秘密裏にし、すぐには発表しなかった。同時に宦官の趙高は胡亥にこの事を伝え「扶蘇様が即位すれば、他の公子にはわずかな土地も与えられません」と告げた。胡亥は「父が決めた事に、私が何を口を挟むことがあろうか」と答えたが、趙高はさらに帝位の簒奪(さんだつ)を促し、「殷の湯王や周の文王は主(夏の桀王(けつおう)・殷の紂王(ちゅうおう)を誅し、天下の人々は殷の湯王や周の文王の義を称えました。小事に拘って大事を蔑ろにすれば、後に害が及ぶものです。ためらえば必ず後悔することになります」と述べた 。度重なる訴えについに胡亥は趙高の謀略に同意し、その後趙高は宰相の李斯をも説得し、謀略に引き入れた。3人は始皇帝の詔を偽って胡亥自身は皇太子に即位し、長男の扶蘇と将軍の蒙恬には使者を送り、始皇帝の筆と偽って多数の罪状を記した書状を渡して、両名に死を賜った。

書状を受け取った扶蘇はすぐに自殺したが、蒙恬はこれを疑って再度の勅命を要求した。胡亥は蒙恬を許すことを望んだが、趙高はかつて蒙恬の弟である蒙毅が、自身を法に基づいて死罪にしようとしていたことを恨んでいたため「先帝(始皇帝)は長らく優れていた胡亥様をこそ、太子に立てようと望んでおられました。しかしこれに蒙毅が反対していたため、実現に至らなかったのです。これは不忠にして、主君を惑わすものです。誅殺するに越したことはありません」と唆した。胡亥はこれを聞くと蒙恬・蒙毅を投獄した。胡亥が咸陽に着くと、始皇帝の死を発表し、太子である胡亥は即位し、二世皇帝となった。

蒙恬・蒙毅の処刑

同年9月、始皇帝を驪山(りざん)に葬った。胡亥は始皇帝の後宮の女官らを、全て始皇帝に殉死させた。また始皇帝の棺をすでに埋めた後で、「工匠たちは(始皇帝の墓の)機械をつくったので、全員が埋蔵されたものを知っています。埋蔵されたものは貴重であり、埋蔵したものが外に漏れたら、大ごとになります」という進言を受けて、墓の中門と外門を閉めて、埋蔵に従事した工匠たちを全て閉じ込めて、二度と出られないようにした。さらに、墓の上に草や木を植え、山のように見せかけた。

胡亥は趙高を側近として信任した。趙高は、蒙恬兄弟を中傷して、その罪過を探し、弾劾した。胡亥の兄 である子嬰(しえい)は、蒙恬兄弟をいたずらに処罰することを諫めたが、胡亥は聞き入れなかった。

また、時期は不明ながらこの頃、胡亥は趙高を召して「私は耳目に心地よいものや心から楽しいと思うものを全て極めつくした上で、宗廟を安んじて、天下万人を楽にして、長く天下を保ち、天寿を終えたいと望んでいる。このようなことを可能にする手立てはあろうか?」と尋ねた。趙高は「法を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、大臣を滅ぼし、(胡亥の)親族を遠ざけて、陛下(胡亥)が新しく取り立てたものをお側に置けば、枕を高くして楽しみを得らえるでしょう」と答えた。胡亥は同意して、法律を改めて、群臣や公子に罪あるものがいれば、趙高に引き渡して、糾問させた

胡亥は蒙毅に使者を遣わして「先主(始皇帝)は、(胡亥を)太子に立てようとしたのに、卿は反対した。丞相(李斯)は、卿が不忠であるとみなしている。罪は、宗族に及ぶほどであるが、朕(胡亥)は忍びないので、卿に死を賜う(自殺すれば、罪は宗族に及ばないという意味)」と言い渡した。蒙毅は弁明の機会を要求したが、使者はこの言葉に耳を傾けず蒙毅を殺害した。続いて、胡亥は蒙毅の兄の蒙恬にも使者を遣わし、蒙毅の罪を糾弾した。蒙恬は胡亥への諫言の後に罰を受ける事を要請したが、使者は「私は詔を受けて、法を将軍に執行しようとしているだけです。将軍の言葉を上(胡亥)にお伝えすることはできません」と答えた。蒙恬は毒薬を飲んで自決した。

公子らの粛清

胡亥は法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時「大臣は私に服しておらず、官吏はなお力を持っている。諸々の公子に及んでは、必ず私と争う気でいる。どうすればよいのか?」と尋ねた。趙高は「群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」と促し、胡亥はこれを受けて大臣や諸々の公子の粛清を実行した。公子12人は咸陽の市場で処刑され、公主10人は杜(地名)において車裂の刑に処された上に市場で晒し者とされ、財産は朝廷に没収された公子の一人であった高などは逃亡しようとしたが、一族が連座するのを恐れ、自ら始皇帝への殉死を訴え出た

同年4月、胡亥は始皇帝の開始した阿房宮の工事の再開を命じ、「今、阿房宮が完成しないままに放置したら、先帝の行いを過ちであったと咎める所業である」と述べた。また郡県に物資や食料の上納を命じ、豆や穀物、まぐさを徴発して咸陽に運ばせたため、咸陽の周囲300里は収穫した穀物を食べることすらできなくなったという。また、法令や誅罰は日々厳しさを増していき、道路の工事や租税の取り立てがますます重くなり、兵役や労役は止むことがなかった

陳勝・呉広の乱

同年7月、秦の朝廷への大規模な農民反乱である陳勝・呉広の乱が、南方の楚にて勃発します。反乱を起こした陳勝たちは陳を制して長楚の王を名乗り、また国内各地に武将を派遣して秦の官軍の攻略を命じ、反乱には数え切れないほどの農民が参加した。

胡亥は使者から反乱の事実を伝えられたが、これに怒って使者を獄に繋いだ。その上で諸々の学者や博士を召して「楚の守備兵(陳勝・呉広たち)が蘄を攻略し、陳に侵入したようだ。君たちはどう見るか」と尋ねた。多くの者は「これは反乱ですので、すぐに軍を出して討伐してください」と答えたが、学者の一人であった叔孫通(しゅくそんつう)は「ただの盗賊や泥棒ですので、郡の守尉がすぐに捕らえるでしょう。心配に及びません」と回答した。胡亥は叔孫通の言葉に同意し、全ての学者に対して改めて「反乱と捉えるか、盗賊と捉えるか」と答えさせた。胡亥は「反乱である」と答えた学者を取り調べさせ、「言うべきではないことを言った」との理由で投獄した。胡亥は、叔孫通に絹20匹と衣一組を賜い、博士に昇進させた。官舎に帰った叔孫通は、「危うく虎口を脱しそこねるところだった」と話して、すぐに朝廷から逃亡したという

この頃から、丞相の李斯はしばしば胡亥を諫めようとしていたが、胡亥は李斯が諫めることを許さず、逆に「私には私の考えがある。古代の聖人君子であった堯・禹らは、衣食住を質素とし、捕虜よりも重いほどの労役を自ら行ったが、これは愚か者の行為であり、賢君の行為ではない。賢君とは天下を己の思い通りに治めるものであり、自分を満足させることさえできないのに、天下を治めることができるだろうか」と反論した。李斯は保身のために忖度して「堯や禹のやり方は間違っていました。君主が独断専行を行い、厳しい刑罰を実行すれば、天下の人々は罪を犯す事はないでしょう。賢君は嫌う臣下を廃し、好きな臣下を取り立てるものです。仁義の人、諫言を行う臣、節に死ぬ烈士を遠ざけるべきです。臣下への統制が厳格なものとなれば、天下は富み、君主の快楽はさらに豊かなものになるでしょう」と上書したので、胡亥はこれに喜んだという以降、胡亥は臣下への圧迫・刑罰がますます厳しくなり、民から重い税を取り立てるものが優秀な役人とされた。また民衆の中にあっても刑罰に処されたものは国民の半数にも達し、処刑されたものは日々市に積み上げられたという

丞相・李斯の刑死

この頃、胡亥は、趙高から「陛下は若くして皇帝に即位されたばかりであるため、陛下に過ちがあれば、群臣たちに短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」という進言を受ける。これ以降胡亥は常に禁中にこもり、大臣たちは趙高を介してしか対面できなくなった

丞相の李斯はこの措置に不満を持ったが、趙高は表向き李斯に「胡亥を諫めてほしい」と伝え、胡亥が酒宴を行っている時に限って李斯に上殿を要請したため、胡亥は李斯が酒宴の時に限って訪ねてくることに憤りを漏らした。すると趙高は「李斯は故郷の近しい陳勝たちと内通し、君主位の簒奪を狙っています」と讒言した。これを聞いた胡亥は、李斯への取り調べを開始した李斯は上書して「趙高には謀反の志があります」と訴えたが、胡亥は「趙高は忠義によって昇進し、信義によって今の地位にあるのだ。趙高の人柄は清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じている。朕は趙高をすぐれた人物と思っている。君も彼を疑ってはいけない」と趙高を擁護した。李斯はなおも「そうではありません。趙高は元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。ですから、私が危険であると見なしているのです」と処断を求めたが、胡亥は李斯が趙高を殺すことに恐れを抱き、趙高にこの頃を告げた。趙高は「私が死ねば、丞相は秦を乗っ取るでしょう」と答え、胡亥は李斯の身柄を趙高に引き渡すよう命じた

胡亥は、趙高に、李斯の罪状を糾明して裁判することを命じ、李由の謀反にかかる罪状について、糾問させた。李斯の宗族や賓客は全て捕らえられた。胡亥は使者を派遣して、李斯の罪状を調べさせたところ、李斯は趙高の配下による拷問に耐えられず、罪状を認めてしまった。胡亥は、判決文の上奏を見て、喜んで言った。「趙君(趙高)がいなければ、丞相(李斯)にあざむかれるところであった」。胡亥が取り調べようとしていた三川郡守の李由は、使者が着いた時には、項梁配下であった項羽と劉邦と戦い、戦死した後であった。趙高は李斯の謀反にかかる供述をでっちあげた。

李斯に五刑 を加え、咸陽の市場で腰斬(ようざん)するように判決が行われた。李斯の三族も皆殺しとなった

この頃、王離(おうり)に命じて、趙を討伐させる。王離は趙歇(ちょうけつ)・張耳(ちょうじ)らの籠る鉅鹿(きょろく)を包囲した。

鹿を謂いて馬となす

二世三年(紀元前207年)胡亥は李斯に代わって趙高を中丞相に任命し、諸事は大小に関わらず全て趙高が決裁することとなったこの頃、秦の将軍の章邯は、朝廷に背いて王を名乗った趙歇の居城・鉅鹿の包囲に向かっていたが、同年12月、楚軍を率いる項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破して秦軍の包囲を解いた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽に属することになった(鉅鹿の戦い)。翌年1月には楚軍の項羽率いる諸侯連合軍により、秦の将軍で王翦(おうせん)(始皇帝の中華統一に貢献し、項羽の祖父の項燕を戦死させた)の孫の王離が捕らえられ、さらに同年3月には同じく楚軍の劉邦が秦将の趙賁(ちょうふん)・楊熊(ようたい)らを破った。楊熊は滎陽へ敗走したが、胡亥は使者を派遣し、楊熊を処刑して見せしめとした

同年4月、項羽率いる楚軍は章邯を攻め、章邯はしばしば退却を取ったため、胡亥は使者を派遣して章邯を叱責した。章邯は副将の司馬欣を首都咸陽に派遣して援軍を要請しようとしたが、司馬欣は趙高に捕縛され処刑されそうになったため、司馬欣は咸陽から逃げ出した。そのため最終的に、章邯は司馬欣の勧めもあって楚軍に降伏し、項羽によって章邯は雍王に封じられた(鉅鹿の戦い)。

この頃から、趙高は胡亥の弑殺を企むようになり、その前段階として群臣たちの思惑を問い質そうとした。そこで趙高は鹿を用意し、「馬です」と称して胡亥に献上した。胡亥は「鹿の事を馬だと言うとは、丞相は何を間違えたのだ」と笑って答えたが、胡亥が左右の群臣たちに問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高に阿り従って「馬です」と言い、ある者はその通りに「鹿です」と言った。趙高は「鹿です」と答えた諸々の者たちを、密かに処罰したとされる。これが、いわゆる「指鹿為馬」(鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった。

望夷宮の変とその後

この頃胡亥は、1匹の白虎が自分の馬車を轢く左の馬を食い殺してしまう、という夢を見て不安を感じ、夢占いの博士と相談した後に、咸陽宮から涇水周辺にある望夷宮へと移った。その後も趙高による謀反の計画は進行しそしてついに同年の某日趙高の娘婿の閻楽(えんらく)が「宮中に賊が入った」と称して兵士たちを率いて宮中に押し入り、胡亥の寝所にまで押し寄せ、胡亥の罪状を数え上げて「あなたは無道な君主であり、天下の者は皆あなたに背いている。あなたは自裁するべきである」と言い渡した。

胡亥は「丞相(趙高)に会うことはできないのか」と尋ねたものの聞き入れられず、さらに「(位を退くから、せめて)郡王にしてくれないか」と求めたが、閻楽は同意しなかった。胡亥はなおも「(それならさらにせめて)万戸侯(ばんここう)にしてくれないか」と臨んだが、閻楽はこれにも同意しなかった。そして最後に胡亥は、「妻子ともども、平民百姓としてでも良いから生かしてほしい」と懇願した。しかし閻楽は「私は丞相の命を受け、天下の百姓(ひゃくせい)に代わってあなたを死刑に処す。あなたは多くを話したが、敢えて丞相に報告することはない」と語った。胡亥は生き延びられない事を知り、自害させられた。これが『史記』始皇本紀に記された、胡亥の死の顛末であります。(望夷宮の変)。

趙高は胡亥から皇帝の玉璽を奪い取ったが、百官が従わなかったため、胡亥の兄 である子嬰に玉璽を渡し、同年9月、子嬰は正式に秦王に即位する。胡亥は庶民の礼式のみを以て、杜南の宜春苑の中に葬られた。悪政をすればその報いがあるし、無能で傍に付いていた趙高も悪い力量ばかりで自分の保身と欲ばかりだから秦が滅びるのは当然の結果でしたね。

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