会稽之恥(かいけいのはじ)
会稽山(かいけいざん)は、中華人民共和国浙江省紹興市の南部に位置する山。中国の歴代王朝で祭祀の対象となり、五鎮名山の中の南鎮とされます。
山麓には長江流域最古の新石器文化を示す河姆渡遺跡(かぼといせき)が存在し、古くからの人類の活動が確認できる地域です。越王句践の故事「会稽の恥」でも知られています。この会稽山に有名な「香炉峰」があります。『枕草子』299段に書かれたエピソード…「かうろほう(香炉峰)の雪いかならん」と主である皇后に問われてお傍の女官のひとり清少納言が「すだれを挙げてみせた」という話で有名です。
旧名を茅山、別名を畝山と言います。夏朝・禹の時代には会稽山の名称が使用されていた。禹が死去した地であると記されており、現在も禹を祭った禹王廟が位置する。地名は禹が死去する際、諸侯が一堂に会しその業績を計ったことから「会稽(会計に通じる)」と称されるようになった。しかし近年の言語学者らの研究により、会稽は越の「矛山」という意味であることが分かった。江南は古代中国では越国の領地であって、言語も当然越語が使われていた。
敗戦の恥辱。他人から受けたひどいはずかしめ。
中国の春秋時代後期、呉王闔閭(かいりょ)(?~前496年)は呉を一大強国へと成長させたが、隣国の越王勾践(こうせん)(?~前465年)に破れ、息子である夫差(ふさ)(?-前473年)に 復讐を誓わせた。夫差は常に薪の上に寝て復讐の志を奮い立たせた訳です。
三年の間、夫差は日夜兵を鍛えて復讐に備えているという報せは勾践の耳にも届いた。勾践はこれに先んじて呉を討とうと兵を挙げたが、鍛え上げた呉軍の前に惨敗し、会稽山に逃げ込んだ。こ の会稽山で勾践は降伏して夫差の臣下になり、妻を妾として差し出すという屈辱を受け入れたのでした。
勾践はひたすら呉に恭順を装い、野良仕事をし、妻には機を織らせていた。そばには、苦い肝を置いて、その肝を嘗めながら言った言葉が「会稽の恥を決して忘れはしない。」 このことから、前 述の夫差と合わせて「臥薪嘗胆」という言葉、つまり目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること、が生まれた。
その後、勾践は努力を重ねて越の力を蓄え、とうとう呉をほろぼし覇者となった。これが「会稽の恥」の故事です。
針外しは以前から勘違いしていた事がありまして。長恨歌のなかの一節に 峨嵋山下少人行 (峨嵋山麓の成都へと着いたが道を行きかう人は少なく)がありますが「峨眉山」を香炉峰に何故か置き換えてしまって覚えていました。
峨眉山は成都の南西方向にあり会稽山から程遠い処ですね。確かに西安から見るとそっちの方向に落ちていったのが頷けます。多分注釈の処に「長恨歌」の作者が白楽天が書いてあり、その時に入り混じってしまったのかも知れません。(中国文学にのめり込んだ頃、白楽天と白居易が別人だと思っていました。
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