系譜は明らかでないが、一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子となっています。『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこの大樹の後裔とする説もあり、この説の場合は春日仲君の娘老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだと想定するが、定かでありません。
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。
妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。
【1度目の遣隋使】
小野妹子と言えば遣隋使です。607年、聖徳太子の命により、遣隋使として隋(中国)に派遣されました。その目的は、隋の先進的な技術や制度を学び、日本に持ち帰ること。実は遣隋使が派遣されたのは小野妹子で2回目のことで、以降も合わせて5回以上の派遣が行われています。600年に派遣された1回目については『随書』に記述があり、当時の倭国(日本)の政治の在り方について、隋の高祖は納得できなかったため改善を訓令し、それに怒った倭国は『日本書紀』から派遣の事実そのものを除外した、とされています。
そして2回目、小野妹子による遣隋使。こちらは『日本書紀』に記述が残されており、日本の王が煬帝(隋の二代目皇帝)に宛てた国書を持っていったと記されています。
その国書の内容は、まとめると以下の通り。「日が昇る国(日本)の天子(君主)から、日が没する国(隋)の君主に書を送ります」しかしこれを見た煬帝、「なんて無礼な手紙だ!今後こんな失礼な手紙は私に見せるな!」と大激怒。というのも、当時の中国の思想では、「天子」に値するのは中国のトップに君臨するもの1人だけだとされており、自分だけでなく日本の君主が「天子」と名乗ったことが許せなかったのです。
さて、そんなわけで怒りに満ちた煬帝は、日本を遥かに下に見た返書を書き小野妹子に託します。日本の君主に渡しておけ、ということです。もちろん、そんなものをそのまま渡すわけにはいきません。関係を築くためにわざわざ海を渡ったのに、このままでは溝が深まるだけです。困った小野妹子。しかし、ここでさらなる大問題が発生します。なんと、小野妹子はその渡された返書を紛失してしまったのです。
小野妹子はこれを、「百済(朝鮮)に盗まれた」と弁明していますが、一説では返書を見せて怒りを買うことを恐れた妹子がわざと破棄したのでは、という見方もされています。どちらにしても、周囲からすると返書をなくすという大失態を犯したのは紛れもない事実。彼はその責任を取り流刑に処されますが、のちに恩赦されました。
前回隋から帰ってきた際、煬帝の勅使として裴世清という人物が日本へ来ました。その翌年、今度は彼を隋へ送り届けるために、再び小野妹子は隋へ向かいます。この際、多くの留学生が随行しました。高向玄理、南淵請安、僧旻などです。彼らはこの時学んだ技術や文化を生かし、日本に帰国後は改革に大きな役割を果たしました。なお、遣隋使が送られたのは614年で最後とされています。