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自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

小野妹子(2)

2023-07-24 10:04:45 | 御先祖様

奈良時代の遣隋使として、国の重要な仕事を果たした小野妹子の家系図

【家系図】
                                 
そもそも、小野妹子とは?小野妹子は遣隋使として活躍した6世紀から7世紀の官人です。聖徳太子が「日出る処の天子・・・」としたため、隋の皇帝を激怒させた、あの有名な文書を、聖徳太子の元から隋の皇帝まで運んだのは、小野妹子と言われています。そもそもは「天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)」という皇子から続く系譜で、天皇家に繋がる家系です

飛鳥時代、妹子は遣隋使として渡航のために筑紫(現北九州)に出向いた際に病気になり、宇佐八幡宮に祈願すると全快。帰国後、かつて、小野郷と呼ばれ、領地内だった現在の左京区上高野に八幡宮を移して三宅八幡宮を創建したとされています。

江戸時代、三宅八幡宮の東にある西明寺山で発見された、板石を組み合わせた土葬石室は小野毛人の墓と判明しました

聖徳太子が創建したと伝わる六角堂は、華道家元・池坊が住職を務めており、その始祖は妹子とされます。遣隋使として大陸に渡った際、仏に花を捧げるのを目にした妹子は、太子の死後、菩提を弔うために出家し、晩年は毎日仏前に花を供えました。この日課は六角堂の住職が代々行う風習となり、生け花の発祥の地となりました。本堂の北側は、太子が沐浴した池の跡とされ、その池のほとりにあった僧侶の住まいが池坊と呼ばれるようになりました。

【小野篁】政治や学問、馬術、芸術に優れた人物でしたが、朝廷の批判を堂々とするような直情型の性格から、「野狂」というあだ名がついていました。常に他者の顔色を伺っている平安貴族には、篁のストレートな性格や行動は、理解しがたかったようです。
平安時代の官僚・学者・歌人と書く分野で活躍した人物で弓の名手としても知られています。身長190cmの大柄で武芸に優れて自由奔放な性格だったと言われています。針外しの家にはかつて「鬼の橋」という書が御座いまして小野の篁殿の事が書かれています。その中には死後も東北ににらみを利かせる為に立ったまま納棺させられた坂上田村麻呂も出てきます。また篁殿は閻魔庁にも出入りしていて昼は朝廷で夜は閻魔庁で働いていたという伝説があります。六道珍皇寺の庭には冥界に行く為の井戸とこの世に戻ってくる井戸があります。生前付き合いのあった「藤原良実」が若くして亡くなった時に地獄に行ったところ閻魔大王の傍らに篁がいて「この人は誠実な方で本来地獄にこんなに早く来る方ではありません」と言ったら大王が「篁が言うなら娑婆に戻してあげてくれ」と言ったそうな。後に良実がその事を世間に言いふらしたので人々から恐れられたとあります。
後に天皇から「篁帰ってきてもいいぞ」と声が掛かり、下谷に居を構えてそれが「小野照埼神社」になりました。

  

【小野小町】(825年頃~900年頃)も小野妹子の子孫です。篁の孫とする説もありますが、正確なところはわかっていません。非常に美しかったといわれており、日本では「世界三大美女」として有名です。和歌の名手で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙に選ばれています。小野小町の和歌は情熱的な恋の歌が多いそうです。当時は女性の記録がほとんどなく、その生涯は謎に包まれていますほとんどなく、その生涯は謎に包まれています。

                                                               
【隨心院】鞍馬街道の北にあって通称:小野寺と呼ばれています。小町が実父の暮らした生家を訪ね、900年(昌泰3)4月1日にこの地で息絶えたという逸話が残っています。敷地内には供養塔や小町が井戸の水に映る年老いた我が身を見て嘆き悲しんだとされている井戸等ゆかりの場所があります。本堂の裏手には小町に寄せられた千通の手紙が埋められているという小町文塚があります。薬医門の西には小町が宮廷を辞した後。晩年を過ごした邸宅があり朝な夕な顔を洗った井戸が今も残っています。
        

               百夜(ももよ)通いとカヤの木                                            隨心院(ずいしんいん)
 能の間には、小町宛ての恋文を貼って造られた小町文張地蔵尊と、晩年の姿を写したとされる卒塔婆(そとば)小町像が安置されています。本堂の裏手には小町に寄せられた千通の手紙が埋められていると伝わる「小町文塚」があり、薬医門の西側には小町が宮廷を辞した後晩年を過ごしたと

 隨心院には平安時代、深草少将が愛する小町の元に百夜通う事を誓った「百夜通い」伝説にゆかりのある榧木が現存しています。小町は榧の実を糸に綴ってその日数を数えていたそうですが、99日目の大雪の日に少将は凍死し、願いが叶いませんでした。小町は菩提を弔う為にその榧の実を蒔いたと伝えられています。本来小町は一族のたっての希望である天皇のお手付きで子を身籠るのが目的であったので失意の反面女として嬉しかったのかも知れません。

                                                                                          六道珍皇寺

【小野道風】(894年~966年)平安時代の書道家で、小野篁の孫にあたります。中国からきた書道を日本風にアレンジして、和様書道の基礎を作り、藤原佐理と藤原行成と並んで、「三跡」と呼ばれています。道風の書の評判は高く「源氏物 」にも登場し、作中で絶賛されています。一方、性格は祖父同様に激しく、悪い評判が流れたこともあったようです。 篁の孫で能書家として秀でた才能を持っており、平安時代前期に日本独自の書道(和様書道)の基礎を築いた人物。道風を祭神とする道風神社の境内にある池の水をすずりに用いたとされ、その水を使って書くと上達すると伝わります。

            

公家から武士へ、地方に土着化した小野氏。

                            

平安時代が下ると、徐々に小野氏は藤原氏や菅原氏などの他家におされ、勢力を失っていきました。公家になれかった小野氏は、地方に役人として赴任することになり、各地で土着化し武士になっていきました。

【小野好古おののよしふる(884年~968年)は、藤原純友の乱の際に、九州に下向して乱を鎮圧したとして、有名です。一方、武蔵国(現在の関東)に下った小野氏の子孫は、武蔵国多摩郡横山という地名にちなんで、横山氏と名乗るようになります。横山氏は関東で勢力を伸ばし、近隣の武士の氏族と婚姻関係を結び、武蔵七党という有力な武士団を結成します。その後、武蔵七党は鎌倉源氏の傘下となり、鎌倉幕府を支える御家人として活躍しました。

小野政直・政次親子

戦国時代に遠江国(静岡県西部)の井伊家に仕えた、小野政直、政次親子も小野妹子の子孫といわれています。井伊家の家臣でありながら、たびたび謀反を起こしたり、今川家と通じて井伊家を窮地に陥れたりしたことで、奸臣かんしん(国を傾けた臣下のこと。)と呼ばれています。息子の小野政次は、井伊家から当主の座を奪ったこともありましたが最期は、井伊家に協力した徳川家康によって、あえなく討たれます。悪いイメージの強い、政直・政次親子ですが、近年、再評価する声もあるようです。最近では大河ドラマ「おんな城主 直虎」(2017年)にて、陰で井伊直虎を支えた人物として、小野政直が描かれています。俳優の高橋一生さんが演じ脚光を浴びました。

現在の有名人では、女優のえのきさりなさんが小野妹子の子孫とのことでした。

                   

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