静夜思 李白
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李白の代表的な詩「静夜思」です。中学校の教科書には大概載ってました。中国でも誰もが知っていると言ってよい有名な詩です。非常にわかりやすく、通俗的ではない、清らかな月の光としみじみとした郷愁が染み入ってくる詩です。訳文を沿えなくても十分に理解できます。
静夜思の原文
床前看月光 床前月光を看る 寝台の前で月の光を見る
疑是地上霜 疑うらくは是れ地上の霜かと 地面に降りた霜のようだ
挙頭望山月 首を挙げて山月を望み 顔を挙げて山の上の月をながめ
低頭思故郷 首を低れて故郷を思う 頭を垂れて故郷を思う
中国人は古代からベッドで眠り、これを「床」と言います。冬にはこの下に炭、石炭?なんかを入れて暖を取りました。(温床・オンドル)冬は厳しい寒さの中国東北部では炕(オンドル…煮炊きの熱を誘導して暖かいベッドのようにした暖房装置)の上では小机を置いて食事をしたりお茶を飲んだりしています
またこの「床」を井戸(正確には井戸の縁)と取る説もあります。中国語では今も「井床」と言います。もしこの意味なら詩人は部屋の中ではなく、外で月を眺めていることになります。
第1句の最後「看月光」の3字を「明月光」とする読み方もあり、中国人にこの詩を読んでもらうとこちらで読む人が多いです。古い資料では「看月光」となっており、日本の漢文の教科書もそうなっていますので日本人はたいていこちらで覚えています。
実は漢詩は長い時間をかけて写し続けているうちに一部の作品は元の姿とは幾分違ってしまっているのですが、その中で昔の面影をそのままとどめているものが2種類あります。そのうちの一つは遣唐使などが日本に持ち帰ったもの、もう一つは敦煌文書として発掘されたものです。遣唐使が持ち帰った唐代の写本は正確に写されて後世に伝わり、元の作品と異なってしまっているものはありません。替えるほどの中国語の知識がなかったこともあるでしょうが、やはり何といってもそこには深い尊敬があったのでしょう。
敦煌文書というのは20世紀になって発掘された中国の敦煌・莫高窟からの大量の文書で、11世紀の宋代初期、この石窟の入り口が封印されたために昔のものがそのまま保存されているのです。
ともあれこうしたことを考えるとおそらく李白が書いたのは「看月光」、その後伝わる中で中国では「明月光」となり、多くの中国人はこちらで覚えているのでしょう。
ニュアンスとしては「看月光」は最初から月の光を見ようとして見ていますが、「明月光」だと月光にふと気づいた感があります。こちらの方が味わい深いとする人もいます。
第2句の冒頭「疑是」は「~と疑った」ということではなく「これって~ではないの?」という語感を持つ比喩・たとえです。「霜かと思ったら月の光だったんだ…」ということです。地面が白く光っていたんでしょうね。そして一瞬霜と見間違えるのですから季節は秋、それも深まりつつある秋でしょう。
秋の夜更け、すでに人は寝静まっている時間です。詩人は寝付かれないまま寝台の前の月の光を眺めます。一瞬霜かと思うほどの白い光に、「ああ月の光だ」と顔を挙げると遠くに山並みが見え、その上にしらじらとした光を放つ月がかかっています。
この月は満月でしょう。中国人が愛でる月は基本満月です。満月こそが家族だんらんのシンボル。満月を見れば家族を思うというのが、典型的な中国人の心性です。
中国の中秋節は秋の満月を愛でる節句ですが、この日は家族団らんの日でもあります。まるい形は一人として家族が欠けていない、中国人の幸福と理想を意味するのです。
また月を見れば別の場所を思うというのも中国詩における定型的な発想の一つです。月はこの世をあまねく照らしていますから、自分が見ているこの月をはるか彼方のあの人も見ているだろうと思うのです。
月を見れば家族を思い故郷を思い…詩人はいつの間にかうつむいて思いにふけっています。
『静夜思』李白 【原文・書き下し文・現代語訳・解説】 (chugokugo-script.net) 引用させて頂きました。