三木師匠より珍しい新聞をもらいました。 かの萱野茂氏が亡くなられたことを報じる新聞でした。 萱野茂さん 日高平取出身でアイヌ民族として初めて国会議員となり、アイヌ語で国会でも演説された長老です。 萱野さんとは3泊4日の旅を氏の鞄持ちのようにご一緒させて頂いた思い出があります。
かれこれ、これも30年くらい前でしたでしょうか・・、 正月明けに関西で環境教育のフォーラムがあり、そのゲストに萱野さんをお招きすることになり、その付き添い役を探しているとのことで、私が立候補してご同行させていただくことになりました。その時が初対面(正確には萱野茂さんの博物館や講演会でお会いしたことはあったのですが、その時は全体のひとりでしたから、私を認識されているはずはありません・・・)
なにしろ、存在感・オーラがあるお方でした。人との付き合いの仕方などに悩んでいた頃、ある方から萱野さんの講演会のチケットをプレゼントされました。正直言って、たいして興味もなかったのですが、行ってみることにしたのでした。 会場に萱野さんが入ってくるだけで、その場の雰囲気が引き締まるようでした。 演題に立って、ユーカラを収集しているので、それを披露しますと、唄いはじめました。
それを聴いた瞬間にワタシの背筋が震えました。こみあげてくるような感動が走り、ククックとこみ上げてくるものがあり、私の遺伝子レベルが共振し、涙が流れ出し声を上げて慟哭しそうなほどでした。
そして、ごくごく身近にお会いした、あれは、一月の中旬でした・・・千歳空港で待ち合わせをして、神戸の関西学院大かな?の千刈キャンプ場の会場へ。宿泊は施設内にある和室で、2泊は布団の上げ下ろしも私がさせて頂き、枕を並べて同室させて頂きました。濃厚接触(今、使うべきではないな・・)でした。 会が終了後は千歳空港までお送りして、お仲間がお迎えにくることになっていたのですが、お別れする直前に、
「タカギくん、平取に一緒に来るかい? 今、聞き取り調査をしているアイヌ集落の新年会があるのだか参加してみるかい?」というお誘いです。 もちろん、いちもにもなく、「いきます!よろしくお願いします!」でした。
新年会の会場は平取の高台にある集落の公民館のような大きな広間で、ロの字型に机が並べられてざっと100人近い地域住民が集まっていました。なんと私は、右に萱野さんの息子さん、その隣に座の中心の萱野茂さん、左隣は、集落の一番といえるようなお年寄りのフチ(おばあさん)という和人が言うところの上座に座らせて頂きました。
新年会は、子どもたちや役場の方もいて、子どもたちによるアイヌ語クイズなど行われて、わきあいあいと進みました。 絵を書いた画用紙をみせて「これはキハダです。さて、アイヌ語ではなんていうでしょうか?」なんていうクイズがあったのを覚えています。 会場はザワザワと「なんて言ったかなあ・・、シ、シ・・、シコロかあ!?」「そうそう、そうだったかも・・」となんともたわいのないものでしたが、アイヌ語を話すことを長いこと禁止された民族の今を垣間見る思いでした。
そして、お弁当になったアイヌ料理とオハウ(汁物)が配られて、最後には輪踊りの披露が座の中で起こりました。回りの大人たちが歌い、3.40人の大人や子どもが輪になり踊りました。白老の観光コタンでも観たような踊りでしたが・・、 そのうち、私の隣にいた、立っているのもやっとのような年季のはいった枯れ枝のようなかなりな御高齢なばあちゃんに、回りの若ばあちゃん達から「アンタ、唄いいなぁ!」とちゃちゃが入りました。ばあちゃんは、「いやいや、私なんかもう唄わんでいいわい」と断っていましたが、 あまりの周りからの要望・お願いに・・・、ついに声を出したのです!
こえが凄かった、ホントに凄かった!!
この折れてしまいそうな身体のばあちゃんのどこから、この アイヤ~アンヤ~ハイヤァ~!!という声がでてくるのだろう。まるで大地に大きく根をはった老木の深い血中の底から湧き上がるような声でした。それによって、輪踊りの足踏みも力強くなり、男衆のオォォォオという雄叫びも激しくなりました。 かつてのアイヌ集落で行われていた踊りはこういうもんだったのだろう。
むこう隣から萱野さんが身を寄せてきて、
「タカギィ、聴いたか! これがアイヌの唄と踊りだ、観光地でやっているのとは違う! 覚えておけよ」と耳打ちされました。
思い出すだけで、背筋が痺れます!
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