3・11がやってくる。 もう10年も経つのだなあ・・・。
3月11日は次女の結婚式であった。 地震がおきた時はニセコの教会の地下で式の開始を待っていて、地震の揺れを感じなかった。 式も披露宴も滞りなく終えたのであるが、宴の途中から会場が何かざわついているのはうっすらとは察してはいた。 親戚との二次会を終えて宿の部屋に戻ったのは0時を回っていた。 テレビをつけて驚愕した!!
当時、釜石出身の女性が自然学校のスタッフにおり、彼女の郷里のことを心配した。 翌日、早々に自然学校に戻るとスタッフはTVを囲んで次々と映し出される現場現状の様子をかたずを飲んでみつめていた。 三陸はリアス海岸と社会の地理で学んでいたから、津波は小さな半島の阻まれて陸地には押し寄せないのではないかと思ったりしていた。
なかなか現地情報が流れない。そして・・、昼過ぎだっただろうか、釜石市街地のアーケート商店街に津波が押し寄せている映像が流された。 目の前の彼女は、郷里実家を心配しオロオロとしている。。彼女の家は海岸のすぐ近くなのだ。福島原発の被害も報じられ始めていた。彼女の様子をみて「行くか行かぬか」をしばし逡巡した。
行くしかないだろ!!と決断した。 自然学校に備蓄している食料と野外道具をワゴン車に積み、午後にはHと彼女の三人で現地に赴くことにした。 しかし、函館にも津波があり青函連絡船は止まっていた。即座に函館の仲間にとにかくフェリー連絡船の乗船チケットを入手するように指示し、ともかくも函館に向かった。
連絡船乗り場は、流通トラックで溢れていたが、夕刻だったか、ともかくも再開第一便に割り込んだ。それも最後の1台で、最船底の車庫からその上段にあがる坂を上りきるギリギリ手前に斜めに駐車する状態だった。
翌12日、青森からの高速道路はすでに緊急車両のみが通行できる封鎖がしかれていて、一部国道も通行止めとなっていた。地図をながめつつ、道路警備する警察やらには、ここは通れないが、あちらの峠が通れるかは責任が持てないと言い放たれるなか、ともかくも間道を伝いながら、釜石沿岸部へ暗くなる前に到達した。 しかし、瓦礫に埋まった道路をゆくことはできず、彼女の親戚がある津波最終到達地点からちょっと内陸にある農家の庭先にテントを張らせてもらいました。 それから、第一陣として1週間ばかり滞在をして、おおまかな状況を掴み、現地拠点となるような場所に目星をつけて第二陣と交代した。 それから、北海道ねおすボランティアセンターを徐々に形作り、物資支援、瓦礫の片づけ、子どものケアなど あらゆる支援を自己完結型で半年以上つづけたのであった。
復興過程でも支援を続け、私もなんどか訪れたが、最後に行ってからはもう5年は経っているかもしれない・・。そんな中での10年目。 コロナ禍ではあるけれど、私にとっても復興をこの目で見続ける義務と言うか義理というか・・、あるような気がしているので、来週からひさしぶりに現地へでかけることにした。
大きな追悼式典などは一同には内容だが、私たちがボラ支援をつづけた鵜住居地区の根浜で鎮魂祭があるそうなので、それに合わせて3月9日のフェリーで苫小牧ー八戸経由で訪れて来ようと計画を立てています。