晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

両墓制 8/11

2009-08-12 | 歴史・民俗

2009.8.11(火)雨、曇

 お盆前の定休日なので川合のお墓掃除に行く。カイチの墓揃えは日曜日なのだが天気が良くなかったので、どこの墓も中途半端な掃除となっている。墓石を洗剤で洗うが強烈な苔がなかなかしぶとい。私の元気な内はこのお墓の守もしてあげようと思うが、その先は一体どうなるやら解らない。川合のお墓は小原株のお墓で10件ほどの家が集まってお墓を構成しているのだが、これはいわゆる単墓というものである。斎場で火葬する現在では単墓も両墓も余り関係ないが、土葬をしている過去においては大きな違いがあった。Img_0889

我が家の墓地、私の父親は石塔の前に土葬されている。

葬制には関心があったので新書などで研究をしたが、両墓制というのはどういうものか理解できなかった。単墓制の地で育った者に両墓制というのは凄い異文化のように感じるのだ。
 上林の多くの地区が両墓制だそうだ。この地に家を建てたとき西側の山の斜面にお墓があるのに気付く、えらいこっちゃ家のすぐ近くに墓地があると思ったものだ。ところが北の斜面にも、府道の脇にもあちこちに墓があるのだ。これが両墓制である。
両墓制とは遺体を土葬する埋め墓と石塔を建ててお参りする詣り墓の二つの墓がある制度である。埋め墓は埋け墓(いけばか)などと呼ばれているようで、お寺の脇にあったりするそうだ。これは村全体など大きな単位であり、この地域の埋め墓がどこにあるのかは確認していない。一般的に葬儀時、初七日、四十九日などに詣るがその後は訪れることもないようで、石塔を置くこともなく単に石などを置いているそうだ。
調べているとムソバと言うところもあるそうだ。これは沖縄、久高島で探したグソーと同義語ではないか。そういえば沖縄の洗骨も両墓といえば両墓だ。両墓制の原点は洗骨などの改葬にあるのではないだろうか。
 お盆などで墓掃除をしてお詣りするのは詣り墓で家の近くに家毎の墓がある。これがそこいら中にバラバラとあるわけだ。沖縄の門中墓も似た感じである。
 余談であるが、かつて牛馬などの死体を埋めた箇所もある。これはサンマイなどと呼ばれているそうだ。一区のサンマイは向山の東の谷のおくにあるそうだ。ただ一般的にはサンマイは墓地のことで埋め墓をそう呼ぶところもあるそうだ。

【作業日誌 8/11】
お墓の掃除
真砂土運び

今日のじょん:散歩でもご飯でも「待ってなさい」というとこのポーズで待っている。これで上目遣いでもされたら、弱いのよね。Img_2755

 

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念道のこと(2) 8/10

2009-08-12 | 歴史・民俗

2009.8.10(月)雨

 雨の合間をじょんの散歩を済まして、帰ってくる。又降り出した雨の中木小屋周辺に行くと例の臭いが漂ってきた。最近は目で探すというより臭いで気付くようになってきた。トリフを探すブタのようなものだ。もっともキヌガサタケは誰にでも解る鶏糞のような臭いがきついのですぐに解るのだが、、、。今日のは東北角の切り株のところとその南側の森井さんの小屋の脇である。Img_2790 Img_2792

14、15本目

前者は雨のためグレバが落ちて白くなっており、後者は小屋の屋根のおかげでまだ頭が黒い。こうまで出るとアルバムにして整理しなければと思っている。
 じょんのびの地旧念道村について稚拙な仮説を書いたが(7.9参照)その後上林風土記などで解ったことがあるので追加しておこう。
渡辺さんに寛政十一年の丹波の国古地図の写しを頂いた。今から二百九年前の地図である。各郡の村名まで載っており、里程の載った詳細なものである。私は旧の地名、あるいは旧の漢字使いが載っていることを期待したのだが、ほとんどが今と同様で、逆に驚いている。現在と違うのは強木(小和木)草賀部(草壁)ぐらいで、小和木の語源は強木であることは間違いがないようだ。念道は念道小山となっている。
地名というのは二百年前から変わっていないのだと感心する。上林風土記にある古文書などを見るともっと古い年代でも「念道」の文字があり、薬師堂の鰐口(1704)にも念道の文字がある。
 明治七年の社倉籾積立御届書という文書に「子ント村」という記述があり、当初何のことかなあと思っていたのだが、これは念道村のことである。略して書いてあるという解釈も出来るが、同じ文書の同じ項目欄に西屋村とか浅原村、忠村とか正しく書いてあるので、子ント村という記述方法もあったのではないか。
念道の念は子か根か音ではないかという私の仮説は当たらずとも遠からずと言うことか。
 「子のト」のトは私は「渡」ではないかと言ったが、「戸」「門」も考えられないか。特に「門」は出入り口、水流の最も狭いところを意味するので、北の門という意味から考えられないことはない。古語辞典を引くと「処」場所、ところ、「土」領土、国土などもあり、なんとでも取れそうである。
 念道という地名はそう多くない、和束町の小字に念道という地があって、どのような地形か行ってみたいと思うのである。
なお、安永年間(1772年~1781年)頃の清林寺釣鐘の銘に寄進者の名があるが、温井、森井、四方、石原、角山、長井、辻木、中林、小林の姓があり、大丹生の姓は見あたらない。ところが前述明治7年の文書には大丹生氏が登場している。これはまだ発表していない上林に関する仮説に少し関連するので、憶えておいていただきたい。
【作業日誌 8/10】
無し
今日のじょん:雨が降って運動量が減っている。食事は同じように取っているので今度の体重測定が心配?18Kg台なら合格。 
 
 

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