20132013.5.17(金)快晴
蛇ヶ谷上流域の谷名について考察してきたが、蛇ヶ谷そのものをはじめとしてそのほとんどが崩壊地名であり、シモクリ、カミクリという谷名がクリ師、コマクリから来た木地屋地名の可能性は無く、本来の”刳る”からきた崩壊地名、いわゆる栗地名の範疇であろうと考えられる。
これほど事細かに一地域の支流について考察したことはないので驚いているところなのだが、あまりにも崩壊地名が多くを占めていることである。
それではこの地域が荒れ狂って荒廃しているのかというとそうでもない。訪れて、周囲を見回しても、崩落痕や崖が目につくわけでなし、土砂の堆積が見られるものではない。丹波の豊かな森が拡がっているだけである。
そんなだから地元の方々に過去の災害の様子などを聞き取ることも無かった。
「三和町史」の中で過去の災害について調べてみるが、細かにどこの流域でどうという表現はなされていないが、蛇ヶ谷について興味ある記事があった。明治40年川合村災害復旧費決算の内容は、土木費2,356円の内護岸修繕費として蛇ヶ谷川のみが1,031円を使っている。道路や橋梁の修繕もある中で、蛇ヶ谷川の護岸修繕に半分近くの費用を使っているということは、この谷の被害が甚大であったということでは無かろうか。
地滑り地形分布図では前述のように、川原田谷周辺のみに地滑り痕が見られるのみで、蛇ヶ谷一帯が地滑り地形であるということは無いようである。国土地理院の地形図でも、等高線が並んでいるのみで崖記号も岩記号もない。ところが陸地測量部の明治26年の地形図は現在とは表記方法が違うのだろうけど、谷筋の状態が表記されていて、おそらくガレを表しているのかと思うが、右岸の六ロ谷、仏谷、ハッケ谷、クズレガ谷が顕著である。
大原にはもう1本中津戸の谷があるが、等高線の混み具合は蛇ヶ谷の方がきつい。
治山ダムの数は小屋ヶ谷6、六ロ谷3、ハッケ谷3、クズレガ谷4、川原田谷2、コモサコ2、シモクリ1であり、圧倒的に右岸が多い。右岸の方が流域が広く枝谷も多くて、流路も長くて直線的に流れているようである。
それにしても思うことは地名というものがこれほどまでにその土地のことを表しているかということだ。ここまで蛇ヶ谷に崩壊地名が集中していると、六ロ谷というのも実は崩壊地名の一種なのではないかと思わせる。ところが調べてみてもそのような説は無いし、ロクロが地形につながる要素も無い。そうするとやはり、かつてこの谷に轆轤師、木地屋が住み着いて椀や皿を作っていたと考えるほかに無い。もちろん漂泊の山民であるから、そこに定住しているわけでも無し、その居住の証拠というのは見つからないだろう。つづく
【晴徨雨読】234日目(2007.5.17)鳥取滞在
旅先の病気は辛いが、一晩どっさり汗をかき朝には回復してきた。といってもふらふらするので市内逍遙する。記録を見ると博物館やお城など訪問しているが一向に記憶に無い。まあ病み上がりとはこんなものなのだろう。くりからもんもんのお客ばかりの温泉はよく憶えている。
こんなとこいったかなあ。
【作業日誌 5/17】
ドッグランどドア、手すり作成
【今日のじょん】
ドッグランどのビフォアアフター撮るために写真撮ったが、ビフォアもアフターもあまり変わらない。