晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

AKB 続・胡麻 7/16

2011-07-17 | 上林界隈(AKB)

2011.7.16(土)快晴

 胡麻というところに閉塞感を感じるのは、今が自動車中心の交通形態であるからで、徒歩の時代には京街道が通っていたし、鉄道の時代には舞鶴線(現山陰線)が敷設され通行の盛んな地域であったと思われる。綾部から胡麻に行くには、下山から細い道を辿るのだが、下山バイパスが出来て少し短縮されることになった。胡麻に近づいたところに水別れの道という看板が立っている。道を挟んで日本海側(由良川水系)太平洋側(大堰川水系)ということのようだ。分水界というのは日本のどこでも割合しっかり分かれているものだが、丹波地方は標高が低いためか複雑に入り組んでおり、随分移動もしているのである。胡麻の附近は分水界が何度も移動し、畑川などは大堰川水系になったり由良川水系になったりしている。(現在は由良川水系)Img_3293

胡麻には川らしい川はないが、太古にはこのような地形を作る水流があったのだ。(丸山)


 実はその由良川もかつては瀬戸内海にそそいでいたという、最も数万年前の話だが、、、。丹波高原というのはそういうところなのだろう。
 今回の目的は南丹市図書館の日吉図書室と言うところへ胡麻に関する資料を探しに行くことである。明治鍼灸大の下の生涯学習センターというところにあった。図書室というから貧相な施設かと思ったら、立派な設備で蔵書も豊富である。探している資料も親切に案内してくれて大変満足な図書館であった。胡麻地名のこと、鋳物師のこと、マンガン鉱のことなど充分調べて図書館を後にする。Img_3292

一階の広いスペースが図書館。綾部から見るとうらやましい。


 新町周辺や木住周辺をめぐってみたいのだが、時間がないので、胡麻駅の南にある丸山を見に行って帰ることにする。この丸山は名のとおり丸い山なんだが、その丸さは測ったような丸さである。地形図で見ると、上林の志古田や弓削の繞谷丘陵地形と同様のものらしい。上林川のように顕著な流れを持つ河川ではないが、あれだけの地形を作り出す水流と言うものは凄い力を持つものと思うが、やはりその主役は数十万年という長い時間の経過であろう。これだけ顕著な円形なら神社や墓地、あるいは古墳などあってもおかしくないのだが、地図上にはそれらしいものを見かけられない。西側、南側は車でも簡単に行けるので車を駐めて、人が居たら聞いてみようと思ったがこれまた歩いているような人は居ない。次回訪問時は歩いて登ってみよう。Img_3296
 
丸山南面、千木の乗った茅葺き屋根は珍しい。


 帰り道、京丹波町に入った少しの所に春日神社の鳥居がある。自動車道が整備されていて参道は荒れているが、由緒書きを見ているとここも丸山であった。山頂に神社があるそうだが、次回は訪れてみよう。明智光秀が勧請したとあるが、この道が重要な京街道だったのだろうか。Img_3298Img_3297_2

下山の春日神社の参道と由来の看板、この山も丸山である。

 
 27号線に戻るとあと二箇所の丸山を訪ねる予定だったが、時間が無くて次回にゆずることにする。

 

【作業日誌 7/16】
じょんのび看板完成

今日のじょん:14日の今日じょんが消えてしまったので、改めて14日号を掲載する。
今年の虫の多さは異常である。特にマダニの被害が多いようで、遂に発熱などの症状がきつくて病院に担ぎ込まれたなんてのも聞くようになった。下肢から腹部は咬傷痕だらけで、悲惨な状況となっている。じょんはフロントラインのお陰でダニ被害は無いようだが、蚊やブヨの被害は人以上である。機嫌良く寝ているかと思ったら急に飛び起きてカイカイを始める。キンカン塗ってやるわけに行かず困ったものだ。Img_3284  
カイ~ノ。

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AKB 胡麻 7/15 

2011-07-16 | 上林界隈(AKB)

2011.7.15(金)快晴

 AKB・上林界隈なんていったら叱られそうだが、上林からちょいと行ける所という意味で堪えて欲しい。大唐内の胡麻峠の由来を探るべく胡麻を訪ねる。胡麻は元々船井郡日吉町にあり、今は南丹市となっているが美山町同様南丹市とはなにかそぐわないなあと感じる。子供時分は国鉄山陰線のSLの列車に揺られて京都まで何度か行ったが、トンネルの数を数えたり、駅名を憶えたり楽しい思い出がある。その中で記憶に残った駅が変な名前の安栖里(あせり)と胡麻(ごま)である。Img_3287 Img_3295
 
国道27号線沿い安栖里駅と府道50号線沿いの胡麻駅。鉄路は下山から園部の間は道路とは別の経路を辿っている。


 大人になって自動車で綾部に向かうようになると、国道9号線、27号線を使うのだが、この胡麻は現れない。あの山陰線の通っていた胡麻はいったいどこにあるんだと不思議に感じていた。自転車のトレーニングで美山や京北に行くようになって殿田(とのだ)から大堰川沿いに京都に帰ることもよくあったが、胡麻は通らない。自転車のチームで胡麻のあたりで練習したことがある。先導のバイクに続いて集団で走るので信号が無いこと、車の通行が無いことが必須条件である。20数年前のことだからそういう条件に合っていたのだろう。ただ、行き帰りはみんなで一列になって走るので地理的にはどこを通ったのかわからない。ゴルフに通い始めて太閤坦、グランベール、クラウンヒルズなんてゴルフ場に行くのだが、殿田駅(現日吉駅)の先の踏切で左折するもんだから、胡麻は結局通過しないわけだ。
 上林に住み始めて、明治鍼灸大に所用があって27号線下山からグリーンハイツの中を通って胡麻に行く。嘘だろうと言うような細くてわけの解らない道をぐねぐねと走り、目的地に着く。Img_3289

下山から胡麻まではいわゆる胡麻高原の開拓地で牧場が沢山ある。

  憶えのある道に出て初めてほっこりするのだが、綾部からだとこの道が最短なんだと解る。そして胡麻と云うところが袋小路になった、抜けるところのない所なのだと解り、そのことが地理的に理解の出来ない原因であったと解った。それだけにとても不思議で魅力的な町でもあるわけだ。つづく

【作業日誌 7/15】
看板ニス上塗り
草刈り(6-1)

今日のじょん:猛暑が続き、朝の散歩も手抜き気味になっているんだが、そのせいかぽんぽこぽんの一投目はすぐに帰ってこなくて、芝生広場をグルグル廻って帰ってくる。カンカン照りのくそ暑い中を全力疾走するもんだから後はくたくたになっている。Img_3278

 

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大唐内のこと(66) 丸山とイモリ村 7/14

2011-07-16 | 歴史・民俗

2011.7.14(木)曇

 若丹、丹丹国境の稜線上で国土地理院2万5千分の一地形図に名が載っているのは老富では三国岳(618,4m)と胡麻峠(524m)のみである。寛政十一年の丹波国大絵図には長谷口、猪鼻峠、三国嶽、護摩峠が載っている。これ等が若狭、丹後に越える重要な街道であった。大唐内から市志に越える峠は地図上に峠名がないが、街道は記載があるので古くから使われていた道だろう。養老山(665,4m)は大唐内ではなく市志の山だが、「京都の山」という本に与保呂(よほろ)では養老ヶ岳、市志では養老山、大唐内では高尾山と呼ぶとある。これは大唐内で確認する必要があるが、それから山名考証してみたい。養老ヶ岳というのは与保呂ヶ岳から来ているのだろうと思うし、市志から与保呂に抜ける峠は丹波国大絵図に八代峠とある。与保呂の小字に矢城(やしろ)の地名が見え、関係があるのかもしれない。胡麻峠は大唐内から多門院(たもんいん)に向かう峠だが、375mのピークの手前で左に向かうと与保呂に下ることになり、舞鶴と大唐内の通行に関してはこの峠が大きな役割を果たしていたと思われる。Img_3300
 
寛政十一年丹波國大絵図(写し)は小さくて、虫眼鏡がないと地名が判別できない。


 さてこの胡麻峠だが、前述のとおり丹波国大絵図には護摩峠と記されている。これは地名としては胡麻も護摩も関係なく、ゴマというよみのみがこの地の由来を示しているのだろう。「北山の峠」(中)金久昌業著に胡麻峠の記述があり、氏の美しく情緒的な文章で大唐内のことを書いておられる。Img_3299
 北山の峠、上中下巻は私の所蔵本の中で、最高の名著である。



【お断り】
この後も記事が続き、【作業日誌】も今日のじょんも書いてあったのだが、どういう訳か消えてしまったので、記事の続きは次回「大唐内のこと」で御紹介し、今日のじょん等はお休みとする。悪しからず。

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大唐内のこと(65) 丸山とイモリ村 7/13

2011-07-15 | 歴史・民俗

2011.7.13(水)晴

 「京都・滋賀 古代地名を歩くⅡ」吉田金彦著に和束町の湯舟、犬打の地名について書かれており、この地が鉱山地帯であったこと、そのことに因む地名が多いことなどが書かれている。その例としてユ・イ(湯舟、湯谷、射場)などを挙げ、かつてマンガン鉱山のあった猪谷(いのたに)についても同様として次の著述がある。
 
これら鉱山地名に関連して出てくる地名に、イヌ・イノ・イナがある。猪谷マンガン鉱がその一つであるが、湯舟射場から滋賀県信楽町の朝宮に出る峠も「猪鼻峠(いのはなとうげ)」という。採掘場で人が事故で亡くなったり、峠から人が去ってゆくので、イヌ(去)の名があるのかとも思うが(猪谷・猪鼻)、それだけでは片付けられない
 確かにこの地は古代からの鉱山地帯であり、戦後もマンガン鉱は掘られていた。別所地名もあるし、金谷、鋳物師川などそれらしい地名は沢山ある。しかしそれら総てが鉱山に因む地名というのは無理があるし、猪谷・猪鼻がイヌ(去る)から来ているというのは説得力に欠ける。それでは各地にある猪鼻地名の説明が付かないと思うのだ。そういう意味で「それだけでは片付けられない」という言い方をされているのだろうか。Img_3285
 猪鼻峠とは湯舟射場から信楽町の朝宮に出る峠と記されているが地図で確認することが出来ない。宇治田原から信楽に抜ける国道307号線の協和ゴルフクラブの東西どちらかの道かと思うのだが、ゴルフをしているときは何度も通ったあたりだが今となってはちょいと調べに行く訳にもいかない。
 気になるのはやはりこの地も金属関連地域だということだ。それは猪鼻が金属関連地名ということではなくて、同じような地域に同じ地名が存在することがあるということだ。例えば「イノハナ」が水の湧く岩壁、あるいは尾根の末端という意味であるとしよう。そういう地形の所に「イノハナ」という地名が、遠く離れていても同じように付くというのは、不思議なことである。今日のように情報が全国同時に拡がるという時代ではないのだ。地名には製造年月日が打ってない。地名辞典などには最初に文献に現れた年代を記しているが、それはその年代以前にその地名があったというだけのもので、地名発祥の新旧を比較できるものではない。
 私はある地名が発祥して次々と広まるのは、職業集団や開拓を続ける部族や渡来人というような集団が移動しながらその地名を付けていくのが元来の状態なのだろうと考える。同じ地名でもその付けられた時代は移っていると云うことだ。もちろん地名の意味が固定され、情報として広まると一般的な地名は全国に広まり定着するのだろうが、希少な地名や特殊な地名は文化的に共通した地域に同一地名として残存するのではないだろうか。そういう風に考えると地名によって文化の伝播経路、その地域の産業や特色などを探ることが可能になってくる。
 猪鼻峠の次は胡麻峠である。南丹市の日吉町胡麻を調べることで何かわかるかもしれない。つづく

 【作業日誌 7/13】
看板ニス塗装2回目表
トマト収穫Img_3274

やっと赤くなったトマト、ナスと胡瓜は食傷気味。

今日のじょん:自動車で出かけるときは一応連れてってもらえるかもと期待するみたいだ。おかーの買い物に連れてってもらえずにいじけているところ。Img_3275

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大唐内のこと(64) 丸山とイモリ村 7/12

2011-07-13 | 歴史・民俗

2011.7.12(火)雨、曇

 徳島、香川県境、国道32号線の猪ノ鼻峠について地図を調べていると峠を香川県側に下ったところ東に猪の鼻という地名を見つけた。人家もなくこんもりとした森の様で、その地が峠名の由来となっていることは理解できるが、果たして猪の鼻とはどのようなところかうかがい知ることは出来なかった。インターネットで探ってみると「阿波学会研究紀要」というサイトに徳島県の地名についての研究発表が掲載されていた。徳島県方言学会の三名の方が研究を重ねて書かれたもので、熱心に研究され信頼性がありそうなので参考にさせていただくこととした。
 猪ノ鼻と言うところは徳島県に三ヶ所あり、前述の猪ノ鼻峠の徳島県側、池田町西山猪ノ鼻、海陽町小谷猪ノ鼻、阿波市土成町平間猪鼻である。猪ノ鼻峠の猪ノ鼻は香川県側のみならず徳島県側にもあったとはなるほど峠名にもなろうかというところだ。海陽町小谷の猪ノ鼻も以前ユリ地名の件で調べた地域であり、すぐに探し出すことができた。猪峠(いのとうげ)という峠があり、これも猪ノ鼻にちなんで付けられた峠名だろう。土成町の猪鼻は徳島自動車道土成インターから国道318号線を宮川内川に沿って北上し宮川内ダムの辺りである。徳島県の地形的特徴かもしれないがいずれも山間部の狭隘なところである。猪鼻地名について詳しく現地踏査され検討されているが、結論は「清水のある断崖」と書かれている。
 詳しい調査の内容はここで紹介することは出来ないが、この結論に私も大賛成であり、ほんの数カ所の例で柳田国男先生の説に異を唱えたことが大変気になっていたのだが、少し胸をなで下ろすこととなった。
 老富の猪鼻峠については若狭側を歩いてみたくなった。その前に福井県の地名を調べる方が早いかもしれない。麓に猪鼻の地名があればもう間違いないし、無くてもそれらしい地形の箇所が見つかるかもしれない。
 ほんの数カ所の猪鼻地名を訪ねただけであったが、いくつかの発見があった。それは総てに共通することでもないし、単なる偶然かもしれないので、気に留めておくだけのことなのだが、忘れてしまうといけないので、メモ的に書いておこう。
 別所地名が国道32号線猪ノ鼻峠を降りきった西に存在する、これは京丹波町の猪鼻にも言えることで、冠石峠を越え国道173号線を下り、国道9号線に合する手前にも別所が存在する。また猪鼻川を下り土師川に合して、三和町菟原にも別所は存在する。
 また、国道32号線の猪ノ鼻峠の西、稜線上には若狭峰(786.8m)という山がある。その南池田町西山は猪ノ鼻があるところなのだが、ここに引地、引地ヶ尾という地名がある。別所、引地は古代の金属地名ではないかと思っている地名である。
 海陽町の猪ノ鼻については、この地がもともと海部郷であり、海人族に所以のある地だと云うことだ。これは老富についても京丹波の猪鼻についても共通するところだと考える。特に京丹波町の猪鼻については由良川から大簾、大原を経由し猪鼻に峠を越えて海人族の文化が流入したのではないかと考えている。つづくImg_1732 Img_0291 Img_3157




大唐内、大原、猪鼻と海人族の文化が峠を越えて伝搬したのではないか。

【作業日誌 7/12】
看板ニス塗装
ジャガイモ収穫

今日のじょん:今日はじょんシャンの日、体重は18.2Kg。暑さにもかかわらず食欲があるので、体調も万全のようだ。おとーの作る夏野菜は食べるものがほとんど無いが、ジャガイモだけは大好きでもりもり食べている。Img_3273
 
キタアカリの収穫、生育は良くなかったが味は上々、じょんも大喜び。

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いさん過多 7/11

2011-07-12 | 日記・エッセイ・コラム

2011.7.11(月)晴

 いさん過多たって胃酸過多のことではない、世界遺産過多のことである。今年平泉と小笠原諸島が登録された。2006年自転車旅行の際、平泉は中尊寺の門前であまりの人の多さにきびすを返し、毛越寺(もうつうじ)のユースホステルは行事があるとのことで宿泊を断られた。小笠原も行きたかったのだが、東京まで行かないと船に乗れないので断念した。その時は横浜に宿泊しており、自転車で東京まで行く気がしなかったのだ。それほど首都圏の自転車交通事情は悲惨であった。毛越寺のユースホステルは翌年に閉鎖されたし、小笠原ももう人が多くなって行く気がしない。あのとき無理をしてでも行っておけばよかったと思うのだが、後の祭りである。Img_1359
 
中尊寺界隈は超満員、毛越寺にも泊まれず一関まで走る。
(2006.10.21)


  1993年に白神山地が世界遺産に登録されたときは感激ものであった。林道を建設し、原生林を破壊する乱開発がこれでストップされると思ったからだ。その後どんどん登録され、国内で16ヶ所となっている。これって遺産過多じゃないの。
 登録されたところのほとんどを訪れているが、地元にとっては文化や自然を保護して残すということよりも、観光資源として名が売れるということの方が重要視されているようで、あまりいい気はしない。確かに今まで関心のある人だけが訪れていた所も観光バスが列をなすようになり、その地の文化や遺跡にはなんの関心もなく、おみやげの饅頭や煎餅にのみ夢中になっている観光客が増えている。観光客の側も世界遺産というパンフレットに踊らされて安いパック旅行に行くのではなく、そろそろ自分の意志で求めるものを探すという旅を始めたらどうかとも思うのだ。
  世界遺産で最も印象深いのは石見銀山である。自転車旅行中、丁度ユネスコの審査中で町はピリピリしていた。町中の家々が茶色く塗装して、郵便局もお土産物やさんも妙にレトロな雰囲気を出して、「鶴瓶の家族に乾杯」に出てくるおばちゃんが妙に厚化粧だったりするのと似ているような嫌な雰囲気だった。Img_4423

郵便局。


  街並みをはずれると誰もいなくて、何百という間歩のある山中を一人で彷徨できたのは本当に貴重な体験であった。世界遺産に登録されてあの薄気味悪い鉱山の跡にも今や旗を持った旅行会社のガイドに先導されて亡者のような観光客が列をなしているだろうと想像したらぞっとするのである。Img_4465 Img_4474 Img_4490
 



 佐毘売山神社から石銀集落、そしてシルバーバレイ本谷まで誰一人いなくて、気味悪いぐらいの石見銀山であった。(2007.4.19)
 ただ、その後の新聞記事で間歩(坑道)が新たに20ヶ所発見されたり、佐毘売山(さひめやま)神社から銀山最大の鉱石(約120Kg)が発見されたりとか報道されている。世界遺産に登録されたがためのプラスの面だろう。

【作業日誌 7/11】
トマト防鳥ネット張り
看板肉球のポイント張り

今日のじょん:暑さのために四ヶ所の居場所を一日中ワープしている。滞在時間が一番多いのはおとーの横、次が冷蔵庫の前、そして洗面所、一番少ないのが自分のサークルである。涼しさと必ずしも比例していないのが面白い。Img_3270
 
ここも必ずしも涼しいとは思えないのだが、、、、。

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AKB 続・猪鼻・大原 7/10

2011-07-10 | 上林界隈(AKB)

2011.7.10(日)晴

 大原に着くと左手に休憩所がある。何度も何度もこの地を通り、その時々の様々な想いが残っている。産屋に目をやると、日本一周自転車旅行に行く前の、嵐と自転車のトラブルに打ちひしがれていた時のことを思い出す。そしてその翌年、同じ道を日本一周をやり遂げて最後のバイクランをしたのもこの道なのである。いつもこの高みから産屋を眺めていた。今日はじっくり産屋の処まで降りて眺めてみよう。休憩所から歩いて5分もかからない場所なのに何でそこに行くことがなかったのだろう。Img_3172 Img_3170
 
産屋と案内板。


 産屋は単純な作りである。茅葺き、切り妻の建物に入口にぶら下がった鎌、中には御幣と産後の埋め場があり、屋根から力綱が垂れている。実際の場では御幣は無かったのではないかと思うが、このみすぼらしい産屋に十二把の藁をもって籠もった母となる女性に畏怖感を憶える。真っ暗で心細いこの藁屋の中で彼女たちは何を思っただろう。その間父となる男は母屋でどのような気持で過ごしたのだろう。
 完全看護でなんの貢献も出来ない、いわば出産とは直接的には無縁の空間を過ごす現在の男も同じような境遇かもしれない。女はその間の孤独感と不安感、恐怖感と不条理感とを耐え抜いて、もう男にはとてもおよびもつかない強い力を得て、男達のか弱い、虚勢ばかりの世界を超越して生きているのではないかとこの産屋は思わせるのである。
【作業日誌 7/10】
看板焼き印押し
ゴーヤネット張りImg_3267 Img_3269

あとはニス塗り。


 今日のじょん:夕方の散歩が終わって一時間余り、じょんは玄関で待っていることとなる。涼しい時期は気持ちの良い芝生広場で待っているのだが、暑い時期はこの場所が一番いいのだ。ダニは居ないし、蚊取り線香は炊いてあるし、谷からの涼しい風が来る場所なのだ。ところが本人、いや本犬は放って置かれるのが嫌なみたいで、しゃー無いから目に付くところで作業することにしている。Img_3266

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AKB 猪鼻・大原 7/9

2011-07-10 | 上林界隈(AKB)

2011.6.9(土)晴

 従来上林探訪というタイトルで上林やその周辺を訪れて紹介していたが、今回からArround KANBAYASHI、略してAKBで御紹介したいと考えているのだが、例えば昨日7月8日も弓削か市茅野を訪れようと思いつつあまりの暑さにビール飲んで昼寝してしまった。従って記事がないのだが、先月24日に猪鼻の地名由来を探るべく京丹波町の猪鼻(旧瑞穂町)と大原(旧三和町)を訪ねたので遅まきながら御紹介したい。
京丹波町猪鼻(2011.6.24 晴)
 猪鼻の地名探訪として訪れる。地名の由来となっている猪の顔の岩を是非見てみたいというものだ。昼食までのちょっとした時間を利用ということで、軽トラで水筒とカメラを持って出かける。
 私が三和町川合(現福知山市)に住んでいるときだろう、瑞穂町の産廃処理場建設反対運動があったように思う。水系の違う川合でどうして反対運動があったのかと思うが、やはり環境に対する意識が強かったのかと想像している。実際に見てみると府道26号線の冠石峠を越えたところにあり、いわゆる水源地帯に存在する。すぐ下から田んぼが続き、やがて集落があり、水流は猪鼻川、土師川となる。何もこんな水源地帯に作らなくても良いのではと思ってしまう。記録によると昭和45年に冠石峠に鉛再生工場が進出し公害問題が発生したとある。このことと関連があるのだろうか。Img_3155

これが埋め立て地から出た排水か。 



 この産廃処理場を下ってゆくと左手に例の猪の岩がある。誠にユーモラスな面構えの岩で、猪鼻地名の由来となるのももっともだと思うがそれは付会だろう。Img_3165
 民宿ほそのの先稲荷神社のところを右手の道にはいると熊野神社が高台にあり、この辺りが猪鼻の中心地なのだろう。右手の横谷沿いに人家の途切れるところまで入る。この道は大原に抜ける峠越えの道で旧い街道のようで、道端にお地蔵さんが並んでいる。途中の家で奥さんが表におられたのでいろんな事を聴く。
「この道は大原に抜ける道なんですねえ」
「そうやで、昔は着物着て大原祭りに歩いて行ったんやで」
「今は荒れてるんでしょうねえ」
「峠までは村で整備したので上がれるようになっとるけど、向こう側はわからんなあ」Img_3157
Img_3161 
大原に越える峠と道端のお地蔵さん。


 「加用から川合に抜ける峠はどうなってますか、20年ほど前車で通ってえらい目にあったんですが、、」
「今はきれいになっとるで、昔は歩いて岼の鍛冶屋さんにいったりしたんやで、久馬さんゆうたかいなあ」
「猪の岩の写真撮って帰ろと思とるんですが」
「あの岩なあ、学校の帰りに雨宿りしたもんやで」
「ありがとうございました、またきますわ」
 その後熊野神社、猪の岩など訪ねて、来た道を帰る。三宮まできたときに国道173号線脇の尾根の末端で古墳の発掘がおこなわれているのを発見する。国道を走っているだけでは見つけられないかもしれない。なかなか規模の大きい古墳で、発掘の結果が楽しみだ。Img_3166 つづく
 
 
下を走るのが173号線、規模の大きさがわかる。


【作業日誌 7/9】
看板色塗り完了

今日のじょん:連日の猛暑に人間も犬も居所がない。犬も猫と一緒で涼しいところを探すようだ。最初嫌がっていたお風呂場の前が最近のお気に入りで、やはりそこが一番涼しいようだ。Img_3259
 
ここがいっちゃんえ~わ。

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大唐内のこと(63)丸山とイモリ村 7/8

2011-07-09 | 歴史・民俗

2011.7.8(金)晴れ

 峠の名前の由来の多くは峠の下にある村の地名を持ってくるのが多いようだ。坪坂峠も洞峠もそうである。猪鼻峠の麓に猪鼻という地名があれば総てが解決する。ところが丹波側にはそれらしい地名はないし、若狭側は詳しく調べていないので今のところ不明なのだが、どうもありそうではないのだ。仮にそうなると猪鼻峠そのものが猪鼻地名の元となるわけだが、柳田氏の云う「人の住む塙」といえるような地形ではない。困っているときに丹波負笈録、市茅野村の項に次の一文があるのを思い出した。
 
一ノ端嶺若州坪セキヤ村に一里 間道悪
他の文から嶺はトウゲと読ませ、一ノ端嶺は猪鼻峠のことらしい。一ノ端というのがどういう意味をなすのか不明である。この峠が丹 、若どちらかから見て左端、あるいは右端にあるのなら字のとうりの意味がありそうだが、一番端では無さそうだ。
一”が市茅野の”市”としたらどうだろう。市茅野、市志、市ノ瀬など市(いち)のつく地名が連なっており気になるところだが、この”市”に何か意味があって、その端にあるということかもしれない。
 平凡社の地名辞典には「一ノ端を猪鼻と読ませたものだろう」とある。しかしこれは逆に「猪鼻を一ノ端と書いた」と考えることも出来る。したがって附近には猪鼻という地名は存在しないのかもしれない。存在すれば、「猪鼻を一ノ端と書いた」となるからだ。
 柳田氏の云うところの”鼻”は概ね塙の意味で良かろうと思うが、端の意味で使われている”鼻”もあるように思う。また、”猪”を”居”として人が居住するという意味に限定するのはどうかとおもう。
 苗代に水を引くところの水口を猪口(いのくち)と言うところがある。この場合”猪”は”井”、すなわち水の湧き出るところという意味だろう。京丹波町の猪鼻を訪れておそらくその中心地だろう、熊野神社があるところの地形を見て驚いたことがある。実はシデの山(睦寄町鳥垣)の地名を調べていて、その茅かきの基地となるべき獅子鼻(シシハナと呼ぶのだろうか)の地形図とうり二つなのだ。両脇から二つの尾根が付き出していて、真ん中に豊かな水量の水が流れているのだ。
Img_3163
熊野神社は右の尾根の末端にあり、その下に豊かな水が流れている。

鳥垣の獅子鼻についてはどれだけの水量か確認していないのだが、いずれ見てみたいと思っている。あまりに例が少なくて言い切れないのだが、「猪鼻」地形とはこういうものを云うのではないかという気がするのである。つづく

【作業日誌 7/8】
看板色塗り

今日のじょん:家の下の道路に人が通るとワンワンと吠える。先日から工事の人が府道の草刈りでうろうろされているんだが一向に吠えない。よーく考えると店に来る人も強面の人には吠えないで、人の良さそうな優しそうな気の弱そうな人にはよく吠える。「それって縦貫道の覆面パトと一緒やないかい」。黒いベンツなど見たこと無いが、小型車に乗ったおとなしそうな人ばかり捕まっている。Img_3260
あつ~てぐったり。

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大唐内のこと(62) 丸山とイモリ村 7/7

2011-07-08 | 歴史・民俗

2011.7.7(木) 雨Img_3164

 6月24日の記事に載せた写真である。京丹波町猪鼻にある、その地名の由来となっている岩である。夏場で草木が多くわかりにくいこともあるのだが、ファインダーを覗きながら思わず笑ってしまった。猪の顔にそっくりなのだ。
猪鼻は京丹波町の大字で元は瑞穂町、その前は三宮村だろうか、三和町加用と接している。この地を訪れたのは猪鼻という地名の由来を確かめたかったからだ。
 さて、若丹国境稜線につづく峠は府道1号線から永谷坂峠、坪坂峠そして猪鼻峠となる。猪鼻峠は小唐内を詰めると至り若狭側に少し行くと、市茅野から至る坪坂峠からの道と合流するものである。丹波から若狭に抜ける道はこの峠がもっとも短距離のようで、おそらく徒歩の時代には最も重要な峠であったろうと予想する。Img_2721
 
若丹国境の猪鼻峠、若狭側は植林の林だ。


 前者二つが地元地名に基づく峠名であるが、猪鼻峠はメジャーな地名である。
 著名なものは阿波と讃岐を結ぶ琴平街道の猪鼻峠(国道32号線)、金太郎伝説で有名な金時山、別名猪鼻岳(1,213m)、浜名湖の四つの枝湾のひとつで奥浜名湖とも言われる猪鼻湖などがある。各地にもローカルな地名として、猪鼻、猪ノ鼻、猪端、亥ノ鼻など数知れずあり、京丹波町の猪鼻もその一つである。
 猪鼻湖には猪の鼻に似た猪鼻岩というのがあり、猪鼻岳はその形が猪に似ているとか金太郎が猪と戦った風の伝説がある。京丹波町の猪の顔に似た岩同様、地名が先にあって付会されたものだろう。それだけ普遍的に猪鼻地名は数多く散らばっているということである。ところがこの地名、「引地」と同じくあまりに数多くあって逆にその由来がはっきりしないのだ。柳田国男氏の「地名の研究」には、「ハナは塙であって川の岸などの迂回をしなければ近よれない地形であった。イノハナというのも似たような場所で、やはり目かくしの竹を植えていたのだが云々」とある。とまあこの部分だけを見てもなんのことかよく理解できないのだが、別の項で、イ(ヰ)とは民居すなわち家居の居であろう、という風に書いている。また、「竹の花」の項で、ハナワはアイヌ語パナワから来ており、高い地所のこととしている。総じてイノハナは人の住む小高いところとでも解せばいいのだろうか。つづく

【作業日誌 7/7】
看板色塗り

今日のじょん:雨降ってる日はレインコート着やんなんから思い切りしょぼちーんとしている。「満塁ホームラン打たれた後の阪神みたいやなあ」「じょんの方がましやで」、、、しっかりせいよなあ阪神君。

 

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雨読 墓地(2) 7/6

2011-07-06 | 雨読

2011.7.6(水)曇

 「民俗資料にあらわれた墓地」という土井卓治氏の文中にそれはあった、林葬という項の中の文である。
 「前文略 ところが一般には野蛮未開の習俗とせられ、ことに神国日本にそうした葬法はなかったもので鳥葬の国などというのは異国のことと思われている。考古学者は縄文、弥生から埋葬例があるから、風葬の存在を否定する。積極的に立証できない以上、存在したといえない、事実があるなら証拠を示せというが、野ざらし雨ざらしでは証拠の残りようもない。私はそれにもかかわらず風葬的葬法が広くおこなわれ、庶民の場合はむしろそれが普通であったと信じているので、意見の対立することもある。云々」
 この文章はショッキングであった。私自身、沖縄や奄美で見ることの出来る風葬が本土においても当然存在したと考えているのだが、考古学、史学の分野ではまったく否定されているという事実だ。土井氏も風葬等の証拠となる遺跡の調査をされているが、それは量的にも質的にも決定的とは言い切れない。Img_5983
 
東北の葉山信仰の葉山は近畿には無いようだが、葉山の次に魂の行くという深山は数え切れないほどある。私は古代葬送の地の候補地だと思っているのだが、、、。この深山の入口に賽の神(現地ではササの神と言っている)がある。(2009.7.13参照)


 もし風葬、鳥葬などの葬法が庶民の一般的な葬法として存在していたのなら、もっともっと証拠となる遺跡が出てきても良いのではと思うのは事実である。土井氏が野ざらし、雨ざらしでは残らないと言っているが、骨は残るはずである。何万年前の原人の骨でさえ残っているのだから。
 私は40年近く山や沢に登ってきたが、人骨はおろか動物の骨さえ見つけることはなかった。もし小説「楢山節考」に出て来るような谷が全国にあったなら、そこいら中が骸骨だらけになるんじゃないか。
 例えば京の都だって、戦や疫病で死体が累々ということはよく聞くが、発掘調査で出てくるのは柱の跡や土器、瓦などで、人骨が出てきたというのはあまり耳にしない。こういったことを考えると、骨というのはよほど好条件が揃わないと残存しないものなのか、あるいは沖縄の洗骨のように複葬の習慣が当初から存在し、骨をどこかに埋葬したかとしか考えられないのである。沖縄の洗骨は歴史的には新しいようである、念のため。京都の場合などは白骨化したものをまとめて化野だの蓮台野に埋葬したのかも知れない。それぐらいの行政の力はあったのではないだろうか。
 といった観点で読み進めると、本書の編集の意図は達せられてはいないが、一つひとつの論文は興味深いものであるといえよう。おわり。

【作業日誌 7/6

看板の肉球ワンポイントづくり
薪割り

今日のじょん:じょん語録60、ろーけんですか?
もう既に登録されているかと思ったら未登録だった。お客さんに「老犬ですか?」と言われることが何度かある。妙におじんくさい態度や表情をすることがあり、その時に言われるのかと思うが、「おっさんじょん」よりショックがきつい。
Img_3257
若々しいと思うのだが、、。
 

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シデの山地名考(6) 7/5

2011-07-05 | 上林地名考

2011.7.5(火)曇

 (9)その他の地名
シデの山に関する地名は一応全て考察してきたが、「シデの思い出」の中にいくつかの地名や呼称が出ている。それは村中の共同作業をする際により詳しい地名や呼称が必要であったということだろう。従って○○の上とか○○の下、○○の端というような呼び方がいくつもあったと思われる。「シデの思い出」の中にはみと下、カワラ上という呼称が掲載されている。(P23)
 「中の段」(P41)
 どこの場所か確定できないのだが、「おおだん」と同様に台地状になった、傾斜の緩んだ地域のことだろう。
 「九十九折」(P41)
 カワラ上とあるのでかわらの上部にあるのだろうが、つくもおれとでも読むのだろうか。茅原に作られた作業用の葛籠折れの道のことでは無かろうか。
 「ズンド松林」(P42)
 つんどに残っている松林のことだろう。
 「みとのきったて」
 きったてとは趣のある言葉だと思う。切り立ったところという意味だろうから岩峰かなと思ったりしたが、急斜面を表す言葉であった。Img_3185 Img_3195

シデの山を行く。左:やすみと手前 右:尾根道のおりと 


 獅子鼻、フケ、コモ池、鳥垣、馬場先など鳥垣地区の多くの小字名が出てくるが、これ等の考察は後日「鳥垣のこと」で述べるつもりなので、今回はここで筆を置くことにする。今回あてずっぽうに地名考証したが、特に「つんど」は自信がない。是非地元の方々にご意見を頂いて納得のいくものにしたい。おわり

 【次回シデ山山行のご案内】
7月24日(日)
 おりと~鳥垣渓谷~やすみと~林道~シデ山頂~大栗峠~復路
 午前9時小野田橋集合 帰着午後3時予定
 参加希望者はじょんのびまで

 ※私は徒歩短縮コース(林道を車で上がり、山頂、峠は同行)に参加し早帰りの予定、このコース希望の方もあれば一緒にどうぞ。

【作業日誌 7/5】
看板支柱完成、看板彫り上げ完成
畑、鳥対策

今日のじょん:ぽんぽこぽん超難関コース
暑さのせいか人も犬も根気が無くなっている。ボールが難しいとこ入ると、探したり取ったりという努力を続けなくなっている。人も待ってやる根気が無くなってついつい手助けしてしまう。こういう教育はいかんね。Img_3256
 
 

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シデの山地名考(5) 7/4

2011-07-05 | 上林地名考

2011.7.4(月)曇、雨

 (8)シデの山
シデはカバノキ科クマシデ属の落葉高木の総称ということである。この木が沢山生えていたからシデの山と言われていたかも、、、と「シデの思い出」にはある。鳥垣にはシデの小字もある、多分シデの山のあたりなのだろう。Img_3192
 
鳥垣林道広場近くのシデの木


 私はシデの由来が木のシデだというのには懐疑的であった。古地名に関して樹木や作物、あるいは獲物などの名前を付けるのは極端に少ない。というと鹿島や鹿角などはどうなんだと言われるかもしれない。確かに鹿の付く地名は無数にあり、動物では鹿が一番と言われる。古来鹿は全国至る所におり、食料として重要視されていたという。しかし地名の場合はほとんどが当て字で鹿そのものを表す地名は少ない。大唐内の栃の例も出したところだが、栃が生えているから栃ではないのである。動植物は人間の生活と密着しているが、その生息地は変遷するので地名として付けるのは意味がなかったのではなかろうか。
 シデには多くの意味があり、著名なのが注連縄に下がっている細長い紙であり、垂(シヅ)の名詞形ということだ。塵払い、はたきなどをシデという地方もあり、これは語源を一にしているようだ。
 もう一つ誰でも浮かぶのが死出の旅路のシデである。縁起でもないと叱られそうだが、山が葬送の地となる可能性はあるが、こう直接的な名前を付けられることは無さそうである。
 山行の際沢山のシデを見つけて、やはりこの山名の由来は木のシデだろうと思った。つまりシデという地名はそれほど古い時代に付けられたものではないのかなとも思う。やすみと、おりと等は茅刈作業が始まってから付けられた地名だと考えられるが、シデは小字に残っていることも考えもう少し旧い地名だろう。つづく

 【作業日誌 7/4】
らっきょう収穫、酢漬け(今年は植え付け用を別にして、1,2Kg収穫)
Img_3254
らっきょう酢は自作より購入品が美味い、辛いことだが、、。


 今日のじょん:月曜はかみさんが午後からプールに行くこととなった。たかだか3時間ほど居ないだけなのに、すっかりしょげかえっている。一緒に連れて行ってもらえないのがショックなのか。しょぼち~ん。
Img_3251

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芝生大作戦’11  7/3

2011-07-04 | 違いのわからん農学士

2011.7.3(日)曇

  今夏の草刈りはもう五回目を数えている。ついでに芝生のスギナやタンポポなどを刈っていたのだが、芝そのものはまだまだと思っていた。ところがここ一週間ほどで急激に伸びている。昨年はどうやったかなーと作業日誌を覗いてみると、なんと6月24日に初刈、草刈りはその時既に四回目とか。てなわけで昨日から芝刈りを始めたのだが、チマチマやってるとうっとうしいので店をかみさんに任せて一気にやっつけてしまう。といっても長いところでは20cmを越えているので電動芝刈り機ではてこに合わない。由良川の堤防刈ってる馬力のありそうなの欲しいなあ。
 自分の庭の芝を芝刈り機で刈るなんて、なんとなく憧れる光景だと思われるだろうが、30坪もあると楽しい庭仕事ではなくて業となる。それでも刈り終わった後は、最高の自己満足とでも言おうか、イライラしていた長髪をすっぱり丸刈りしたような、合宿が終わり半月振りに風呂に入ったようななんとも爽やかな気持ちになることは請け合いである。Img_3245
 
刈り終わりは茶色いが数日で緑に変わる。


 刈り終わると肥料を撒くのだが、以前のように割合を計算して肥料の量を出すのではなく、適当にばらまくだけという感じだ。施肥のあとは水を撒くのだが、これもそのうち雨も降るだろうと手抜きする。こんな感じで付き合ってないと芝生の奴隷になってしまう。
 芝生広場以外の芝だが、一昨年手間と資本をかけて蒔いたムーンライトSLTは昨夏の猛暑に全滅し、榎木の日陰部分に無精髭のように残って居るのみとなった。洋芝は諦めて、意外と頑張っているのがじょんのび坂の様に広がって困った芝を片手間に千切って張り付けたものだ。やはりこの方法で拡げていくのがベストらしい。
 もう一つはドッグランの所だが、堤防の野芝を手のひらほどの大きさに千切ってきては張り付けていたら、なんの世話もしないのだがしっかり根付いてきた。芝生はあまり構えないで、てきとーにやることが成功の秘訣のようだ。
 芝刈りのついでに白樺のチェックをする。一本枯らしただけに要注意だ。こんなの初めてというくらいでかい尺取り虫が着いている。強烈保護色だ。もう一つコガネムシの小型みたいなのが葉っぱについて、レースのようになっている。こいつ等天敵の写真を撮っていて、白樺の実発見。実に可憐な実がいっぱい着いている。なんとか発芽させたいが難しいかなあ。Img_3246 Img_3247 Img_3248



【キヌガサタケ情報 7/3】
第6号、不発2本
場所はいつもと同様で木小屋の西だが、先日紹介の天敵虫が既にレースの一部を食っている。朝は一匹だったが、昼頃には4匹たかって蚕食している。
 その手前に第2号を収穫した際にくっついていた壺2個を埋め戻したのだが、その2個が出てきた。ところが一個は上下逆に戻したようで逆立ちして育たず、もう一個は卵の時に踏んづけて破れていたので、これも伸びきらなかった。この二つは不発弾で号数に入れないものとする。Img_3237Img_3238
既に虫が着いている6号。
左のは上下逆、右のはグラバも出来ているが踏んづけられて成長できない。

今日のじょん:今日は久々にユキちゃんが来て機嫌が良さそー。Img_3243   

おかーと散歩から帰ってきたところ。

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シデの山地名考(4) 7/2

2011-07-04 | 上林地名考

2011.7.2(土)曇

 (7)つんど
 つんどはみとの上方、稜線よりの地域である。実はこの「つんど」が最も難関で、皆目見当が付かない。地元の方に聞いたら「そりゃあ、○○のことやがな」ってんでけりが付くのかも知れないが、ここはいちばん自力で考えてみよう。つんど畑という地名をどこかで聞いた憶えがあるのだが、どこだか思い出せない。きっとどこかの山だろうと思うのだが、実は気のせいかもしれない。思い出せたら解決するような気がするのだが、思い出せそうにない。恥を忍んで考証してみよう。
 「シデの思い出」の中では地図には「つんど」、文中には「ズンド原」と表現されているが、これは「つ」→「づ」→「ず」と呼びが変化したもので同一のものである。
寸胴(ずんどう)は胴体が寸法的に変化のない様子を表し、鍋などに使われる用語で一般的なものだが、シデの山のつんどの地形とは無関係のようである。
 古語辞典に”つんど、ずんど”で非常に、よほど、全然などの副詞、手際よくする様などがある。しかしこれも地名になりそうな言葉ではない。
 ここで方言辞典が登場する。方言というのはその地方に特別な言葉であるが、私は全国的とまでは言わないが、ある程度普遍的に使われていた言葉が他の地方では消え、特定の地域に残ったというものだろうと考えている。だから東北や九州で生き残っている言葉もかつては丹波でも使っていた言葉かもしれない。
 ”つんだ”山の頂上(与謝郡)、”つんぶり”山頂、峰(佐渡)、”ずんど”方角(滋賀県蒲生郡)、”すんごむ”沈む、もぐる(愛知県知多郡)、”ずんごむ”陥る(与謝郡)などこれ以外にも多数の候補が出てくる。

 しかし”つんど、ずんど”と言った名詞からは納得のいく言葉が見つからず、「つんど」の「ど」を「と」と同じく「ところ」という意味に考えると、「つん」「ずん」が問題になる。つんところ、つまり「つむ処」と解釈してはどうだろうか。「つむ」は積む、摘む、詰むが考えられ、茅を積む、山菜を摘むなどがいかにもシデの山らしいが、私は詰むを考えたい。将棋をする人は、詰む、詰みとはよくご存じだと思うが、最終、もう行きようがないというような意味があるのではないか。そういう意味で登っていって最終の処、つまり山頂、山稜を表しているのではないか。方言に言う”つんだ””つんぶり”が山頂を表すのも同意だと考えるのである。
 「つんど」は和知との境をなす稜線につながっているばかりでなく、その稜線上に693mのピークを持っているのである。つづく

【キヌガサタケ情報 7/2】
第5号 場所木小屋の西、これまでと同じ所である。地面が竹の切りくずで覆われているため素直に成長できない。収穫時、泥で汚れたので水洗いして乾燥したが、溶けたようになってしまってうまく行かない。水洗いは厳禁。Img_3233

 


【作業日誌 7/2】
芝刈り(1-1)Img_3241

北半分を刈って肥料を撒く。伸び具合がよく解る。


今日のじょん:最近とみに吐くようになっている。虫さされが多く、舐めているので毛が口に入り、やがて毛玉を吐くという悪循環のようだ。どこのワンちゃんも同じような状況らしい。

 

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