日本共産党 前箕面市会議員 名手ひろきのブログ

日本共産党 
前箕面市会議員の名手ひろき(宏樹)のブログです。

仮設住宅訪問と移動青空市 今日が今回の私の陸前高田支援の最後の日

2011年07月18日 20時42分00秒 | 日本共産党
7月18日(月)海の日
 
 今日も、朝8時、一関のボランテイア支援センター(宿舎)を出発9時10分に、陸前高田の鳴石・共同支援センターに到着、約1時間の山道だが1週間も走ると慣れてきたところ。行きは名手が帰りは床鍋委員長が運転するのが日課になってきた。とは言っても、名手は今日は今回の支援の最後の陸前高田行きでした。
 例の通り、着くとすでに、地元のセンタースタッフが集まってきて9時30分から青空市のテント建てや物資の運び出しなど準備。一通り終わると朝の会。今日は、大阪からの長期支援に入っている鈴木さんの進行で行動日程の確認を行いました。今日は、地元の女性議員・大坪議員が参加しました。(右から2番目)



 青空市と仮設住宅訪問、仮設での青空市 
 今日は、センターの青空市と新たな仮設住宅訪問、午後から仮設住宅で青空市の行動です。

仮設住宅訪問と午後の青空市案内
 私と床鍋委員長と泉大津の市議2人で、午前中、鳴石のセンター近くの仮設住宅訪問に出発しました。戸数は約30件、2隊に分かれて、訪問。まだ、入居されていないのか留守も多く、おまけに表札もない家が多い。一軒一軒、ノックして、「こんにちは、高田・鳴石の日本共産党・市民の声から、ご要望など伺いにまいりました」と訪問。留守のところには、ニュースを入れる。約15件訪問し、5件と対話。

・借家だったが高田市内の家が流された。妻は、仕事場流され、私はバイクで避難、避難所から住宅に入って10日、日用品はそろっているが、住宅が2年後、いつまで居られるか?公営住宅の建設してほしいが、それが無理なら、この仮設を家賃がいっても、しばらく借り上げ公的住宅にしてほしい。


・夫は消防団で出て、津波にのまれて亡くなった。弟も昨日、遺体が発見された。身内が沢山亡くなって、沈み見込んだように、洗濯物を干していらっしゃいました。いま、混乱して何も考えられません。と。

・入口の網戸やのれんがなく、風通し良くしようと思っても、入口が開けっ放しにできない。せめて、のれんかけられないでしょうか?
などなど、見ず知らずで突然、訪問したボランテイアに堰を切ったように話されます。「鳴石では全国の支援物資を集め常設の青空市をおこなっています。午後1時から、仮設入口で無料青空市を行いますので、おこしください。日本共産党の大坪市議が相談にのります」と丁寧に案内しました。

 
 仮設住宅前の青空市
 共同支援センターに戻り、午後から、仮設住宅へ青空市の準備をして、12時40分、出発。仮設前で準備を始めると、大阪パルコープの車も支援物資を運んできました。「いやあ、重なったかなあ」と思いましたが、生協は個別に生活道具セットを配っている様子。こちらは予定通り、涼しい木陰で、無料青空市を開催しました。わずか30戸の住宅ですが、事前の告知が効いて、続々と住民さんが来てくれました。食器や鍋、洗剤は飛ぶように出てゆきます。「お米重たければ運びますよ」「持ち切れなければ、お部屋前まで運びますよ。何番ですか」「和歌山からの梅干し美味しいですよ、元気が出ますよ」と呼びかけ、1時間足らずで次々と、品物が無くなってゆきます。


ここでも青空市が偶然の出会いの場に
 仮設住宅に入り、個々の生活になってしまったせいか、青空市では、住宅の住民同士の出会いとコミュニケーションの場になります。「あなた、生きていたのね~」「私も(党の)仲間よ」と出てこられ、「暑いのに御苦労さま」逆に栄養剤の差し入れまで受けました。


 午前に、夫、弟を亡くされ沈んでいた奥さんも、これも欲しい、これも必要と支援物資を沢山持って帰られました。私も、段ボール詰めで部屋まで運びました。のれんが欲しいとおっしゃっていた方にも、ちょうど一枚長いのれんを見つけ、「これ役に立ちますか?」と言えば、「これいいです。ありがとう」と喜ばれました。すぐに役立ちうれしい限りです。あっという間の1時間足らずの移動青空市でした。


高田市役所仮庁舎見学


 共同支援センターに帰り、かたづけのあと、近くの仮設高田市役所を見学しました。休みで、限られた職員で運営していました。入口の外にお置かれた仮設トイレは、匂わない緑の消臭液が流れるしくみで、役所の中には温水便座式トイレもありました。市議会会報も庁内の機会印刷で刷られたもので、入口窓に掲示されていて、及川議員の死亡の記事もありました。


終りの会、高田の今回の経験を大阪の地元でも生かして
 3時から予定通り、全員参加で終りの会が行われ、「仮設住宅へ訪問し、要望をつかんで、青空市をおこなうなどと住民さんの必要な物を持って行けるというここ2日の取り組みのスタイルを方向性として進めよう」と提案されました。さらに「仮設での青空市がいつあるかなど留守の人でもわかるメモがいるのでは」「前日に、お知らせし、次の日に行うくらい、予定が立てるようにしておけばいいのでは」などの新たな提案もされました。
 常設の青空市では、男性用のステテコ、ランニングなど下着、肌着の要望にこたえられていないなど声がありました。全国の支援物資にも要望してゆこうということでした。
 今日は、西淀川から飛行機とバスで看護婦さんが駆けつけてくれました。血圧を測ってもらいました。(写真はたまたま床鍋委員長。他にも地元の方がたくさん青空健康診断をうけました)


 常設の青空市ではいつも津波の話や生活の話で交流がはじまる


 「市民の声」代表の菅野隆介さんとともに今後の支援の方針など語り合う床鍋委員長
  (「載せといて」と言われたから急きょ追加掲載しました)
 

 最後の店長の藤倉さんの言葉は、「東北の千年前の貞観の地震の後、18年後大阪にも大きな地震があったと聞いています。地震はどこで起きるかわからない。高田の今回の経験を大阪の地元でも生かしていただき、支援の輪も広げていただきたい」としめくくられました。

支援のつもりが逆ボランテイア、教えてもらいました
 私・名手の今回の陸前高田支援行動は、今日で終わりました。大阪を出発し、ちょうど1週間の行動でした。はじめての東北でしたが、1週間で地元の被災者の皆さんから、思い出したくない津波の話を含め、沢山のことを教えていただき、学ばせていただきました。支援のつもりで来たのに逆に「逆ボランテイア」されました。共同支援センターの藤倉店長が言われるように、大阪も、私の生まれた和歌山も決して他人事ではありません。箕面は津波被害は直接ないかもしれません。しかし、東南海・南海地震などで大阪市内は浸水します。被災、死亡する可能性、巻き込まれる可能性も多分にあるでしょう。箕面は断層が縦横に通る街です。防災対策を長期的に学んでゆく必要性も感じました。ありがとうございました。

1週間の東北・陸前高田支援行動で健康的に真っ黒になりました。


大阪と箕面からも息の長い支援を
 私は、公務の関係もあり、あす午前一足、早く新幹線で箕面に帰りますが、床鍋委員長は、20日までの茨木・豊能地区の担当期間を「全うして」帰られるそうです。大阪のメンバーがいま、岸和田から、摂津からと行き帰り立ち返りこの一関の宿舎と陸前高の共同支援センターにこられています。大阪と箕面のみなさんも全国から息の長い支援物資とともに、ボランテイアの派遣をおねがいします。8時25分 一関のボランテイア支援センターで。

●全国からの支援物資はここへ

岩手県陸前高田市鳴石42-5
陸前高田共同支援センター(日本共産党と「市民の声」共同運営)
携帯080-6051-5365
 今日の時点で、男性用ステテコ・ランニングシャツ
扇風機、仮設住宅入り口ののれんとポール、
網戸用網など必要、不足しています。


炎天下の中、駐車場案内、仮設住宅でも無料青空市 喜ばれる活動はうれしいね

2011年07月17日 21時02分00秒 | 日本共産党
7月17日(日)

 日曜日だが、今日も、一関のボランテイア宿舎を8時に出発、9時過ぎに、陸前高田市鳴石の共同 援センターに到着しました。
早速、もう慣れたもの・・・青空市の準備にかかり、市民の会会長・市議団長も参加して朝のあいさつの会、今日の行動の打ち合わせにはいりました。今日は、本部の青空市の運営と竹駒地域にできた新しい仮設住宅訪問を午前中おこないました。

 駐車場整理は重要な仕事
 私は、昨日、一昨日と訪問続きだったので、今日は本部の青空市の運営に残りました。店長(実は市議団長の息子さん)から言われた仕事は、車の出入りの安全確認、駐車場の整理でした。(店長はいつも事故がなくよかったと終りの会で発言されています。)青空市に来られる方々の一番初めの窓口役で、しかも、車を整理しながら「いっらしゃいませ」と安全に気持ちよく来てもらえるようにすること。お帰りの時も事故にならないように安心して出発してもらえ、「バックオーライ、お気をつけて」と最後のあいさつを交わしあうという大変重要な役割です。

炎天下の中、3時間30分
  炎天下の中10時から12時、そして昼休憩をはさんで12時30分から2時前まで約3時間30分、駐車場での案内をやり続けました。ここ岩手は、朝夜は比較的涼しくなるが、昼間は37度にもなる暑さ、暑さ対策は、水分補給と首にかけたタオルに水を少しずつかけて首筋を冷やすことTシャツまで濡れるくらいに。短パンでやったおかげで、出ていたふくらはぎが真っ赤に・・・・・。

頼りにされる青空市・共同支援センター
  朝から、沖縄から、佐川急便で扇風機が10個、その後もゆうパックで、直接車で支援物資が届きました。「お客さん」だけでなく、看板をみて、針灸のボランテイアはどこに行ったらいいの」「秋田からあいさつにきた」などの様々な方々が共同支援センターに訪れます。ひっきりなしに、青空市に市民の方々が出入りされます。ここの、場所がたよりにされていることがよくわかります。
時のはこのように、「○○さん生きてたのね」と出会いの場になっています。


仮設住宅でも無料青空市
 午後から、竹駒の新しい仮設住宅に、物資を集めて「訪問青空市」に出かけました。1週間前に民間の土地を借りてつくられた30個程度の仮設住宅で、午前中、泉大津市議3人と北福島地区の青年らが訪問、案内活動をおこなっていました。
 午後2時、シートを引きテントを張って、青空市の準備ができるや否や、住民さんが多数おとづれ、食器、急須、湯呑、サラ、コップ、米、洗剤、スポンジ、香取せんこう、ハエ叩きなど飛ぶように「もっと早く来てほしかった」「探していたの」「必要やわ」と持ち帰られました。

 住宅では「私は高田市内の海岸近くから津波でながされ、沈められ、浮き上がり瓦礫につかまり流されつづけ、急死に一生を得たのよ」と話される住民さんがおられ、見つかったアルバムをきれいに掃除されていました。

本当によく来てくれた、ありがとう
 逆に、ボランテイアにミネラルウオーターを配くれる方もいらっしゃいました。避難所で行われていたコミュニテイーが仮設ではなくなってしまった。さびしい。といわれる方もおられ、自治会長らしき人は、「集会所にもお茶を飲み集まれるために湯飲み急須が欲しい」といわれ、運びました。「広報で、この青空市のことも報告したい」とおっしゃられ、市民の会の会長と机や座布団、テレビの設置など今後の要望など懇談されました。30分程度の青空市でしたが、「本当によく来てくれた。ありがとう」と喜ばれる活動でした。


息の長い支援を
 3時、片付けをおこない、終りの会を例のように行いました。藤倉市議団長から、盛岡でのシンポジウムがあり参加したことを報告され、沢内村と陸前高田の支援の歴史について語られました。「1960年のチリ地震の時に高田が助けてもらい、その後の、冷害で沢内村が大変なときにこちらから支援をおこなった。支援活動は、息の長い取り組み、鳥羽市長も言っているように、今後も長い支援をお願いします」お願いされてしまいました。




昨日の続き、矢作地域の訪問聞き取り活動、津波の碑「低いところに住家を建てるな」

2011年07月16日 21時34分00秒 | 日本共産党
7月16日(土)
 7時起床、8時出発、9時20分、陸前高田市鳴石の共同支援センター着
 青空市の店開きの準備、10時から出発の打ち合わせ。
今日も、昨日の続き、矢作(やはぎ)地域の訪問聞き取り活動を和歌山と阪南・泉大津の支援部隊とともに行う。特に午前、午後とつづけて最も陸前高田の奥地、海から離れて、矢作町・二田野、三の戸地域を訪問し、午前・午後で17件と対話しました。

・この地域でも地震はあったが、家が壊れるような被害はなかった。しかし、市内の病院に勤めていた看護師さんがいまだに行方不明ということ。

・高田の家に息子と住んでいて、地震で消防職員の息子が帰って来ず、最後まで避難誘導や救援活動で行方不明のままだとうおばあさんにであった。「私は車に乗せてもらって、助かり3日、避難地に泊まり、実家の矢作にもどってきた。幹部の消防職員は息子入れて3人行方不明ということ。6月にとうとう死亡届だした、新聞にも名前でた。」とのことでした。悲しい話を淡々と話されました。


・奥地の村にも小さな商店があるが、パン工場からパンが入らず、煙草も品薄。店主のおばあさんは「週一回、花巻観光のバスが週一回大船渡と病院とマイヤー(スーパー)を無料で走ってくれている。8月15日まで」と教えてくれた。「アイス食べてゆきな」と御馳走してくれた。

買い物に行くのが車で隣町へ30分から40分かかる。大変というのがこの地域に人達の共通の要望だ。

会社が流され、仕事がなく、保育所に子どもあずけ職探しをしているという、3人の子供を抱えた若いお母さんにもあった。家も夫の仕事もあるのが幸いだが、女性の仕事がないのが悩みです。

・最後の訪問は、学校から帰った小学6年生が、私たちの訪問に「うちの人は留守」と言いながら答えてくれた。「学校が3つ統合になってスクールバス30分で通っている。友達が増えてうれしいと答えてくれました。地震や津波の話はしない」悲しくなるから?明日の陸前の町つくってゆくのは君たちだねと言うと、しっかりうなずいてくれた。6年生とは思えないくらいしっかりしていた。


 3時に共同支援センターに戻り、片付け、終りの会、和歌山と阪南の支援隊が帰り、代わりに、阪南は泉大津の市議3人、それに午後から北区の青年が合流した。支援の部隊は日々入れ替わり立ち替わりかわってゆく。

 終りの会の後、泉大津市議3人と大陽埼の昭和9年3月の津波の碑を見にゆきました。眼下に海。入り江が広がる地域です。

「津波を聞いたら慾捨て逃げろ」
「低いところに住家を建てるな」
「それ津波機敏に高所へ」
「地震があったら津波の用心」と四角形の柱にはしっかり書かれていました。その碑の教え通り、この碑より下の少し家は、一部、津波の被害を受け、下に離れ海に近付くにつれ家が壊滅的被害を受けていました。先人の知恵と教えはすごいと感心してしまいました。


碑の下側、海側は壊滅



 その後、子友地域の高田側と大船渡側の津波がぶつかった地域や、高田市内に戻り、市役所周辺の公共施設の被害の状況を改めて見て回りました。
ぐちゃぐちゃにつぶれた市役所2階

いつもより少し遅めで一関のボランテイア宿舎に戻りました。


市民の力は、決して津波で流されていない 山間部の矢作(やはぎ)地区に要望聞き取り対話活動

2011年07月15日 20時11分00秒 | 日本共産党
7月15日(金)

市民の力は、決して津波で流されていない
山間部の矢作(やはぎ)地区に要望聞き取り対話活動


7時 起き  近所のコンビニで朝食
8時 一関市 宿泊所 ボランテイア支援センター出発
7時30分から 一関地域の県議候補高田一郎氏が交差点で朝の演説を行っていた。9月の選挙にむけもう本番。
 

9時30分  陸前高田市共同支援ボランテイアセンター着  センター青空市の店準備。

9時40分から 朝の集会  
今日は、床鍋委員長が指示だしの責任者。昨日の海沿い、津波の「最前線」で甚大な被害を受けた気仙町とは「反対」の山間部に、和歌山、阪南の党の支援者とともに、班に分かれて訪問に入りました。


津波の被害はなく、地震の被害もどれくらいだろう?被害は少ないのでは?あまり、お話ができないのでは?という。不安を持ちながらの地域への対話訪問でした。

陸前高田市、市街地より約車で15分、距離で約20キロメートル山間部の矢作(やはぎ)地区に要望聞き取り対話活動をしました。 
私と床鍋委員長の訪問は、午前中は、農作業中か?留守も多く、2人と対話ができた。

・年配の男性  地震で家の被害はなかった。地震発生時、高田市内の民商の事務所となりの碁会所にいた。大きな揺れで危ないと感じ、車で緊急に脱出、道はまだすいていた。矢作の家に戻ると、電気が途絶え、ラジオで高田が大変なことになっていることを知った。
被害はないと言いながら、友人知人、ご親戚は?と聞くと、知人、親戚が行方不明がいる。と答え、今は何も要望はないが。藤倉さん(地元共産党市議)がよく来てくれる。と言った。

・88歳のおばあちゃん。私は家にいて大丈夫だった。津波で近所のおばあさんや孫さんが行方不明でまだ見つかっていない。高田の瓦礫の状態見て、「もう諦めた」と言っていたが、なんて声をかけていいのか、「いつか見つかるから」といって励ましている。家族のことで「瓦礫の下でどこでどうなっているのか」と思うと、警視庁の車が行き交うだけで心がつぶれる思い。と話してくれました。「津波はここまできた」という、「昔の人の知恵を生かさないといけない。」と。
「ここ矢作でも停電が10日ほどつづき、ガスも残り少なく、高田があんな状態だから、補給の見通しもないし、木炭、練炭だしあって助け合ってしばらく暮らした。ローソクが大事だった。
私も、高田や大船渡の病院に通っていた。介護も必要だが、震災後はつぶれていけなくなった。今は近くの診療所だけが頼り。大変な人たちがいっぱいあるなか、生きてるうちに工夫してやっていって、どうにかこうにかやれている。」謙虚に話されました。


コンビニ弁当を食べて、昼食後、午後から、引き続き、地域訪問に出かけました。

・息子の仕事場が津波で壊され、車で戻ったが、消防団で再び救援に向かった。何日も泊まり込みで救援活動を続けた。しばらく収入がなくなった。
・息子は仕事が高田でなくなり遠くに単身で出稼ぎに出なければならなくなった。
・村唯一つの電気店では、「ここ矢作でも地震後10日間くらい停電した、ローソクが急に必要になり、近所ので電気店にローソクはないのかと問い合わせが殺到した」と笑いなばし?も話してくれた。
・高田の大型スーパーや店が壊滅し、買い物に困っている、遠く20キロ離れた一関市大東町までいっている、数度の行ったり、来たりは大変、早く高田の近所のスーパーが開店してくれることを望む。


 津波被害から遠く離れた、この村でも、仕事、介護、医療、買い物など様々な影響が出ていることがわかりました。


 「高田の共同支援センターでは、全国の物資を集め提供するとともに、こうしてボランテイアを派遣して、地域の皆さんの要望を受け止め、議員や市に届けています」と話すと涙ぐみ、「全国の皆さんや世界の皆さんに感謝します」とおっしゃられました。
帰りに和歌山の支援隊からのバレイシャオレンジを3個差し上げ、冷やしてお召し上がりくださいと、言うと「珍しいものをありがとう」「子供3人にたべさせます」と喜ばれました。

 急いで、高田の共同支援センターにもどり、片付けと、終りの会を行いました。班からも支援の内容、対話の内容が語られましたが、藤倉市議団長から「4カ月日本共産党と市民の会の力を合わせて、復興活動をおこなってきた。市民の力は、決して津波で流されていない」と力強く語られました。


4時 活動を終了し、約1時間半かけ一関の支援ボランテイア宿舎に帰りました。


被災地訪問活動と「草刈り」

2011年07月14日 19時54分00秒 | 日本共産党
7月14日(木)
6時30分起床
7時出発
  約1時間半かけ移動
9時 陸前高田市日本共産党・市民の会共同支援センター着
9時30分 テントたてや青空市の物品並べなど準備。今日から大阪の支援隊が一部帰り、和歌山の支援隊が新たに参加。和歌山の支援隊は陸前高田市議団長から説明をうける。

午前10時から地域訪問にはいりました。和歌山と大阪から来ている支援隊で陸前高田市の南の端にあたる気仙町二日市(ふつかいち)の小さい港に訪問活動。
海側から津波が襲い、中腹まで壊滅状態、多くは高台に避難しましたが、いったん避難した方が欲しいもの探しに家に取りにもどり亡くなった方もいるといいます。

海を見下ろす高台でおばあちゃんの話をうかがう


海側からの写真


10数件訪問。5件と対話。
数班に分かれて気仙町にはいりました。床鍋委員長と名手は、海岸近い一番被害のひどい地域から高台へと順に訪問しました。
山側からの写真


・一階の天井まで水が来て今は2階で暮らす。1階は修理工事中。下の海沿い瓦礫がいまだに残り、ハエが大量にあがってきて困っている。ペットボトルのハエ対策装置にはハエがいっぱい入っていました。

・海沿いの父の工場がつぶれて働く場がない。親戚10数人が亡くなった。私も、大船渡で水産加工の仕事をしていたが、工場は流された。仕事がない。父の船が流され漁業ができない。「エゾイシカゲガイ」の養殖をやっていたがそれもながされた。今、仕事がない。できないのが一番の困ったこと。

・姉が被災して、80歳なので点滴をうったりで仮設住宅での一人暮らしでは生活が困難なため、私の住宅にプレハブを作り引き取ったが一切公的支援がなかった。仮設へ入り、普通に1人で生活できたら問題ないがそうできない人への支援があるべき。
などなどご要望をいただきました。一人暮らしのおばあちゃんに合い津波の様子や家族のことをお聞きしました。

午後から
共同支援センターの周りの草が伸びてきたので、草刈りをしました。草刈り機がうまく動かず、鎌と手でちぎりとりました。その後、午前中の、気仙町のお宅で草刈りの要望が出ていた理容店の周りの草刈りを和歌山の支援隊が行っているのを手伝う。ほとんど終わっていたので、しっかりお礼のアイスをいただきました。
また、「ハエ対策を」の要望にこたえて、ハエ取り紙と蠅たたきをとどけていただきました。
気仙町に移動する手前で海沿いにあった市立気仙中学校が全壊 生徒は大丈夫だったの?


 3時過ぎから青空市の物品などあとかたづけ、3時30分から 市議団長、事務局長も入り1日の報告や交流が約30分行われ4時過ぎに解散しました。


 一関の共同宿舎にもどる途中、いつもの風呂場が休みのため、今日は一関簡保の宿まで足を延ばし一日の汗をおとして帰りました。警視庁の宿舎になっており、警察の部隊が帰ってきていました。夕食を帰りの店で済ませ、現在、一関の両磐地区共同支援センターでブログの仕上げをしました。
 明日もまた、朝9時半から陸前高田市に入りボランテイア活動をします。