『東京の坂、日本の坂』その164。志村周辺の坂道①、志村周辺の坂を巡るために都営地下鉄三田線志村坂上駅で下車した。
ちなみに『◯◯坂上』という駅は全国に5ヶ所(うち1つは坂上駅、岐阜県飛騨市にあるJR高山本線)ある。赤坂上駅・上田交通別所線(長野県)、東田坂上駅・豊橋鉄道東田本線(愛知県)、中野坂上駅・東京メトロ丸の内線、志村坂上駅・都営地下鉄三田線となる。
志村坂上駅の前身は都電18系統(神田橋〜白山上〜巣鴨車庫前〜志村坂上)と41系統(巣鴨車庫前〜志村坂上〜志村橋)の志村坂上停留所である。
まずは駅の後側に出て少し行くと『一里塚』がある。一里塚は徳川家康が1604年に日本橋から一里ごとに5間四方、高さ1丈の塚を向かい合わせで2基ずつ作らせた。志村の一里塚は日本橋、本郷森川宿、板橋平尾宿につぐ3つ目のものである。
この一里塚は昭和8年から開始された新中山道工事の際に周囲の石積み工事がなされ、現在にもその姿をのこしている。
次に志村坂上交差点の方に歩く。前を通る国道17号線が『志村坂』であり、ここから550mの緩い下り坂が続く。
志村坂上交番を真ん中にして左に道が別れていくのが旧中山道である。少し歩くと富士・大山道の道標と庚申塔。
左側の小さな道標には『これより大山道、并(ならび)にねりま川こへ(越)みち』、右側の庚申塔には『これより富士山大山道』とある。
道標の前に立派な石でできた『清水坂』という石柱がある。くねくねと曲がって下る坂で左右には住宅が広がっている。江戸時代は日本橋を旅立ち旧中山道での最初の難所として知られていた坂道。
名前は隠岐殿坂→地蔵坂→清水坂と時代とともに変わって行った。坂の名前の由来は坂下の大善寺に清水薬師如来があり、清水が湧き出していたためである。下ったところに石柱、さらに案内板がある。(以下、次回)