サブカル好きの読者なら、小林信彦を知らないはずがない。該博な知識と確かな批評眼。特に映画、落語、ミステリ……つまり芸に関して、彼の存在を無視して批評をかます勇気ある評論家はまずいないだろう。それほどに、彼は“権威”になりおおせている。
ところが、本人の気持ちのなかには、若い頃にマスコミの寵児だった時代(ひところの秋元康かいとうせいこうみたいな存在だった)が脈々と息づいているようで、だから若い者たちへの対抗心から奇矯なふるまいに出ることもある。有名なのが雑誌「ロッキングオン」の松村雄策との間でくり広げられたビートルズ論争。91年、小林の「ミート・ザ・ビートルズ」という作品のなかに、考証上おかしな点がいくつかあると指摘した松村に彼は激高。「半狂人」あつかいした文を発表したりしている。以降は反論につぐ反論の嵐。
まあ言ってみれば子どものケンカみたいなものだったのだが、ロッキングオンの読者だったわたしはどちらかと言えば松村に軍配をあげていた。オヨヨシリーズから読み始め、文体から考え方まですっかり影響をうけていたわたしの“小林離れ”が始まったのもこのころだ。しかし週刊文春に「人生は五十一から」という連載を開始し、きわめてまっとうな政治観を披瀝し始めてから、またしても小林熱再発。この人、やっぱりコラムの天才だ。
※画像は、ひょっとしたら小林の最高傑作かもしれない「パパは神様じゃない」。日本のコラム、というものの方向性を決定づけたのではないか。
上巻はこちら。
こんなオキテ破りな設定だからこそ、クドカンは過激なネタを笑いで上手にラッピングして視聴者に提供している。
典型的なシーンがある。向かいのクリーニング屋の亭主はEDに悩んでおり、妻(池津祥子好演!)は彼の愛情を確かめるために主婦の家に“一時的に失踪”する。彼女が二階から夫の様子をうかがうと……
「『ウォーリーをさがせ!』やってるよ!あいつ女房さがさないでウォーリーさがしてるよ!」
こんなギャグで、性的不能者をお昼の時間帯に登場させることの不自然さを微塵も感じさせない。
昼メロ王道の嫁姑の確執についてもみごとなギャグが用意されている。竹下景子の姑は、嫁のみどり(斉藤由貴)を常に絶賛する。
「すごいわみどりさん!あなたは嫁の天才よっ!」あるいは
「すごいわみどりさん!まるで生まれたときから嫁だったみたい!」対して嫁は
「お義母さんこそ生まれたときから姑だったみたいですっ!」
「……え。」
わははは、笑ったなあ。もっと深刻なネタも、みごとなセリフで娯楽にしてみせる。中学生である娘の、友だちとの会話は……
「親ってさぁ、エッチしててもうざいけど、してなくても困るよねえ」
そんなミもフタもないことを(T_T)
「インターネットで自分の名前で検索するのって、嫌な気持ちになるのがわかりきってるのに、やめられないんだよねー」
これはクドカンの本音なんでしょうね。
全40回のうち、前半は(たとえば「奥様は魔女」みたいな)アメリカのシチュエーションコメディをモデルに設定の妙で見せ、後半は意識して破壊的なギャグを増加させたようだ(視聴率がふるわないので試行錯誤の結果だったのかも)。漱石の「こころ」を引き合いに、終盤は遺書だけでストーリーを展開する荒業も見せ、最後にホロリと泣かせてドラマは終わる。DVD8枚の至福。ぜひおためしを。