その1はこちら。
「実録・連合赤軍」は、ナレーターの原田芳雄(監督の若松孝二とはいいコンビ)の、懇切丁寧な現代史の解説が入るのでそれだけでも面白いのだが、連合赤軍の不幸は、この組織がまさしく“連合”であったあたりにある。若い読者は背景がわからないだろうからちょっと解説します。
60年安保闘争の敗北後(岸信介の退陣などのおまけはあったが)、学生運動は既成政党である社会党や共産党と離れ、分裂をくりかえす。明治大学を拠点にした共産主義者同盟(通称ブント)が、中核派、解放派などと手を組んだのが三派系全学連。この、いわゆる全学連が学生運動の中心となっていく。
東大安田講堂の攻防、新宿騒乱など、60年代末に学生運動が盛りあがるなか、ブント内部で塩見孝也が主導する関西派が【赤軍派】を形成する。が、彼らは大菩薩峠で軍事訓練中に主要幹部が検挙されてしまう(まるでお遊びのような訓練なのが学生の“気分”をよくあらわしている)。残ったメンバーのうち、重信房子はレバノンに脱出し、田宮高麿らはよど号をハイジャックして北朝鮮に渡る。
主力を欠いた赤軍派の中心となったのが森恒夫。彼は初期の闘争の際に、おびえて脱走した過去があったことが描かれる。つまり、臆病者だったがゆえに、過度に力強いリーダーを演じなければならないあたりが悲劇の伏線だと若松はわかりやすく語っている。この、いわば弱体化した彼ら赤軍派と、文化大革命に同調する革命左派(リーダーは永田洋子)が手を組んだのが“連合”赤軍だったのだ。
悲劇の発端が“水筒”だったことはよく知られている。赤軍派と革命左派が群馬県の山中で合同山岳軍事訓練を行うときに、永田洋子ひきいる革命左派の方が水筒を用意していなかったことを赤軍派に批判される。永田はこう思ったはずだ。「山岳訓練ではこちらの方に一日の長があったはずなのに、こんなことで赤軍派におくれをとってしまうなんて」と。ささいなミスを取り返すために、プライドの高い彼女はメンバーのどんな失点も見逃さず、どんどん訓練は過激になっていく。そんなきわどい連合の行き着いた果てが、あの『総括』だった。以下次号。