三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

自分で考えない有権者たち

2016年07月11日 | 政治・社会・会社

テレビ東京の参議院議員選挙開票特別番組で、キャスターの池上彰が自民党議員の小泉進次郎の演説の様子を取材した場面があった。秋田県での演説だ。

演説の内容は、少子化についての話で、少子化は止めようがない現象だから、人口が少なくなっても豊かな生活を公正に引き継ぐための工夫を考えることが必要だという至極まともな内容だった。そして聞いていたおばさんたちは、話がわかりやすい、地元のことをよく知っているなど、感心していた。おそらく自民党に投票したのだろう。街宣車の演説台に上げられた若者も、野党に投票するつもりだったが進次郎の話を聞いて自民党に投票すると答えていた。
しかし、参院選の目的のひとつは、現政権についての是非を問うものである。現政権の政策はアベノミクスと呼ばれる経済政策であり、戦争法案をはじめとする憲法改正である。進次郎の話は、池上彰の解説によるとアベノミクスを真っ向から否定するものだ。にもかかわらず進次郎の演説を聞いた有権者は、参院選の目的も意義も何もわかっていないままに自民党に投票した。

小泉進次郎の動きは池上解説によれば権力への野望が原動力で、東京五輪後に総理大臣を狙っているという。自民党を勝たせようという目的ではなく、各候補者に恩を売って、党内での人脈を築き上げるのが目的で、将来の総裁選への布石としていると解説していた。
池上解説が正しいかどうかは別にして、進次郎の演説の内容と参院選の争点はまったく無関係であることは確かだ。しかし演説を聞いた有権者は自民党に投票する。どうしてそうなるのか。
池上彰はそこにまでは踏み込んでいなかったが、要するに日本人のミーハー気質と、自分でものを考えない国民性が、今の政治を作ってきたのだ。有権者の投票の直接の動機は、政策の比較などではない。

人気者で見た目がいい
握手してもらった
わざわざ辺鄙な田舎に来てくれた
候補者が親戚だ
職場で投票するように言われた

実は有権者の投票動機はこんなものだ。アベノミクスが成功したのか、失敗だったのか、憲法を改正すべきなのか菜度について、深く考察して投票する有権者の割合は非常に少ないと推測される。

戦争を実体験として記憶している人は非常に少なくなっている。戦争の恐ろしさを知る人がいなくなるということだ。戦争を知らない者たちが共同体の美学や大義名分の言葉の響きのよさに酔いしれて戦争する国にしようとしている。日本会議をはじめとする右翼思想の人間たちだ。ダッカで日本人が殺されたのは日本会議を後ろ盾にした安倍晋三の演説が原因である。テロに屈しないと勇ましく演説すれば、ミーハーな日本国民受けはするだろう。しかし大人の政治家が話すべき内容ではなかった。テロが起きる原因、テロ集団の目的、地政学的な分析など、必要な情報はまだまだ十分ではない。宗教が原因でテロが起きると単純に決めつけるのは単細胞のドナルド・トランプだけにしてもらいたい。
衣食足りて礼節を知るという中国の諺は常に正しい。テロの原因も元はといえば貧しい暮らしと迫害である。宗教が原因ではない。テロが起きないようにするためには世界レベルでの格差対策が必要なのだ。

日本国内でも、格差が顕著になってきている。にもかかわらず安倍自民党が選挙で圧勝するのは、国家という共同体を客観的に分析する思考回路が欠如しているからである。


不倫バッシングの精神構造

2016年07月10日 | 政治・社会・会社

今年はレベッカ・レイボーンとゲスの極みのボーカルにはじまり、桂文枝や円楽といった落語家に至るまで、様々な不倫報道があった。騒がれた人たちについてはまったく興味がないが、騒ぐ人たちがなぜ騒ぐのかがよくわからない。低俗マスコミがテレビで取り上げるから騒がれているような気がしているだけなのか。アンケートやインタビューなどを見ると、本人たちを責める回答が多く見受けられる。バッシングはまだ続いているようだ。

それぞれの当事者たちの対応について、レベッカが謝罪のときに嘘をついていたのは失敗だとか、円楽は堂々と認めたうえに落語家らしく洒落のめしてうまくやったとか、要するに、上手な謝罪のテクニックについてみたいな話があった。その一方で、いまだに不倫そのものを非難し続けている者たちもいる。レベッカがスカパーで復帰した途端に「地上波にはくるな!」といった批判がインターネット上に相次いだようだ。

そもそも、他人の不倫を咎め立てする動機は一体どういうものなのだろうか。そういう人間たちは、他人の不倫によって自分が一体どんな迷惑を被ったというのか。「騙された」という主張をする者もいるかもしれないが、それは子供の主張だ。そもそもテレビに出ている人たちの発言をそのまま信じるのは、成熟していない単純な子供の精神構造といってよい。「騙された」のは視聴者としての成熟度が不足しているから勝手に騙されただけであって、被害を受けた訳ではない。
もし仮にそういう低レベルの視聴者がいたとしても、彼らは怒りを覚えるか、失望するだけであって、批判や非難には至らない。批判したり非難したりするには、物事に対して客観的な見方ができる必要があるからだ。

ということは、他人の不倫を非難する人間は、他人を非難することが嬉しかったり気分が晴れたりするから非難するのだと考えられる。要するにハラスメントである。ハラスメントを行う人間の心理は、欲求不満を弱い相手にぶつけ、相手の人格が崩壊するのを見て満足したり、同様に非難している者たちやワイドショーマスコミなどから自分の主張が賛同を得ることで、承認欲求を満たすというものだ。非難する基準は自分の思想ではなく、非常に一般的な道徳や倫理である。道徳や倫理は世間的には守るべき規範であり、正義である。正義の味方の立場でものを言うのは簡単なことだし、精神的な負担もない。所謂正論というやつだ。正論を笠に着て弱い人間を非難するのがハラスメントである。

他人の不倫を非難する者たちは、不倫が悪だと信じて疑わない。そういう人間は絶対に不倫しないかというと、必ずしもそうとは言えない。罪悪感を感じながら不倫することになる。不倫を悪だと思わない人は、罪悪感なしに不倫をする。落語家の不倫はこちらか。

赤の他人の不倫が自分の迷惑にならないことを考えれば、他人の不倫を非難することが実は理不尽な行為であり、非道徳的であることを認識しなければならない。再度振り返って、不倫というものがどうして悪とされているかを考える必要がある。それは共同体の都合である。誰彼構わず自由に子供を作られると、共同体が個人を管理するのに都合が悪いのだ。だから結婚制度を定め、この子供は誰の子供という風に届出をさせ、親に義務を課して将来の労働力として管理をする。それが封建時代に家長制度と結びついて、亭主の権限を維持するために間男という言葉が生まれ、それを悪として三行半が書けるようになった。
江戸時代の行政による洗脳が現代まで続いている訳で、不倫という観念は比較的新しい考え方だ。相対化が可能なひとつの思想であって、絶対的な真理ではないのだ。にもかかわらず、不倫は悪だと盲目的に信じている日本国民のなんと多いことか。不倫が悪だという根拠は、共同体の都合以外には実は何もないのだ。自由な個人は自由に不倫をする。日本よりも個人の精神的自由度が高いとされるフランスでは、不倫が非難されることはない。
他人の不倫を非難する行為は、実はヘイトスピーチを行なう連中と同一なのである。彼らは外国人や来日二世三世を排斥しようとするが、その行為の正当性についてのエビデンスは何もない。共同体の都合を自分の主張と同一化しているだけだ。

正論を振りかざして他人を村八分にすることは道徳ではない。道徳は他人に何かを強制したり、従わない人間を非難したり排斥したりするものではなく、自分自身の行為に対する自省なのだ。自省も考察もなく、安易に他人を非難する精神性は、子供そのものである。いじめっ子の精神構造である。それが日本中に蔓延し、いまや猖獗を極めている。そのうち、日本人全員が何らかのハラスメントの加害者になる可能性がある。そして誰もがその被害者になる可能性がある。

もしかして、すでにそうなっているのかもしれない。


医療はどこまで必要なのか?

2016年07月05日 | 政治・社会・会社

15年位前に、歯が非常に痛んで歯科に通ったことがあった。数本の歯を抜いて処置し、痛みは治まったが、それからも心配で数ヶ月に一度、定期的にクリーニングなどの処置をしてもらっている。世の中に歯科があることはとても大切だ。医科歯科大学という学校があるように、医者の中でも歯科医は特別に需要があるので別枠となっている。
歯科医の大きな役割は、患者の痛みを取り除くことだ。痛くても我慢しろという歯科医はいない。抜歯すると数時間に亘って痛みが続くので、頓服をくれる。最近は抜歯するときも痛みがないような細い針の麻酔を使うし、抜いた後もあまり痛まない。歯痛は耐えがたい痛みなので、歯医者は地域に不可欠だ。

しかし歯医者以外の医者は、姿勢が違うように思える。十年以上前に腰痛で広尾の日赤医療センターに数年間通院していた。よく担当の医師が交代する病院で、数年間に3人の医師の診断を受けた。いずれの医師からも、手術しても完全によくはならない、日常生活に大きな不自由がないなら保存療法をすすめる、痛くても歩いたほうがいい、という説明を受けた。そして結局腰痛はちっとも改善せず、通院するのをやめた。通院しなくなってからのほうが、腰痛が楽になった気がしている。

たとえば酷い歯痛が少しも治らないままに数年間も数十年間も生き続けなければならないとしたら、それは文字通り死んだほうがましだ。耐え難い痛みを感じながら生きるくらいなら、命なんていらないのが人間の本音である。映画や小説で拷問シーンがあると拷問者が「そのうち耐えられなくなって、殺してくれと懇願するだろう」と脅す場面があるが、あれは真実だろう。自分の人生を拷問のように感じている人は、拷問を受けなくても殺して欲しいと願っている。

胃瘻という処置がある。嚥下困難な患者に対して胃に直接栄養物を補給する処置だ。これがなんとも情けない。そこまでして延命しなければならないのか。嚥下困難な症状が治ったら胃瘻を外せるのだろうが、それでも嫌だ。
医学会には救命延命至上主義というものがあって、そのために患者の苦痛や尊厳が無視されている。それは患者の希望ではなく、医者の独善だ。
加えて製薬会社の損益に関する忖度がある。製薬会社がなければ現代の医学は成り立たないのだから、医者と薬屋が互いに依存するのはやむを得ないが、その相互依存の状態から、利益のために癒着になるのは非常に容易である。法規や規範がないので飛越すべき壁などない。

厚生労働省によると日本人の健康寿命と平均寿命の差は男性で9.13歳、女性が12.68歳となっている。つまり寝たきりの年数だ。この年数だけ、医療費がかかるし、家族の介護労力もかかる。
医者が延命をしなければとっくに死んでいていいし、不健康で不自由で苦痛の状態で9年以上も生きるのは、本人にとって不幸以外の何物でもない。不健康で不自由で苦痛のある人は、早く死にたいのだ。無理やり生かしている医療は、一体何のためなのか。製薬会社の利益追求、製薬会社と厚生労働省の贈収賄、製薬会社と医者の癒着といった言葉が次々に頭に浮かぶ。 


厚顔無恥の都庁職員と偽装の菓子屋

2016年06月18日 | 政治・社会・会社

都知事の舛添が辞任することになった。都議会での舛添の「不信任案が可決されたら辞職するか議会を解散するかになり、いずれにしても選挙になる」という発言から、やけくそで都議会を解散するものだとばかり思っていたので、発言の翌日の自発的な辞任は意外だった。参院選とオリンピックを控えたこの時期で、政治的には各団体の様々な思惑が交錯し、いろいろな方向から相当の圧力がかかっていたことだろう。

どんな圧力がかかったのかは不明だが、脅迫めいた接触があったのは間違いない。自民党をはじめとした他の政治家が一番恐れているのは、舛添による内情の暴露だ。特に東京オリンピックは利権まみれだから、内実がぶちまけられてしまうと、困るのは森喜朗をはじめとする悪徳私腹集団であり、電通をはじめとするハイエナ企業集団である。そのあたりを中心に、何も言わずに辞めろという圧力が舛添を締め付けたであろうことは想像に難くない。きれいごとの理由で辞めたとは誰も思わないだろうが、想像以上に腐った構造が今回の都知事辞任の背景にある。

選挙のときに舛添をテレビや新聞で応援していた人たちが、手の平を返したように「あんな人だと思わなかった」と言って批判しているのは前に書いた。自分で応援し、投票しておきながら、その責任を回避する発言だ。それらの人々の責任について言及する人はいたが、とことん追及するスタンスではない。

そして誰も言及さえしないのが、都税を使い放題にしていた舛添を補佐していた都庁職員の責任だ。舛添はたしかに無用のファーストクラスに乗っていたかもしれないが、都庁職員だって幹部はビジネスクラスに乗っていたのだ。その連中が、舛添を批判する。明らかに天に唾なのに、マスコミが報じないから唾が本人に降りかからず、のうのうと都民税が原資である給料を受け取っている。舛添も都庁の幹部職員も同じ穴の狢なのだ。辞任すべきは舛添だけではない。

舛添が配ったとされる菓子を製造した大藤という菓子屋も酷いものである。安倍の饅頭を作ったりして、権力に擦り寄る無節操な会社だ。以前には食品偽装で騒がれたこともある。かつては小泉の饅頭や谷垣の饅頭も売っていた。自民党の応援団でもある。こんなものを買うのは無知で馬鹿な人間にしかいないが、この会社は国民が無知で馬鹿ばかりだと高をくくっているに違いない。実際に売れていたことが本当に情けない。

国家という共同体を大義と考える無知蒙昧な人間の集まりが人類だ。共同体を意のままにしたいと願う権力亡者と、そのおこぼれで儲けようとする金の亡者と、支配されたがる無知な国民というのが、この国の本質的な構造だ。過去もそうだし、現在もそうだ。そしてこれからも変わらない。日本には断じて未来などない。


舛添はトカゲの尻尾

2016年06月06日 | 政治・社会・会社

都知事の舛添が連日のように責められている。やったことは確かにせこい。都民の税金を何だと思っているのだとは誰もが思うだろう。
しかし責めている側の論調に、何かがすっぽり抜け落ちているような違和感がある。それが今日報道された辞め検弁護士の話で明らかになった。
政治資金の使い道はすべて違法ではないという。そして論点はすぐに、違法でなければいいのかという話になっていく。ちょっと待っていただきたい。政治資金の原資は言うまでもなく国税や地方税だ。もともと国民のお金なのだ。それをどう使おうが違法ではないという、そのことが実は問題ではないのか。
政治家は誰もその論点に触れない。当たり前だ。天に唾で、政治資金の使い道を制限する法令を作る提案などをしてしまったら、自分自身も政治資金を自由に使えなくなる。今回の件は気の毒な舛添がさらし者になってしまったので、可哀想だが犠牲になってもらって幕引きにしようという態度である。
権力がよくやるごまかしで、構造的な問題なのに、個別の運用の問題にする。そして洞察力の欠如した国民は、舛添だけを責めて溜飲を下げる。国を挙げてバカ丸出しだ。政治家と報道と、国民が一緒になってトカゲの尻尾きりをしたのが今回の件の本質だ。

報道も政治家を気遣っているのか、政治資金の私的流用が違法でないことを問題視しない。これが悪名高き日本語「忖度」というやつなのか。政治資金規正法の条文をひとつひとつ挙げて問題点を明らかにする気骨のあるジャーナリストはもはやいない。気骨という言葉はすでに死語なのかもしれない。権力に逆らう報道をする者さえいない。ジャーナリストという言葉も同様に死語なのかもしれない。

政治資金規正法がザル法であり続ける限り、第二第三の舛添どころか、千人も万人も舛添が出続けるだろう。すでに現在の政治家のほとんどが舛添予備軍だ。発覚していないだけの話である。

このような腐敗の構造を一掃しようという者は誰もいない。この国は中央の政治家から地方の子供たちまで、大きなことから些細なことまでコネクションを利用したがる人間ばかりで、誰もそのコネクションを放棄しようとは思わない。国の隅々まで、腐敗の構造にどっぷり浸っているのがこの国なのだ。


本当に見つかってよかったのか

2016年06月04日 | 政治・社会・会社

北海道で置き去りにされていた男の子が無事に見つかった。

テレビや新聞は無事でよかったの大合唱だ。報道され始めた最初から、早く見つかってほしいの大合唱だったから当然の話ではある。テレビの評論家も捜索している人も子供の家族もみな、早く見つかってほしいと口をそろえていた。驚いたことに、海外でもこのニュースは報道されていたらしい。

しかし最初から違和感があった。彼らは本当に見つかってほしいと思っていたのだろうか。見ず知らずの子供が死んだり行方不明になったからといって、どこまで同情するだろうか。「へえ」と言って終わりではないか。報道されて名前を知ったから、そこに僅かな愛着(執著)が生まれたために早く見つかればいいとなんとなく感じているだけなのだ。他人の猫や野良猫が死んでもちっとも悲しくない人も、自分の飼い猫が死んだら死ぬほど泣く。
この心理は報道の側にもある。海外で大量死亡事故があると必ず報告されるのが、乗客には日本人はいなかったという話だ。そうか日本人はいなかったのか、よかったねとでも言いたいのか。事故で死んだ外国人の家族がその報道を聞いたら、おそらく不快感を感じるだろう。

子供は世界中で毎日たくさん死んでいる。虐待で殺されたり、重労働で死んだり、または爆撃や銃撃で死んだりしている。日本でも毎日死んでいる。親に殺されたり、同級生に殺されたり、交通事故で死んだりする。自殺する子供も多い。日本の自殺者数の50人に一人は未成年だそうだ。日本における年間の実際の自殺者数は警察庁の発表の約2倍の6万人ほどだから、未成年者の自殺は年間で1,200人。毎日3人以上が自殺している訳だ。
世界の紛争地域で死んでいる子供たちの数となると、想像もつかない。

今回、子供が無事でよかったと発言している人たちは、世界中で毎日死んでいる子供たちについては多分何も考えていない。知らないからわからないのだ。知っていることだけに感情が動く。当然のことなのかもしれないが、本当にそれでいいのか。

今日も世界中で無名の子供たちが、理不尽に死んでいる。そのことに思いを馳せる者は誰もいない。


大和という名前の子供

2016年06月01日 | 政治・社会・会社

自分の子供に大和=ヤマトと名づける親のメンタリティはどのようであろうか。

大和とは日本という国のことだ。日本は魏志倭人伝の昔から倭の国であり、倭はヤマトとも読む。ヤマトタケルノミコトを漢字で書くと日本武尊だ。和の一文字でもヤマトと読む。和と書いてヤマトと読む名前の高橋という将棋の女流棋士がいた記憶がある。大日本帝国と同じように、和に大をつけたのが大和で、大は自尊の接頭語と考えられる。日本はすごいのだ、という自己陶酔型のナショナリズムの表れが大和である。そういえば中曽根大勲位なんてのもいたな。あれがどうして「大」勲位なのか意味不明だが、政治家のお手盛りで叙勲されたと考えれば合点がいく。大江健三郎は文化勲章を拒否した。

ほとんどの人間は国家や地域という共同体に精神的に依存している。共同体に精神的に依存するというのは、自分で物事を考えて価値観を会得するのではなく、共同体の価値観に降伏することだ。降伏するというのは人間にとって面白くない事態だが、本人に降伏しているという自覚がなければ不快感はない。そして子供にヤマトという名前をつけるのはそういう人間が親になったときだ。

共同体に魂を売ってしまった人間にとっては、共同体に認められることが生きがいとなる。会社や役所や団体の中で出世したり、スポーツや文化、芸術で認められたりすることだ。共同体の価値観の中で生きている限り、何の迷いもなく生きていける。そういう人間の子供が、共同体のルールに従わない行動をしたらどうするか。ヒステリックに子供を殴打するだろう。または押入れに閉じ込めたり、あるいは森の中に置き去りにするかもしれない。共同体の中での自己保身のためだ。

そして子供が死んだり、行方不明になったら世間は親を非難する。親の資格がないとか、酷い仕打ちだとか言って責める。非難する人間たちも共同体の価値観に蹂躙されているのだが、生憎彼らにはその自覚がない。非難される親も、非難する世間の人間も、実は同じ穴の狢なのだ。

北海道で親に置き去りにされて行方不明になった子供の名前も大和くんだ。親としての無条件の愛情よりも、共同体の価値観を優先して子供に接した結果、反抗的な子供に育ったことは容易に推測できる。もし戻ってきても、大和くんのせいで共同体から非難を浴びた親は、自分のしたことを棚にあげて子供を責め続けるだろう。大和くんが中学生くらいになったら、そんな親を殺してしまうかもしれない。そういう事件はいたるところで起きている。

日本という共同体に精神的に依存している国民だから、こういうことが起きる。自分は自分、共同体は共同体、そして子供は子供として、それぞれの存在に対して客観的な見方や接し方をすることは、日本人には百万年経っても無理だろう。これからも子供は、親の共同体に対する自己保身のために人権を蹂躙される。そしてそういう子供が、自分がされたと同じように子供を蹂躙するのだ。いつまでもこのループが続くのが、この日本という国である。


舛添に投票した都民の責任

2016年05月23日 | 政治・社会・会社

政治資金の使い道のことで舛添都知事が責任を追及されていますが、都知事が政治資金を不正に使用したのは石原慎太郎のときからずっと続いていることです。石原は在任中にそのことが指摘されたにもかかわらず、知事選では再選されました。得票数は大差の圧勝でした。
舛添も大差の得票数で都知事選で圧勝し、選出されました。選出したのは東京都の有権者です。当然有権者に責任があります。しかしテレビのコメンテーターの中には「私もこの人に投票したけど、こんな人だとは知らなかった」と言っている人がたくさんいます。もっともらしく聞こえますが、言い訳であり、有権者としての責任転嫁にほかなりません。

たとえば結婚した後で相手の欠点がわかることがあります。そういうときも人は「こんな人だとは知らなかった」と言い訳しますが、選挙の場合と違って、その後の生活で大変な思いをしなければなりません。人がそういった苦しさを甘んじて受けるのは、選んだ自分にも責任があるということを自覚しているからです。

舛添を選んだ都民が「こんな人間だと知っていたら投票しなかった」と言うのはあまりにも無責任です。舛添という人はテレビによく出ていた人で、自分の意見を存分にしゃべっていましたし、著書も何十冊もあります。どんな人間かを知る手段はたくさんありました。告示日から投票日まで18日もあったので、人間性を知るには十分な時間もありました。今回のような事案が生じることは十分に予測できましたし、一般的な洞察力を持っている人なら人間性に疑問を抱いたはずです。
にもかかわらず、都民のうち200万人以上の有権者が舛添に投票し、結果的に圧勝させて知事に就けたのです。彼に投票した有権者の責任はどのように追及されるのでしょうか。

2020年には東京オリンピックが開催される予定です。石原が発案し、猪瀬のときに決まりましたが、どうもワイロを渡して選ばれた可能性が強いという報道があります。金で買ったオリンピックです。オリンピックは開催地に何をもたらすかというと、庶民には何ももたらしません。ゼネコンなど一部の大企業に利益をもたらし、役人に許認可権という既得権益による利益をもたらすだけです。ハコモノをたくさん造成し、オリンピックが終わったら廃墟になります。それは住民にとって長い間の負の遺産となるのです。世界のどの場所でも、オリンピックは住民を幸福にすることはありません。経済がグローバル社会になった今、オリンピックの意義は商業的な利益以外にありません。そしてその商業的利益は住民ではなく一部の大企業と役人にしか利益をもたらさず、住民にはその後の長い負担が課せられます。オリンピックはもう世界の庶民には必要がないのです。
もし舛添が都知事にならなければ、東京オリンピックの開催が見直しされたかもしれません。都税の無駄遣いも生じなかったでしょう。

舛添に投票した有権者の責任は、別の候補に投票した有権者も含めて、都民全体の不利益として私たちに降りかかるのです。いい迷惑です。しかしここでこんなことを書いても、舛添よりもさらに無能で有害だった石原を4回も圧勝させた有権者にとっては馬の耳に念仏となるのは間違いありません。徒労感だけが残ります。


名古屋女子マラソンの疑惑

2016年03月13日 | 政治・社会・会社

名古屋女子マラソンを見ました。キルア選手の連覇は当然としても、ペースメーカーの走りっぷりに疑問が残りました。ペースを上げたり下げたりしながら、全体のペースは遅めという、およそペースメーカーの役割とはまったく違ったペース作りです。途中でキルア選手がペースメーカーに何か話しかけていて、実況のアナウンサーによると「もっとペースを上げなさい」と言っているのでしょうということでした。

意図的にペースを遅くするとどうなるかというと、勝ちタイムが遅くなります。名古屋女子マラソンはリオデジャネイロオリンピックの出場選手の選考レースですから、順位とタイムが選考基準となります。そんな大事なレースなのに、ペースメーカーがちんたら走るというのはいったいどうしたことなんでしょう。

思い浮かぶのは先日の大阪女子マラソンで2時間22分17秒という好タイムで優勝した福士加代子です。ほぼオリンピックの代表選出は確実と思われているのに、日本陸上競技連盟が態度をはっきりさせないので、今日行なわれた名古屋に出場すると発表しました。なぜかそれを止めたのが日本陸連。短い間に2レースもフルマラソンを走ったら、ダメージが大きすぎてオリンピック本番までに回復できないとのこと。それはそうでしょう。しかしオリンピックの代表に選ばれなかったら、ダメージの回復もへったくれもありません。

日本陸連の本音は、好タイムで大阪女子を優勝した福士をほぼ代表選手にしたい、しかし名古屋女子も選考レースであり、最後の選考レースが終わる前に結果を告げる訳にもいかない。名古屋女子は好タイムの出やすいレースであり、もしかしたら2時間21分代で日本人2名がゴールなんてことになったら、福士の代表選出がなくなる。名古屋には出ないようにと福士側に要請した日本陸連としてはそれも困る。なんとか名古屋女子がそこそこの結果に終わって、日本人の最先着1名が選出されれば、めでたしメデタシとなるんだけど、というものではないでしょうか。

すると今回のレースのペースメーカーの怪しい動きも納得できるというものです。日本の組織というものは、本来の目的よりも組織自体の面子や自分たちの立場を最優先するものなのですね。ますますオリンピックが興ざめになりました。


現場社員は辞めていくだけ

2016年02月14日 | 政治・社会・会社

ある会社の本部の幹部社員を集めたミーティングで、代表取締役が次のように言いました。

「現場社員は辞めていくだけだ。給料が安いとかなんとか言って辞めていくだけだ。だから現場の人間の言うことなんか聞く必要はない。現場の言い分を聞いても店はよくならない」

2016年2月11日放送の「カンブリア宮殿」に静岡県のたこ満という会社が紹介されていました。その会社の経営理念は次の通りです。

「ひとりのお客様の満足と、ひとりの従業員の幸せ」

経営者としては相当覚悟を決めた経営方針です。人を相手の商売ですから、従業員が幸せでないとお客様を満足させられないと、明快かつ論理的な経営方針ですが、これを実行するのは本当に難しい。日本の風土だからできることでもあると思います。冒頭の会社の経営者とは正反対の考え方ですね。

翻って、冒頭の会社の「現場社員は辞めていくだけ」という社長の見解はトップダウンの経営方針で、力ずくで言うことを聞かせようとするやり方です。見ているうちは言うことを聞くけれども、目を離すと言うことを聞かなくなる可能性があります。そして近くにいる幹部は全員、面従腹背となります。ある程度の規模までは成長するでしょうが、それも年間数百億円の売上まででしょう。それ以上の規模では、末端社員まで自発的に働くようなシステムが必要で、そういうシステムはトップダウンの経営方針とは相容れないものです。
この会社はいずれ空中分解する運命にあると思います。そのほうがいいのかもしれません。こういう会社が消滅して、たこ満のような会社が増えていくことを世の中は歓迎するでしょう。