長い間自分が対人恐怖症であるなどとは考えもしなかったのですが、このところフツーじゃない神経の持ち主を相手に仕事をしていまして、それがたまたまワンマン社長で誰も逆らわないものですからどんな理不尽でもまかり通っていて本人もそれが当たり前になって、思い通りにならないと怒り狂います。その怒りのはけ口に社員を殴るので、もちろん私も例外ではなくそのおかげで対人恐怖症みたいに他人を恐れるようなところが出てきました。精神科に行って相談してみようかと本気で悩んでいます。アメリカでは精神科医のカウンセリングを受けるのはわりと一般的のようで、30年以上前のエリカジョングの小説『飛ぶのが怖い』にもそんな感じで紹介されていました。しかし日本ではまだそれほど普及していない気がします。「精神病院」という言葉の響きそのものがなんとなく悪いもののように感じる響きを持っていて、現代人は多かれ少なかれ精神的な欠陥を抱えているから精神科を受診するのはおかしなことではないと、いくら先入観を捨てたつもりでも、やはり自分が精神科にかかるとなるとどうしても他人の目が気になって「頭がおかしくなったらしい」とか「やっぱりビョーキだったんだ、そうじゃないかと思ってた」とか、そんなふうに思われるんじゃないかと考えてしまいます。被害妄想でしょうか。
しかしこれからはそんなことも言っていられない時代が来るような気がします。いじめ自殺が毎日のように報道されていますし、安倍政権でこれからもっと不況になるでしょうから、行き場のない不安と不満を抱えた人がどんどん増えていって、そういう人はいじめに走るでしょう。構造的な問題なんです。
同時に人間の特性の問題でもあります。このブログで何度も書きましたが、人間は他者との係りの中でしか、生の充実を得られない不幸な生き物なので、取るに足りないごく僅かな優越感や自尊心にすがりついて生きています。その中で想像力がなく他者への思いやりの心を持たない人間は、優越感の対象に対して自らの優越を確認せずにいられなくなります。それがすなわちいじめでありパワーハラスメントです。ホッブズではありませんが、万人が万人に対していじめを行なう可能性を持っています。意識的であると無意識であるとを問わなければ、さらに可能性は増大するでしょう。従っていじめやパワーハラスメントをなくす手段は、ないといっていい。
ただ、小泉~安倍政権によって格差がよりいっそう鮮明化したことが原因で、いじめが過激な先鋭的なものとなり、その激しさのあまり受けた側が自殺にまで至ってしまうことが現代のいじめ問題の焦点のようです。いじめは人間の本来的行動であり、格差は歴史的に必ず存在するものである以上、いじめという行動をなくすことは出来ないが、犯罪に相当するような激しいいじめ、あるいは長期にわたる執拗ないじめは、社会の構造を変化させること、つまり政治によって減少させることができるのではないかというのがいまの議論です。
そしてご承知のように、現実は議論とはまったく離れて、教育基本法の強行採決へと進んでおり、しかもこのことといじめ問題の解決のつながりについて、何の説明もなされておりません。安倍ちゃんがこのまま突っ走ると、
教育勅語の復活
徴兵制の復活
自衛隊の呼称変更で陸軍、海軍、空軍の復活
特殊部隊、情報局、諜報機関の存在の表面化
憲法改正による治安維持法の復活、
核兵器の開発、保持
軍事政権の誕生
戦争の頻発
召集令状
家族友人の死
東京大空襲
南京大虐殺
欲しがりません勝つまでは
という具合になりそうだと、たいていの国民は思っていて、いまの中学生、高校生達も情報処理には堪能ですから、同じように危惧しているでしょう。嫌な世の中になりそうだな、と。そこで現実に生きているいまを振り返って、それが楽しい場所ならもう少し生きていてもいいかもしれないと思いますが、楽しくない場所で、未来も間違いなく楽しくないなら、何が嬉しくて毎日いじめられることに耐え続けるでしょうか? もちろん誰もが自殺しますよね。いじめ自殺が増加しているのは案外単純な理由なんです。日本に明日がないからなのです。
ところで、いじめに関して中学生が作文を書きました、という設定で7月6日付のブログに作文を載せました。いじめられる人といじめられない人の違いについて書いてみました。簡単に言うと、性格の問題です。大学で習った簡単な心理学では、人の性格を九つに分類します。
気質として、分裂質、躁鬱質、癲癇質
気性として、強気、弱気、中気
この組み合わせで9通りの性格に分類できることになります。気質は遺伝によって決まる先天的なもので、気性は生後数年で決まる後天的なものです。この中でいじめられるのは、弱気な気性の人です。実は文明が発達すればするほど弱気な人が増加していきまして、人間の知性の発達と弱気な人の割合が比例するように増えているんですね。つまり弱気な人というのは知性的な人ということです。
強気(超強気含む)=動物的、感情的、好戦的
弱気(超弱気含む)=知性的、理性的、平和的
という図式になっております。当然のことながら、弱気は強気に勝てません。だから私は超強気のワンマン社長の言いなりになって働かざるを得ない現状なんですね。ホント、死にたいって、ときどき思います。だから精神科医のカウンセリングでも受けたくなるんですね。近頃は「ウツは医師に相談しましょう」なんてテレビコマーシャルが流れていますし、以前に比べれば抵抗なく受診できる時代かもしれません。しかしいざ受診しても、実際のところはたいしたカウンセリングなど出来ないで、ただ抗鬱剤を処方するだけなんじゃないかなと思っています。それが、どうしても二の足を踏んでしまう理由ですね。
いじめに負けない方法はただひとつ、いじめられる側がいじめられていると思わないこと。それはどういうことかというと、前にも書きましたが、恐怖心を取り除くことです。いじめられるのが怖いからいじめられるわけで、いじめられるのが怖くない人はいじめられません。いじめることは相手の恐怖心を刺激することですから、恐怖心のない人をいじめることは出来ないのです。であるならば、人間から恐怖心を取り除けばいじめがなくなるということになります。しかし人間から恐怖心を取り除くことはとりもなおさず強気または超強気の人間ばかりになるということでして、誰もが動物的、感情的、好戦的である世の中になります。至るところで争いが絶えない世の中になるでしょう。実はそれは人類が一度経験したことなのです。
原始時代。かつての人類は皆が強気で動物的で感情むき出しで好戦的でした。文字通りホッブズの言う「万人の万人に対する戦い」の時代だったのです。それから知性が発達して、文明が発達して、弱気な人が増えて、そして少しは平和になったんですね。弱気な人は強気な人に勝てませんから、世の中を支配するのは強気な人、動物的で感情的で好戦的な人です。そういう人が人の上に立つ。そしていじめる。いじめられる人がいじめられなくなるには性格を改造して超強気の性格になることですが、そうなるとこれまでいじめられていたその人が今度はいじめる側に回ってしまいます。どこまでも救いようのない図式になっているんですね、これが。
私の場合は、いじめる人、つまり人に恐怖をもたらして喜ぶ人というのは、100%、人間のクズだと思っています。人を怒鳴りつけたり脅したり殴ったり嫌がらせをしたりする人たちですね。だから絶対にそちらの側に回りたくありません。恐怖心は知性と平和の証として人間が持つべき感情だと思っています。仏教では恐怖心を取り除けば平安がもたらされ、悟りに至ることができると教えますが、それは同時にあらゆる煩悩を取り除くことが条件となっています。恐怖心と共に欲望も取り除く。そうすれば人をいじめることもいじめられることもなく、澄んで晴れ渡った清々しい人生を送ることが出来るでしょうけれども、それが出来るのは百億人に一人くらいの割合だと思います。キリスト教では、自分を貶め怒鳴りつけ脅し殴り迫害する者のために祈れ、と教えます。それが出来るのは一千億人にひとりくらいでしょう。
死んではいけない、自殺してはいけないと、何の論拠も示すことなくお題目のように唱えるバカどもは放っておいて、いまいじめられている子供たちや大人たち、自殺するのもいいでしょう。生きつづけるのもいい。ただ、自分は決していじめる側には回らないんだと、少なくともその覚悟はしておいた方がいいでしょう。人を殴るのは殴られて育った子供です。いじめられた人が別の人をいじめる可能性は大いにあります。現に私自身、そのような場面があってハッとしたことがあります。
最近ホームレスが連続で殺される事件があって、もしかしたらと危惧しているわけです。