三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

競馬と政治と好き嫌い

2006年11月05日 | 政治・社会・会社

 天皇賞ですが、実は外してしまいました。予想の段階まではよかったのですが、最後に馬券を買うときに、勝ったダイワメジャーを蹴っ飛ばしてしまったのですから、それは当りません。好みの問題といいますか、競走馬の走りっぷりとか見かけとか血統とか厩舎とか騎手とかの好みがありまして、最後の最後にはそれで決めてしまうところがあります。要するに好きな馬を勝ってしまうんですね。それは今回のように裏目に出ることのほうが多いのですが、ときにはいい目と出ることもありまして、大もうけさせてもらったことがあります。人間というものは自分に都合のいいことは憶えていて、都合の悪いことは忘れてしまうという長所があるので大もうけした記憶だけが強くてついつい同じ買い方になってしまうんですね。嫌いだけれども強い馬は買わなきゃいけないと思いつつ、ちょっと足りないけれども好きな馬を勝ってしまうんですね。しかも馬を好きになるきっかけというのもたいていつまらない偶然とかで、ほとんど意味がないのが事実です。にもかかわらず、ここで好きな馬を買わないともし来ちゃったらいやだななどと、ほぼ非論理的な理由で買ってしまうんですね。そういうこだわりがない人が多分、馬券のうまい人なんでしょう。私はなれそうにありません。

 今日のアルゼンチン共和国杯では好きな馬2頭が出ていて、その2頭だけを買おうと思いましたが、つい三連単を買いたくなってしまい、その2頭が1、2着したのにもかかわらず、3着の馬を買わなかったおかげでまたしても外してしまいました。こういうのを欲の皮を突っ張らせた、といいます。もし三連単を買っていて当っていたとしても、全額を2頭の馬連1点に投入したほうが払い戻しは多かったのです。簡単に言うと、馬鹿な買い方をしてしまいました。

 自分の馬券下手を棚に上げて言うのもなんですが、政治家や官僚、役人がこういう私の馬券の買い方のような仕事をしていては、国民住民は困ってしまいます。それを煽る評論家の発言も、困ってしまいますね。

 〝元祖孝太郎〟で知られる俵孝太郎さんが某夕刊紙のコラムに

昔の小学生は歴代天皇を神武から今上まで言えた。

旧制中学受験のときは、教育勅語を全文書けて当然だった。

 と何のために出してきたのか意味不明の例ですが、ひとつだけわかるのは、俵孝太郎さんは昔の軍国主義が好きなんだということです。校庭に生徒をきれいに整列させて前へ倣え、右向け右と、号令をかけてそのとおりになるのを眺めることに美意識を満足させることができるのでしょうか。よくわかりません。よくわかりませんが、政治家や官僚、役人といった共同体の行政を行なう立場の人たちに対して、俵孝太郎さんはご自分の好き嫌いや美意識を押し付けたいのですね。お気持ちは十分わかりますが、実際に教育勅語を復活させたり歴代の天皇の名前を暗誦させたりすれば、ついに日本がおかしくなっちゃったと全世界が認めてくれるでしょう。

 しかし俵さんの思惑とは別に、政治家や官僚、役人たちは大昔から自分たちの好き嫌いや美意識で政治を執り行っています。そんなことはみんな知っていることで、奈良県や岐阜県だけの問題ではないのですが、奈良県はこのところ目立ちすぎていますね。ずっと休んでいる人が給料をちゃんともらっていたり、そのほかに百何十人もズル休みをしているのがばれたりしたのも奈良県でした。そういえば、目の前に勤務先の役所がある人は交通費がもらえないからといって靴代を交通費に準じて支給しているのも奈良県です。妊婦さんが病気を併発したときに県内の病院をたらいまわしにされた挙句に処置が遅れて亡くなったのも奈良県でした。奈良県に住んでいなくてよかった。それほど奈良県の役人は人間の屑ばかりだということです。

 もっと言えば、人間はたいてい屑で、屑でないように生きるほうが難しい。だから政治家や役人が政治を好き嫌いで行なうのも当たり前だし評論家が自分勝手な美意識を主張するのも当たり前の話です。世の中がよくなることは決してありませんが、怒りや驕りや恐れを超越して、自分だけは屑仲間から脱却することはできるかもしれません。人からは乞食に見えるようになってしまうかもしれませんけど。人から乞食に見られたくない人には無理な話です。つまり大方の人には無理な話です。世の中は屑が屑を支配しているのです。奈良県だけでなく、どこにも未来はありません。