いじめ自殺なんてものは昔からたくさんあったしこれからもなくならないし、なくすこともできないであろうことは大方の人がうすうす感じているところだと思います。最近は各地で相次ぐいじめ自殺の問題をマスコミが取り上げて騒いでいますが、その取り上げ方がどうも的を外れているような気がしています。
いじめ自殺について新聞テレビの人たちが言うことをランダムに並べてみると、
- 教師の資質が低下している。教育能力も人間的にもひどいレベルだ。
- 校長から教育委員会までが隠蔽体質で、問題は解決しない。
- 隠蔽体質ではなく、事件にかかわった子供や教師を守る意味があった。
- ゆとり教育の弊害である。勉強に終われていたらいじめるヒマもない。
- 偏差値教育に問題がある。落ちこぼれの生徒がいじめる側に回る。
- 歪んだ教育をつくってきた政治に問題がある。
- 親が学校に教育を丸投げしているのが一番の原因。
- いじめられる生徒の逃げ場が用意されていないことが問題。
- とにかく今は子供たちに死ぬなと伝えることが大事。
責任転嫁から一方的な決めつけまでたくさんの意見が出されましたが、いずれにも共通する前提は、いじめ自殺はあってはならないもの、繰り返してはいけないものであるということです。もちろん過去も現在もいじめ自殺はありますし、今後もなくなりそうにないということを分かっていての前提ですが、それでもあえてこの前提に意を唱えたいと思います。
自殺について
自殺の善悪を問うことは無意味です。人間は自殺することのできる珍しい動物であり、死を認識している数少ない生き物のひとつです。同時に社会的な生き物であり、生の充足は他者とのかかわりの中でしか生まれないという非常に不幸な生き物なのです。自分の生を充実したものにしたいということが人間の基本的な欲求であり、性欲や食欲、自尊心や虚栄心といったものは、他者との係りの中で自分の生を充実したものと感じるひとつの要素に過ぎません。
もしこれからの人生で自分の生が充実することがないと確信できたら、人間は必ず自殺します。そしてこれから自分が幸せ(生の充実)を味わうことはないと感じている人がたくさんいるのが人間社会であり、人類の歴史に埋もれていった真実なのです。小さな幸せという言葉で表現されるようなほんの僅かな生の充実さえもなく死んでいったたくさんの人々。人類の歴史にほとんど関与することもなく死んでいった彼らの生は、誰の記憶にも思い出にもなりません。無意味そのものなのです。
自殺の善悪を問うことは無意味です。人間は自殺することのできる珍しい動物であり、死を認識している数少ない生き物のひとつです。同時に社会的な生き物であり、生の充足は他者とのかかわりの中でしか生まれないという非常に不幸な生き物なのです。自分の生を充実したものにしたいということが人間の基本的な欲求であり、性欲や食欲、自尊心や虚栄心といったものは、他者との係りの中で自分の生を充実したものと感じるひとつの要素に過ぎません。
もしこれからの人生で自分の生が充実することがないと確信できたら、人間は必ず自殺します。そしてこれから自分が幸せ(生の充実)を味わうことはないと感じている人がたくさんいるのが人間社会であり、人類の歴史に埋もれていった真実なのです。小さな幸せという言葉で表現されるようなほんの僅かな生の充実さえもなく死んでいったたくさんの人々。人類の歴史にほとんど関与することもなく死んでいった彼らの生は、誰の記憶にも思い出にもなりません。無意味そのものなのです。
学校の生徒にとってそれはどういうことでしょうか? 経済的に自立していない(法的にも無理)ことから、学校の生徒というのはきわめて狭い世界で生活しています。ほぼ、学校と家庭。学校でいじめられている生徒に生の充実はありません。ほんの僅かな幸せさえもありません。家庭ではどうでしょうか。家庭には自分を褒めていたわってくれるやさしい母親がいるかもしれません。声をかけてくれるたくましい父親もいるかもしれません。あるいは元気に出迎えてくれる犬や、メール友達がいるかもしれません。それらの他者との関係で少しでも生の充実があるなら、その子は学校でいじめられていても自殺はしないかもしれません。家庭内でのそんな僅かな幸せが学校でのいじめの記憶を少しも軽減できないときは、やっぱり自殺するでしょう。
ドロップアウトした生徒たちには、学校や家庭とは別の世界の生活もあります。クスリや暴力、犯罪や暴力団との係りの世界かもしれませんが、そういう子たちは自殺しません。
自殺するのは大概がドロップアウトもできず不登校にもなれず、気持ちの整理のつかないままひたすら我慢している子供たちです。親にも学校にもいじめている張本人の生徒に対しても、迷惑をかけたくないと、そのように考えているまじめな子供たちです。
ドロップアウトした生徒たちには、学校や家庭とは別の世界の生活もあります。クスリや暴力、犯罪や暴力団との係りの世界かもしれませんが、そういう子たちは自殺しません。
自殺するのは大概がドロップアウトもできず不登校にもなれず、気持ちの整理のつかないままひたすら我慢している子供たちです。親にも学校にもいじめている張本人の生徒に対しても、迷惑をかけたくないと、そのように考えているまじめな子供たちです。
このような子供たちに向かって、死ぬな!とは、どのような根拠があっていえる言葉でしょうか。今の世の中にいいことがありますか? 生きていればそのうちいいことがあるなんて、誰にも根拠を示すことのできないいい加減な言葉です。はっきり言って、今の世の中はこれ以上よくならないし、逆に悪くなる一方です。人類は恐竜が絶滅したのと同じように絶滅するでしょう。地球の環境は年々悪くなります。人間性もどんどん失われて、最後はひとりひとりが核兵器を持つ時代になるでしょう。
自殺するならいまのうちです。早いほうがいい。思い立ったが吉日というじゃありませんか。いじめられている子供たちだけでなく、病気をして動けない働けない状態で何が幸せなのか思い当たらない方々も、ここは思い切って自殺しましょう。たくさんの人が自殺するのは、ねずみが大地震を予知して逃げ出すのと同じで、まもなく日本が滅びるからに違いありません。どこへ逃げても同じです。世界中が腐りかけている。溶けはじめた泥の舟と同じです。逃げる方法は自殺しかありません。明日も明後日も、希望なんてありませんよ。人生に希望はないのです。
子供たち、早く死のうね。頑張って、死のうね。