三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

死の恐怖=生への執著

2006年11月17日 | 政治・社会・会社

 最近思うようになったことがありまして、不幸というものは、おもに恐怖から生じるのではないでしょうか。まあ一口に恐怖といいましても沢山の種類がありそうでして、死の恐怖、病気の恐怖、対人恐怖、高所恐怖、赤面恐怖、その他のナントカ恐怖と、いろいろあります。

 ドストエフスキーは『悪霊』の中のキリーロフの台詞として次のように言わせています。「生は不安です。生は恐怖です。いま人間が生を愛するのは不安と恐怖を愛するからです」

 仏教の般若心経の中には「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」と書かれていまして、意味としては、こだわりを捨てることができれば恐怖から解放されて、涅槃に到ることができるということです。つまり真の悟りの境地は恐怖によって妨げられているということになります。

 同じく仏教の本で『スッタニパータ』という本の中には、名前について述べられていまして、名前をつけることで執著が生まれ、執著が生まれることで恐怖が生まれ、そして人は悟りから遠ざかってしまうと書かれています。

 ドイツの哲学者ショーペンハウエルが『自殺について』の中で述べていることは、死の恐怖はすなわち生への執著に他ならないということです。

 よくドラマの中で病院に入院した患者についてその家族に向かって医者が言う言葉に「あとは本人がどれだけ生きたいと思うか、です」というものがありますが、「生きたいと思う」ことが正しいこと、前向きであることのように表現されていて、いつも違和感を感じてしまいます。
 死の恐怖=生への執著であるなら、「生きたいと思う」ことが恐怖のはじまりであり人間の不幸のはじまりであるわけですから、「生きたいと思わない」ことが幸福につながる姿勢なのではないでしょうか? 
 と言っても、納得される方はほとんどいないと思います。「生きたいと思う」こと、「生きる」ことは「生きていたくない」「死にたい」と思うこと、「死ぬ」ことに比べるとずっと前向きで正しいことのように感じてしまうものですからね。

 死の恐怖=生への執著であると考えると、人間が自殺する心理構造がよくわかります。自分の生をより充実したものにしていきたいとか、またはより充実した生を生きたいと思うことが生への執著であり、そのように思わなくなること、自分の生はこれ以上よくならない、いまよりましな人生を歩むことはできないのだと実感することは、すなわち生への執著をなくすことであり、それがすなわち死の恐怖をなくしてしまうことになる、ということです。驚いたことに、自殺する人は、せいへの執着を喪失したことで、同時に死の恐怖も喪失しているわけです。だから簡単に死ぬことができる。怖くないんですね。
 「死ぬほどの勇気があれば何でもできたじゃないか」という死者への批判は的外れで、自殺するのに勇気は必要ないのです。

 いじめを苦にした自殺が全国的に多発しているように感じます。実は昔から沢山あって、水面下に隠れていたのが最近になって多く報道されるようになったのか、それとも実際に増加してきたのかさだかではありませんが、「自分の生がこれ以上充実したものになることはない」と感じている人は沢山いるのではないでしょうか。そういう人はすべて、自殺予備軍です。
 自殺しない理由はほんの些細なことでして、たとえば私でしたら、ジャパンカップと有馬記念で馬券を買うからそのあとにしようかな、とか思うわけです。小さな女の子でしたら、買ってもらったばかりでまだ着ていない洋服があるから、週末にそれを着て出かけたあとにしようとか、そういうふうに思うわけです。そういった小さなことが「生への執著」そのものであって、それはすなわち「ささやかな幸せ」と呼ぶべきものです。自殺する人にはそういった「ささやかな幸せ」さえもありません。ということは「生への執著」もなく「死の恐怖」もありません。だから何のためらいもなく死ぬのです。

 大阪の中1の女の子が飛び降り自殺した事件がありました。最後の言葉は「ネックレスはあげるね」というものでした。これは何を意味しているのでしょうか。

 この子は学校でいじめられていました。通せんぼをされたり「ちびデブ」と罵られたりバレーボールのときにみんなからボールをぶつけられたりで、毎日のことですからとても中1の女の子が耐えられるようなことではありません。この子が耐えていたのは、他人に対する自分の恐怖心です。もしこの子に恐怖という感情が存在しなかったら、いじめられることはありえません。いじめというのは人間の恐怖心をあおることでその子を不幸にし、「他人の不幸は蜜の味」という言葉の通り、人を不幸にすることを楽しむことなのです。恐怖心のない人をいじめることはできません。

 もちろん人間ですから恐怖心のない人はいないと思いますが、多い人と少ない人がいます。たいていの場合恐怖心の多い人が知的で想像力に優れていますが、恐怖心の少ない人は他人を思いやる能力に欠け、人をいじめることにためらいがありません。

 この女の子が自分の恐怖心に勝つことができたら、そして周囲がそれを手助けすることができたら、この子は「生への執著」と失うことなく、生きつづけたでしょう。この子は恐怖心の強い子で、それゆえに他人の恐怖心も理解することができ、人の気持ちを思いやることのできる優しい子であったと思います。だから最後の言葉が「お姉ちゃんにネックレスあげるね」だったのです。
 しかし学校では夢も希望もなくひたすら耐え忍ぶ毎日、家庭に帰っても学校のマイナスをプラスに変えるほどの「小さな幸せ」はなく、とうとう恐怖心を克服することができないまま、「生への執著」を失った彼女は同時に「死の恐怖」も失って、躊躇なく死を選びました。

 いま分かることがひとつだけあります。人を支配するのは、恐怖心の少ない人たちです。それはいじめる側の人たちです。いじめる側の人たちが日本を政治的経済的に支配しているのですから、いじめというものは日本の構造的な問題であるわけです。だから決してなくなりません。いまいじめ自殺が猖獗を極めているのは、「自分の生がこれ以上充実したものになることはない」という社会のありように根本的な原因があります。私たちは「小さな幸せ」をことごとく奪い去られようとしているのです。それが小泉政治安倍政治の特筆すべき成果であり、去年の9月11日に小泉政権に投票した有権者全員の意思であるわけです。

 言ってみれば国中で寄ってたかって小さな子供をいじめ自殺に追い込んでいるのです。与党に投票した有権者たちは、どのように落とし前をつけることができるのでしょうか。
 教師がひどいとか校長のせいだとか教育委員会がとかマスコミの報道の仕方が悪いとか言っている場合じゃありません。子供を自殺に追い込んだのはとりもなおさず阿呆に政治をやらせている有権者自身なのです。この国に未来はありません。