今年の9月23日は二十四節気のひとつ秋分の日で、年によってごくたまに日にちが前後することがありますが、地球の公転に基づいて決められているので曜日に左右されることはありません。天皇誕生日も同じですね。ところが、いくつかの祝日は決まった日にちではなくなりました。7年前からです。それより前は、たとえば敬老の日はずっと9月15日でした。成人の日は1月15日で体育の日は10月10日でした。これらを何月の第何月曜日としてしまって以降、なんだか印象がぼやけてしまった気がします。父の日や母の日が何となくはっきりしないのと同じ理由で、何々の日は何月何日と決まっていれば、極端な例かもしれませんが1月1日を元旦のことだと忘れないのと同じように忘れにくいと思うのですが、何月の第何月曜なんて決めてしまったら、思い出すためには何月なのかと何週目の月曜なのかというふたつを思い出す必要があり、そのアクション数の差が思い出しやすさの差になっているのだと思います。成人の日や海の日、敬老の日、体育の日は、日にちの決まっていた頃に比べて、祝日としてのありがたみを減じた気がします。政治家はいったい何がしたかったのでしょうか。連休を増やせば国民の支持が得られるとでも考えたのでしょうか。
祝日の印象がぼやけたお陰で時節の移り変わりについて国民はますます鈍感になりました。それでなくてもスーパーの野菜売場には季節の違う野菜が年中並んでいる時代です。二十四節気を知らないくらい当たり前、野菜や魚の旬さえ知らない人の方が、知っている人よりも多いくらいでしょう。しかし平安文学や俳諧を考えてみればわかるように、日本人はもともと時の流れや季節の変化に敏感だったはずです。季節感というのは不自由さの感覚でもあって、冬に西瓜が食べられない、その西瓜について想像して前の夏を思い出したり次の夏を思い描いたりするときの夏のイメージが季節感です。時の流れという意味では季節感は歴史に対する感覚にも通じます。
戦後、生活が便利になって季節外れの食材がいつでも買えるようになりました。さすがに西瓜は現在でも冬に出回ることは滅多にありませんが、茄子や胡瓜は年中普通に売られています。栽培技術の向上や輸入の迅速化などで、東京に住む人は世界中の食材が手に入り、また世界中の料理を食べることができます。そこで食材の旬さえ知らない人が増えてしまいました。つまり科学によって不自由が解消され、その結果として皮肉なことに日本人は季節に対する感覚を鈍らせてしまったのです。ある意味では不自由さというのは実は悪いものではないのです。
もし国民の季節に対する感覚を鈍らせることで、歴史に対する感覚をも鈍らせ、政治が何をしても歴史の中での意義を問われないようにするために、祝日を決まった日にちから変動性に変更したのかもしれません。消費税を上げる前に総額表示を義務付けたのと同じように、官僚の考えることは本当に姑息ですから、その可能性も否定できないと思います。目の前の便利さや自分の利益追求だけに汲々としている国民は、いつの間にか政治家や官僚の操り人形になってしまっているのかもしれません。