三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

国旗国歌の意味するもの

2011年06月19日 | 政治・社会・会社

大阪府の国旗国歌条例成立で橋下徹は国歌斉唱の際に起立しない教職員に対して厳しい罰則を科すようです。もともと橋下は日本を各武装させて海外侵略のできる国にしたいと考えていました。だから当然、侵略の象徴であり大義名分である国旗国歌を大切にさせることは、彼の教育理念の根幹でもあります。この考え方をわざわざインドネシアまで行って発表したのも、後先を考えない浅はかな橋下らしい行動です。インドネシアで橋下を相手にした財団は、エリートを育成する大学に関与する財団で、日本では東大に相当する大学でしょうか。支配する側に国家の大義名分を主張すれば、それは賛成されるでしょう。その辺りも織り込み済みで発表したんでしょうね。狡賢い人です。

国旗国歌については、反対する人の多くが侵略戦争の大義名分、象徴となったからだという理屈を言います。しかし問題の本質はそういうことではありません。

もともと共同体が存続するために、共同体の繁栄と存続が即個人の繁栄と存続であるかのような錯覚を起こさせる象徴として、国旗国歌が作られました。戦争の象徴という訳ではないのですね。この策略はどの共同体でも同じように実行され、たいていは成功して、多くの国民が、自国の繁栄が即自分の幸福であるかのような錯覚を抱いたのです。

いまでも錯覚している人が大多数で、覚醒している人は少数にすぎません。そして少数の覚醒している人は、共同体の繁栄によって人が救済されるものではないことを知っています。中には宗教を起こして魂の救済を唱えた人もいました。自殺する人も多数います。

共同体の中で生まれて、共同体の中で生きるしかないという条件を無意識に大前提としてしまっているところに、人類の抱える深刻な問題があります。
国旗国歌を大切にするとかしないとか、そういう次元でものを考えている限り、人類に救いはありません。