映画「デッド・エンド完全封鎖」を観た。
面白かった。わかりやすいシチュエーションアクションで、尺もちょうどいい。主人公がやや迫力に欠けるのがいまひとつだが、トラウマを抱えた帰還兵士という設定なら、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
たまたま通りかかって人質になってしまった人たちの描き方もいい。勇気のある人、ただ怯えている人、自分勝手な人、誰も信じられない人などがいて、中には昔取った杵柄を発揮してくれる老人や、怯えながらも蛮勇を発揮する人などがいて、ストーリーに奥行きをもたらしている。
誰がやっているのかわからない、何が起きているのかもわからないというのは、最近流行っている「トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)」の犯罪に似ている。報道で見ている分には何が起きたかわかるが、リアルタイムの被害者の立場で考えれば、誰が何をしているのか、何人いるのか、目的は何なのかなど、何もわからないのが実情だろう。
そしてトクリュウが狙うのが非力な老人や女性であることを前提とすれば、撃退するための何らかの方法が必要になってくるのは当然だ。家を耐火金庫みたいに要塞化すれば、トクリュウの侵入を防げるかもしれないが、日常生活に著しく支障をきたす。非現実的だ。
そうなると、アメリカみたいに庶民も銃器で武装できるようにするという選択肢が生じるが、それは暴力に暴力で対抗するという原始的な思想で、あまりにも短絡的だ。銃規制を解除するとアメリカみたいな銃社会になって、至るところで乱射事件が起きるようになる。
そもそもトクリュウが発生するのは、金融資本主義が構造的に生み出す格差と分断が遠因となっている。切羽詰まって犯罪に手を染めるのだ。であれば、切羽詰まった人が出ないように、社会を変革するのが、最も予算がかからない方法であり、将来にも繋がる。アメリカは、税米ライフル協会など、軍需産業の富を支えようとする人々の政治的な圧力で、銃規制は困難な状況にある。
日本は、銃規制を解除する前にやるべきことがたくさんある。血で血を洗う社会にしないためには、そういう政治家を落選させればいい。本作品のような状況が、そもそも生まれない社会にするのが、理性的な判断だと思う。暴力的な解決は、一時的なのだ。