三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Beguiled」

2018年03月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Beguiled」を観た。
 http://beguiled.jp/

 日常生活に入り込んだ異物は、世界を一変させてしまう。日常が安定していると思っているのは実は間違いで、人間の生活は常に不安定な土壌の上に、危ういバランスで乗っているに過ぎない。日本でも軒先を貸して母屋を取られるという諺がある通り、必ずしも我々の生活の基盤は盤石ではない。そして平常から極限へと状況が変化する。入り込んだ異物によって、日常が異化される、つまり非日常となるのだ。
 女ばかりの中に若い男が紛れ込むとどうなるか、それは250年前もいまもあまり変わらない。科学や文明は進歩しても、人間そのものはそれほど進歩しないものだ。だからこの作品が成立する。人間は変化を夢見つつも、変化を恐れる。もし白馬の王子様が本当に現れたら、世の女性たちはみな引くだろう。勇気ある女性だけが彼と共に去る。誰が勇気を出すのか。女たちの駆け引きがさりげなく始まる。

 ニコル・キッドマンは年齢を経て、女の優しさや哀しみや喜びの入り交じった複雑な感情を複雑なまま表現できるようになった。本作では園の生活の安全と秩序を守らなければならない園長としての立場とひとりの女としての欲望が内心でせめぎあいつつも、うわべは平静を保ち続けようとする中年女性を見事に演じきった。
 この作品のハイライトは、燭台をもって男を部屋の入口まで送った仁コル・キッドマンが、男と見つめ合う場面だ。損得を計算する男と、欲望に突き動かされそうになる女。何が起きるのか。

 理性と欲望と計算とが、狭い園内に充満して、息が詰まるほど濃密な時間が過ぎていく。見終わってやっと、女たちの情念から解放された気分になる。