三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」

2023年09月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」を観た。
9/15(金)公開『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』公式サイト

9/15(金)公開『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』公式サイト

2023年9月15日(金)ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開、映画『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』公式サイト。製作総指揮:モーガン・フリーマン。主演:...

9/15(金)公開『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』公式サイト

 虎の威を借る狐という諺の典型みたいな話だ。警察は国家権力を背景に、犯罪者に対して実力行使で立ち向かう。実力というのは即ち暴力のことだ。法的な根拠があれば暴力や殺人が許されるのが警察官なのである。だから権力の行使には慎重にならなければならない。民主主義国の警察官は、それぞれの国の警察官職務執行法によって権力行使が厳密に規定されている。
 その背景には、権力を持つ人間が万能感を持ってしまい、他の人間の人格を蹂躙してしまう危険性があるという認識がある。人間の弱さに由来する危険性だ。国家権力だけに限らず、組織のヒエラルキーや目上や目下といったパラダイムも、他人の人権を蹂躙する危険性を孕んでいる。教師が生徒を殴ったり、先輩が後輩を殴ったり、会社の創業社長が社員を殴ったりするのは、20世紀までは日常茶飯事だった。
 もちろん現在でも、ブラック学校、ブラック企業、ブラック部活はある。立場の弱い生徒や後輩や社員は、今この瞬間でもどこかで人権を蹂躙されている。ただ、21世紀になって、人権に関する意識が高まってきた。弱い人の人権が守られるようになる傾向だ。いいことだと思う。
 
 しかし組織の構造からして、人権侵害が減少しない組織もある。国家権力の組織だ。軍隊や警察がその代表である。国家権力の組織は、人権の尊重や擁護よりも、組織防衛を優先する。警察の威信という言葉を未だに警察のドラマで聞くのは、個人よりも組織を重んじる全体主義が生きていることを示している。
 
 権力が暴走するのであれば、対立する権力を分立させて互いに牽制し合うようにすればいいと考えられたのが、三権分立の精神だ。しかしどの国でも行政がやたらに強い。司法が行政に牛耳られていて、憲法違反を見逃しているのが現状だ。三権分立のシステムはなかなかうまく働かない。日本には公安委員会はあるが、有名無実だ。
 権力組織に自浄作用はない。静岡県警では複数の警察官が違法行為で逮捕されたが、通常なら実名で報道されるところを、役職と年代だけしか公表されない。身内の不祥事は庇うのだ。逆に言えば、民間人には容赦がない。
 本作品では「誰がボスか、分からせてやる」という台詞がある。「従わないのが悪い」という台詞もある。警察官の本音だろう。彼らに市民を守る意識はない。「人を見れば泥棒と思え」と思っている。役人だから身上は出世と保身だ。
 
 本作品は実話とのことだ。警察の組織構造の本質を考えれば、さもありなんと思う。他にも世間的に明らかになっていないが、警察内部で揉み消された事件は星の数ほどあるのではないか。
 こういう事件が起こらないようにする方法はひとつしかない。公安委員会などの権力を監視する組織に、本来の役割を徹底させる政治家を当選させればいいのだ。人権を守る政治家が圧倒的多数になれば、行政も司法も、人権擁護の権力になるだろう。しかしそうはならない。人権を蹂躙されたことのない有権者は、自分も権力の側に立ってしまうのだ。戦争の災禍を被った経験のない人が戦争をはじめるのと同じである。
 ケネス・チェンバレンを殺したのは警察官だが、その警察官を守る政治家に投票したのは有権者である。ケネスを殺したのは、アメリカ国民なのだ。その認識がない限り、数多くのケネス・チェンバレンが生み出され続けるだろう。人類の未来はかなり暗い。
 
 映画としては臨場感と緊迫感に満ちている傑作だと思う。鑑賞するのが辛い作品だが、目を離すことができない。啓蒙映画として貴重で、演技も演出もカメラワークも優れた作品である。暫くはドアを叩く音が怖く感じられそうだ。

映画「アリスとテレスのまぼろし工場」

2023年09月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アリスとテレスのまぼろし工場」を観た。
映画「アリスとテレスのまぼろし工場」|maboroshi

映画「アリスとテレスのまぼろし工場」|maboroshi

2023年9月15日(金)公開|恋する衝動が世界を壊す|岡田麿里監督最新作。MAPPA初オリジナル劇場アニメーション作品|

映画「アリスとテレスのまぼろし工場」|maboroshi

 中島みゆきが歌う主題歌の「心音」は、ワンコーラスだけyoutubeで公開されていて、何度か聞いて覚えてから鑑賞したのだが、おかげで感動が倍増した気がする。歌詞が本作品の世界観を的確に表現しているのだ。

 思春期は人格が形成される最後のときだ。気質は遺伝子によって決まり、気性は3歳くらいまでの幼少期に決まると言われている。思春期は、性格を変えるまでにはいかないが、その時期の過ごし方によって、現実との向き合い方、自分との向き合い方が決まる。思春期より前に、何かにのめり込むことが出来た人は、幸せな思春期を過ごすことが出来る。しかし大抵は、悩みと迷いの日々を送る。

 本作品に登場する中学生たちも例外ではない。第二次性徴の現れとともに、異性をはじめとする恋愛対象への興味が湧き、同時に自意識の目覚めとともに他者との関係性を極端に気にするようになる、ちょうどその頃だ。本人にとっても、周囲にとっても、もっとも厄介な年頃である。
「反抗期」などという言葉は、大人が名付けた勝手な言い草だ。本人たちは反抗しているつもりはない。ただ権威や権力やパターナリズムが鬱陶しいだけである。

 さて物語は日常から突然極限状況に移行するスタートから、再び日常に戻って思春期のひりひりする毎日が続き、そしてある出来事を機に、極限状況の秘密が明らかになるという、起承転結の典型みたいに展開する。思春期の恋が並行して進むのもいい。
 思春期の恋の最初の山場はキスだろう。小鳥が啄むようなキスから、次第に濃厚なキスへと変化していき、若い二人はその快感に夢中になる。このシーンを子供に説明する親は大変かもしれない。想像すると可笑しい。

 ストーリーも面白かったし、盛り上がるところはきちんと盛り上がるし、映像もきれいで、とても良くできた作品だと思う。ただ、タイトルが少し残念。「希望とは起きている人が見る夢に過ぎない」という哲学者の言葉が紹介されていることから分かるように、有名なギリシア哲学者の名前を思春期の男女に分けて名付けてみたのだろうが、ちょっとひねり過ぎである。中島みゆきが主題歌のタイトルを決めた時点で、映画のタイトルも同じにする英断があればよかった。