映画「型破りな教室」を観た。
ちょうど一週間前に、世田谷の小学校を記録したドキュメンタリー映画「小学校 それは小さな社会」を観た。子供たちを従順で隷属的な人間に育てようという国家権力の意思を、そのまま教育現場で実現しようとしている愚かな教師たちを描いていて、日本の小学校教育のレベルの低さに愕然としたのだが、メキシコの小学校も、似たような現状らしい。
そんな教育政策に逆らって、独自のスタイルを試みる熱血教師が、本作品の主人公セルヒア・ファレスである。教育行政のお偉いさんに向かって「社会の歯車になるしか能のない人間を育てたいのか」と、独創的な啖呵を切る。見事な啖呵である。日本の教育の責任者にも言ってもらいたい。
涸れ井戸に落ちたロバの話、ガウスの足し算の話といった、有名な話を織り交ぜつつ、子供たちが自分で考えて、原理や法則に辿り着く手助けをする。アルキメデスの浮力の原理を自分たちで思いつく場面は素晴らしい。もう子供たちは船を作れる。この調子だと、じきに揚力の原理にも行き着いて、飛行機も作れそうだ。
メキシコの経済状況は厳しい。親は子供の教育よりも生活の維持を優先する。夢を見るな、現実を見ろという訳だ。攻めるよりも守ることが主体である。誰も既存の価値観を壊そうとしない。現状の中で少しでも自分や自分の家族が得をすることだけを考える。大人だけではない。メキシコにも半グレがたくさんいて、違法の凌ぎで荒稼ぎをする。
そういった利己主義の価値観を壊して、新しい価値を創造することができる人間を育てようとするセルヒアの意志は、あまり理解されない。しかし子供たちは理解する。自分たちは変わることができる。社会を変える力もある。事なかれ主義だった校長も理解してくれる。大人の中で唯一の味方だ。太ったおっさんだって変われるのだと、心意気を見せている。なかなかいい。
アベシンゾーが掲げた「美しい日本」という愛国主義は、戦争にまっしぐらに向かう世界観である。教育現場は、なんとしてもそんな価値観を壊し、理想を目指す子供たちを育てなければならない。どうすれば利するだろうかということばかり個人が考えていると、国家もどうすれば利するだろうかということばかり考える。つまり戦争に至る道だ。
セルヒア教師は勇気があって、努力を惜しまない。その姿勢は見事だ。しかし教育の未来が教師の個人的な勇気に委ねられる社会は、健全ではない。
原題は「RADICAL」である。英語でもスペイン語でも根本的という意味もある。社会の価値観を根本からひっくり返すのだ。世界はいま、戦争の価値観の真っ只中にある。ひっくり返さない限り、未来はない。セルヒア教師の教育観を標準化するのが近道だが、それだけの勇気のある政治家は、世界のどこにもいないかもしれない。本作品から学ばなければいけないのは、子供たちではなく、世界の有権者である。
ニコが修理した船の名前は、すぐにわかった。セバスティアン・イラディエル作曲の古い歌のタイトルと一緒である。スペイン民謡と言っていいかもしれない。日本では津川主一の訳詞で有名だ。別れの曲である。この船名を使いたかったから、女生徒の名前を決めたのかもしれない。とても洒落ている。