映画「クラブゼロ」を観た。
本作品を観る数日前に、巨大資本による食品業界の寡占を扱った映画「フード・インク ポスト・コロナ」を鑑賞したばかりだ。超加工食品の危険性について共感できた。それで本作品では、なるべく食べない健康法を実施しようとする主人公側に共感しながらの鑑賞となった。
ゴータマの生前の発言をまとめた「ブッダのことば スッタニパータ」(中村元=翻訳)には、食という漢字が161回も登場する。それだけ人間にとって食は人生の大きな要素を占める訳だ。スッタニパータで説かれた食についての要諦は、貪ることなく少食が大事だということだ。そうすることで頭が冴えて心が落ち着くという説である。チーズやクリームのことも書かれていて、それらは体によいから、牛を殺す理由はないとも書かれている。
チーズやクリームは加工食品だが、超加工食品ではない。本作品にはスナック菓子などの超加工食品が登場する。父親が娘に無理やり食べさせたのも、ソーセージという超加工食品である。ソーセージやベーコン、ハムなどの食肉加工食品には、亜硝酸ナトリウムが含まれていて、発がん性が指摘されている。健康に気を使っている風な父親が、ソーセージを強要するのは、違和感があった。
動物は他の生物を食べることで生命を維持しているが、食べるという行為は、生命維持だけが目的ではない。食べることそのものが、ひとつの快楽なのだろう。飼い猫や飼い犬が放っておくと太ってしまうことから、動物にとっても食べることは、快楽のひとつに違いない。
快楽であるからには、必要以上に食べてしまうのは必然で、人間はそもそも太る運命にある。痩せている人は、もともと太りにくい体質の人以外は、意志の力で痩せていると言っていい。ブッダは、快楽を貪ることは快楽に囚われることなので、食欲や性欲から自由になるのが大事だと説いた。だが、そのためには心を律することができるようになるための厳しい修行が必要だ。
ゴータマ・ブッダから3世紀後に快楽主義を説いたエピキュロスも、食欲や性欲から自由になって得られる心の平安こそが真の快楽であり、幸福だと説いた。ブッダの説によく似ている。
ブッダもエピキュロスも知らなければ、本作品の親たちのように、子供が食べないことを心配し、食べさせないようにマインドコントロールする教師を悪だと断じてしまうかもしれない。しかし前述したように、人間は放っておくと太ってしまい、生活習慣病になる確率が高くなる。貧乏な人ほど安価な食品に頼りがちで、安価な食品は大量生産の超加工食品だから、添加物山盛りの危険食品である。だから貧乏人ほど病気になりやすい。どこぞの財務大臣が「運動不足や食べ過ぎなど、日頃の行ないが悪い人間が糖尿病になって、その医療費を俺たちの税金で払っている」と妄言を吐いていたが、勘違いも甚だしい。
人間は放っておくと太りやすいという他に、放っておくと他人を差別し、最悪の場合は殺してしまうという傾向もある。歴史がそれを証明している。欲望に忠実だと、必ずそうなる。平和や健康を維持するためには、欲望を律する必要がある。
食べない努力は大変なものだが、メリットも大きい。一方で、食べることは楽しいし、それなりの満足感があるが、それなりのデメリットがある。
人間は能動的な努力ばかりを重視する。頑張る人が科学を発展させて生活を便利にしてきたのは確かだ。しかし生活よりも前に軍事を便利にしてきた訳で、大量殺人ができるようになったのも科学だ。
医学の進歩で長生きができるようになったが、たくさんのパイプに繋げられて何十年も横たわって生き続けることが、人間の幸せなのか。
本作品では、何度も瞑想のシーンが登場する。瞑想している間、その人は何もしないし、何も生み出さない。善も生み出さないが、悪も生み出さない。人類の発展は、善と悪の両方を生み出してきた歴史である。地球環境が人間の不断の努力によって悪化したこの時代、何もしないことのメリットも考えるべきではなかろうか。そういう意味でも、意義深い作品だったと思う。