三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「山逢いのホテルで」

2024年12月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「山逢いのホテルで」を観た。
 
 フランスは哲学とセックスの国である。下世話な話で恐縮だが、フェラチオはフランス語だし、シックスナインという体位は、フランス語でスワサントヌフ(=69)と呼ばれていたらしい。フレンチ・キスという言葉はよく誤解されて、唇を少し触れ合わせるだけの軽いキスと思っている若い人がいるが、実は舌を絡め合う濃厚なキスをフレンチ・キスという。
 フランスの映画では、出会って間もない二人がセックスをする場面がよく出てくる。付き合ってみてからのセックスではなく、セックスして相性を判断してから付き合うのである。セックスの相性は重要だから、合理的な手順なのかもしれない。
 それに、付き合う前提がなくても、互いに楽しむためにセックスをする場面もある。フランス人はセックスに自由で、不倫が責められることはあまりない。セックスは精神安定剤みたいな作用をするから、満足なセックスは生活を向上させる。
 
 というようなことを踏まえてから本作品を鑑賞しないと、主人公クロディーヌのことをけしからんと、古い倫理観で判断してしまいかねない。たまに贅沢な食事を楽しむように、たまにホテルの一人客を誘って、セックスを楽しむ訳だ。ホテルの従業員も、そのあたりを弁えているから、チップを貰ってクロディーヌに情報を提供する。
 セックスの満足感は、相手に対する信頼と尊敬によって、さらに増していく。前戯と後戯を丁寧に行なうことで、慈しむ気持ちが伝わる。孤独感が緩和され、共生感が生まれる。セックスには、多くの副産物があるという訳だ。
 逆に言えば、信頼も尊敬もできない相手とのセックスには、オルガスムスをはじめとした肉体的な快感の満足感以外は、何もない。しかしそれさえも得られない相手がいる。時間の無駄とは言わないが、互いに相性がよくないと判断して、その後付き合うことはない。
 
 クロディーヌは自営業だ。針子の仕事で生計を立てている。障害者の息子がいるから、自宅で仕事ができるのは好都合である。しかし客は古い客ばかりで、どうしても先細りになる。自分も老いてきたし、人生をどのように終わらせるかを考えなければならない。自立して生きていけない息子を抱えて、不安と心配の日々である。
 信頼できて尊敬できる人がいれば、一緒に助け合いながら生きていくのは幸せに違いない。セックスの相性がよければ言うことなしだ。クロディーヌは、僥倖に恵まれてそういう男と出逢うのだが、迫られる選択は、クロディーヌにとってあまりにも苦しい。
 
 大人の恋物語である。性欲に突き動かされる思春期の恋は卒業した。信頼と尊敬がとても大事で、互いに心の支えになる。一緒にいれば、絶望せずに生きていけるかもしれない。あと20年、あと30年、人生を楽しめるだろう。しかし自分には息子に対する責任がある。自立できない以上、死ぬまで親の責任だ。責任を放棄することはできない。
 女として、個人としての将来と、子供に対する責任との間に引き裂かれそうになるクロディーヌだが、障害者でも、子供が与えてくれた幸せは、もちろんある。進むべき道は決まっているが、心はいつまでも揺れ動く。19世紀の小説のように、憂いに満ちた作品である。

映画「ニッツ・アイランド 非人間のレポート」

2024年12月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ニッツ・アイランド 非人間のレポート」を観た。
ドキュメンタリー映画『ニッツ・アイランド 非人間のレポート』公式サイト

ドキュメンタリー映画『ニッツ・アイランド 非人間のレポート』公式サイト

ドキュメンタリー映画『ニッツ・アイランド 非人間のレポート』11/30(土)~シアター・イメージフォーラムにて公開! 狂った“島”にようこそ─フランスの撮影クルーがオンライ...

ドキュメンタリー映画『ニッツ・アイランド 非人間のレポート』公式サイト

 2019年製作の邦画「劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん」では、オンラインゲームのFF14をプラットフォームにして、参加者が協力プレイをする展開に、引退した父親を引き込んでコミュニケーションを図ろうとするシーンが描かれていた。いわばホームドラマである。

 本作品は逆に、仮想空間に誰でも参加できるオンラインタイプのサバイバルゲームDayZのバーチャル空間だけが描かれる。隣りにいるアバターの本体は遠く離れた外国にいるのが、普通のことのようだ。参加者同士が挨拶するところからはじまり、行動をともにしたり、哲学的な話をしたりもする。コミュニケーションは英語だから、英会話ができなければ、参加しても面白くないかもしれない。

 ベテランの参加者たちは、10年とか、1万時間とか言っていたから、私生活の大半をゲームの空間で過ごしている訳だ。仕事でもなく金儲けでもなくセックスでもない関係性を、見知らぬ人と維持し続けるのは、かなりしんどいことのように思える。参加者は人間関係を面倒臭がらない人たちばかりなのだろう。コミュニケーションから何か得られるかというと、何も得られない場合のほうが多いように見えた。居酒屋やバーで隣の人と話すようなものだ。役に立つ話が聞ける僥倖もあるが、大抵は無駄話に終わる。

 参加者は口々に現実逃避と言っていた。それだけ辛い現実を生きているのだろうなと想像はするが、バーチャル空間でゾンビを斬り殺したり、勝手に野菜を作った人を撃ち殺したりするのは、楽しいのだろうか。むしろ訪れたこの空間でも、ストレスが溜まりそうな感がある。
 徒党を組んで同じ色の腕章を巻いたり、同じ場所にみんなで行ったりする。違う色の腕章の参加者たちは敵なのだろうか。撃ってくる人もいて、サバイバルゲームだから死なないように逃げ惑う。かといって緊迫感や緊張感はまったくない。恐怖感もない。

 DayZをやったことがある人には理解できる作品なのかもしれないが、当方は初見で、ゲームの設定も空間もよくわからなかった。映画としては、ストーリーもなくて行き当たりばったりの会話が続くだけだから、最後まで寝ずに観るのが大変だった。お疲れ様でした。