三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

ローズS~桜花賞馬ジュエラー

2016年09月18日 | 競馬

ローズステークスG2。 

◎ジュエラー
〇シンハライト
▲レッドアヴァンセ
△デンコウアンジュ
△フロムマイハート
△カイザーバル 

これといった夏の上り馬も見当たらないので、春の勢力がそのまま結果となりそうだ。本命は桜花賞馬ジュエラー。桜花賞で上がりタイム33秒0を記録し、シンハライトの上り33秒7を0秒7も上回っている。スローの決めて勝負ならこちらが上と見た。
対抗はオークス馬シンハライトで、この2頭が3着馬を大きく引き離すマッチレースになりそうだ。
3着争いはオークス組が主力で、7着で最先着のレッドアヴァンセと、同タイムの9着だったデンコウアンジュ。オークスは16着だったが1800m得意のフロムマイハート
夏を使った馬のなかで唯一買えるのは久々の前走が1番人気だった、阪神コース得意のカイザーバル

馬券は3連単◎-〇-▲△△△(6-7-3、5、9、12)4点勝負


セントライト記念~穴はステイパーシスト

2016年09月18日 | 競馬

セントライト記念G2。
久々に馬券を買う。

◎ディーマジェスティ
〇ゼーヴィント
▲ステイパーシスト
△マウントロブソン

本命はもちろん皐月賞馬ディーマジェスティ。この馬が中山で負けることは考えづらい。相手探しのレースだろう。2着の最有力は前走ラジオNIKKEI賞を差し切ったゼーヴィントディーマジェスティと同じ、ブライアンズタイムにディープインパクトという血統。スローペースの切れ味勝負になりそうから、自在性のあるこの馬には有利だ。
穴は大外のステイゴールド産駒ステイパーシスト。とても小柄な馬で春先は振るわなかったが、4か月半ぶりで20キロ増で出走した前走は馬体に成長が感じられたし、勝ちっぷりもよかった。
抑えは中山のスプリングステークスを勝ったマウントロブソン。ダービーでも出遅れた割にそれほど負けていない。

馬券は◎ディーマジェスティを頭の3連単(4-5、10、12)6点勝負。 


映画「超高速!参勤交代リターンズ」

2016年09月18日 | 映画・舞台・コンサート

映画「超高速!参勤交代リターンズ」を観た。
http://www.cho-sankin.jp/

人を支配するための基本的な方法は暴力だ。殺されたり痛い目に遭わされたりするとわかれば、そうされないように暴力にひれ伏すことになる。権力の歴史は、そこから始まった。
民主主義の時代になって国民が権力の主体(国民主権)とされても、実態は変わらない。支配するものとされるものの構図は相変わらずで、やはり暴力が介在する。警察権力は一種の暴力装置だ。
悪いことをしなければ警察の暴力に遭うことはないと、のほほんと構えている人は、一度沖縄の辺野古に行ってみるといい。警察や海上保安庁による暴力で、丸腰の国民が痛めつけられている。
江戸時代はさらにわかりやすく、権力が江戸に集中していた。そして権力の集中を保つために大名を江戸に参勤させていたのだ。大坂夏の陣以来の権力闘争の流れから生まれた制度といっていい。

さて、本作はコメディとして大変よくできた作品で、登場人物がいたって真面目に職務を果たそうとする分だけ、彼らの失敗やボヤキがとても笑える。
8代将軍の時代になっても、武士のなかには未だ戦国の気分が残っており、時の権力には従うが、権力はあくまで暫定的なものにすぎず、権力闘争によって人から人に移っていくものだとして権力自体を相対化する考え方が続いている。場合によっては毅然として上意を断ることもあり、それが映画の爽快な笑いの土台となっている。
民の生活や地産の食べ物が大好きな殿様と、時と場所を選ばない深キョンの女心が愉快なのは、権力や悪を笑い飛ばす庶民の力が痛快だからだ。
コメディとしては意外なほど壮大な世界観がある傑作である。


映画「Le loi du marche」(邦題「ティエリー・トグルドーの憂鬱」)

2016年09月11日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Le loi du marche」(邦題「ティエリー・トグルドーの憂鬱」)を観た。
http://measure-of-man.jp/

現在、もはやどの文明国も大きな成長を望めない段階にきている。右肩上がりは20世紀でほぼ終了し、下り坂の時代になったのだ。そこにグローバル化の波が押し寄せ、人も金も物も国境を越えて自由に行き来するものだから、国家という枠組みでは制御しきれない状態になった。そこで20世紀の後半から、各国政府の代表はサミットだとか、G20だとかで問題の解決を図ろうとしてきた。しかし発案者の意図とは違って、各国の政治家は旧態のままで相変わらず自国の利益優先だ。だから何度会議をやってもグローバル化による問題は解決せず、世界はいつまでも安定しない。それは取りも直さず各国の国民が世界の安定よりも自分の利益を優先していることに等しい。

主人公トグルドーもそんなグローバル化と下り坂の影響で生活に支障をきたしているが、腐らずに淡々と向き合おうとする。だが他人の小さな悪事に目を凝らす仕事に鬱々とする日々が続く。

フランスはさすがに哲学の国だ。救いようがない状況をそのまま描く。そして安易な希望は抱かない。映画は見ている時間だけではなく見終わってからも何日も何か月も余韻が残り、主人公の後ろ姿がいつまでも目に浮かぶ。

邦題「ティエリー・トグルドーの憂鬱」は、安直でお手軽な発想ではあるが、この映画に限っては邦題として秀逸である。原題の「La loi du marche」は無理に和訳すると「市場の法律」みたいになる。巨大スーパーの警備係の苦労話に矮小化しているみたいで、映画のタイトルとしては珍しく邦題の方が優れていると思う。

イギリスの詩人Wystan Audenの作品「THE NOVELIST」に次の一節がある。
For, to achieve his lightest wish, he must
Become the whole of boredom, subject to
Vulgar complaints like love, 
どんなに軽い望みを達するためにも
小説家は憂世の倦怠の全量に化さねばならぬ、
恋みたいな凡俗の嘆きにも身をかがめ、
(深瀬基寛訳)

友人や同僚たちの悩み、家族の不幸を背負ったトグルドーのやりきれない背中を見るだけでも価値がある映画だ。


映画「Little Boy」(邦題「リトル・ボーイ 小さなぼくと戦争」)

2016年09月09日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Little Boy」(邦題「リトル・ボーイ 小さなぼくと戦争」)を観た。
http://littleboy-movie.jp/

アメリカ映画ではあるが、メキシコの監督Alejandro Monteverde(アレハンドロ・モンテヴェルデ 39歳)の演出で、第二次大戦の末期を冷めた観点で映している。往々にしてナショナリズムやヒーロー物語に陥るハリウッドのお手軽B級映画とは一線を画す傑作だ。
西海岸の小さな町オヘアが舞台だ。世界中のいたるところの街と同じように、この町にも貧富の差があり、人種差別があり、いじめがある。体の小さな主人公はその理由だけで苛めの対象になっている。明るい性格の父は息子が小さくてもそのうち大きくなると楽観的だ。息子の小さな変化や成長を喜び、息子を勇気づける。だから息子はいじめに遭ってもひねくれたりいじけたりすることがない。この設定はとても大事で、素直に世界を観る少年の視点が映画を支えている。この小さな町にも戦争の風が吹き、人々はナショナリズムと差別主義に踊らされている。戦争下での愛を説くのはひとりの司祭だけだ。
その司祭の親友が、海岸の家にひとり暮らす日本人のハシモト。やはり差別を受け、暴力を受けるが、復讐などすることなく、毅然と生きている。偶然がいくつか起こって物語が進むのと同時に、少年はハシモトとの交流を通じて世界のありようを少し理解する。そして少し成長する。

配給元の東京テアトルがポスターに「小さな町に起きた奇跡の物語」という謳い文句をつけてしまったおかげで、映画の印象が軽いものになってしまったが、戦争、原爆、人種差別、貧困、いじめ、国家主義、宗教など、現在のアメリカが未だに抱えつづける諸問題を見事に盛り込んでいる。
それでも批判的な映画ではない。厳しい環境の中で素直に生きる少年と、前向きで優しくて明るい父親、それに8歳の少年の意思を尊重し、おおらかに包み込む愛情深い母親。誰にも平等に対等に接する毅然としたハシモト。それぞれの生き方がとても愛しく思える映画なのだ。

広島に落とされた原爆のニックネームがLittle Boy、長崎のはFat Manだ。日本でLittle Boyが爆発したニュースに対する町の人々の反応が、遠く離れた極東の国での戦争に対する一般的なアメリカ人の心情を表している。直後に爆発後の悲惨な映像が映され、その対比に胸が痛くなる。


舞台「クレシダ」~平幹二郎のエネルギーとパワー

2016年09月06日 | 映画・舞台・コンサート

三軒茶屋の駅前のシアタートラムで舞台「クレシダ」を観た。
http://www.cressida-stage.com/

「からだすこやか茶」のCMでおなじみの29歳の浅利陽介をはじめとする若手俳優を向こうに回して、82歳の平幹二郎は、唾が飛ぶのが何度も見えるほどの熱演だった。まだまだ枯れていないのだ。

さて、事前にシェークスピアの劇「トロイラスとクレシダ」を予習して行ったのが見事に裏切られ、芝居はシェークスピアが亡くなった後のロンドンの劇団が舞台だった。ルネサンス期の演劇では、女性が舞台に上がることはなく、若い男性が胸に詰め物を入れて女性を演じていたらしい。子供の人身売買や誘拐も普通に行なわれていた模様。面食らう設定だが、わかりやすい演技なのでそのあたりの事情は芝居を観ているうちに自然に飲み込める。
平幹二郎が演じるジョン・シャンクが主役である。シェークスピアやベン・ジョンソンなどの台本に対する思い入れは並大抵ではなく、演劇に対する考え方も一本筋が通っている。しかしルネサンスの変革の波は演劇についても例外ではなく、ジョン・シャンクの考え方は徐々に時代遅れになろうとしている。しかし、演劇人として芝居の歴史に足跡を残したのは確かだ。シャンクはその自信をもとに、女性が登場するであろう未来の舞台に思いを馳せる。
劇団はひとつの家族のようで、それぞれの期待と気遣いと愛と親しみと憎しみが錯綜するのが見事に表現されていた。なかなかに気持ちのいい演出だ。
今日が2日目。初日のたどたどしさはなく、慣れてダレることもないちょうどいい日だったのかもしれない。兎に角、平幹二郎の溢れんばかりのエネルギーとパワーに圧倒されたのだった。

ちなみに当時の1ポンドは約24万円で、橋本淳演じるジョン・ハニーマンが人妻からもらったペンダントは20ポンドで約480万円、ジョン・シャンクが使い込んだ劇団の金100ポンド、および浅利陽介演じるスティーヴン・ハマートンが人身売買で値をつけられた100ポンドは2400万円ということになる。この金額を踏まえてから観ると、さらにわかりやすい。
おすすめの芝居である。


映画「Race」(邦題「栄光のランナー1936ベルリン」)

2016年09月03日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Race」(邦題「栄光のランナー1936ベルリン」)を観た。
http://eiko-runner-movie.jp/

オリンピックイヤーに日本で公開されるというタイムリーな映画ではあるが、アメリカ映画とは違って、世界の問題と正面から向き合う真摯な姿勢がある。
主人公は貧困と公的な人種差別の厳しい状況の中で、ささやかな幸せのために陸上競技に打ち込む。一方、アメリカのオリンピック委員会はナチスが主催するベルリンオリンピックの出場について紛糾する。オリンピックは政治と切り離されるべきだという説について、ナチが国威発揚のためにオリンピックを政治利用しているから参加すべきではないという議論があり、対して、主催国の政治状況がどうあろうと、アスリートは政治と無関係だから参加すべきだという議論もある。
僅差の投票でアメリカはベルリンオリンピックに参加することになり、オーエンスが大活躍するありさまが主なストーリーとして描かれてはいるが、アメリカ代表で現地に行ったユダヤ人選手が出走できなかったり、ドイツ選手が専制政治に苦悩していたり、ドイツのジャーナリストが権力者から脅されたりと、サイドストーリーに当時の問題が散りばめられていて、英雄の活躍物語だけではないことがわかる。観客はそこのところをきちんと観なければならない。オリンピックのありようについて警鐘を発している映画でもあるのだ。さすがにフランスとドイツの映画である。ハリウッドのお手軽B級映画とは一線を画している。

NHKの解説者がオリンピックの意義を国威発揚だと解説する日本も、ナチス時代のドイツとあまり変わらない。さすがにアベ政権の大本営放送である。政治と切り離されなけえればならないというオリンピックの精神を全く理解していない解説者だ。穿った見方をすれば、アベ政権はベルリンと同様に東京も国威発揚の場にしようとしているということをそのまま解説しているのかもしれない。だとすれば、2020年の東京オリンピックはナチスドイツのベルリンオリンピックと同じになる。そういえば、アホウ太郎が「ナチスに見習えばいい」と言っていたっけ。


映画「11 minut」(邦題「イレブン・ミニッツ」)

2016年09月02日 | 映画・舞台・コンサート

映画「11 minut」(邦題「イレブン・ミニッツ」)を観た。
http://mermaidfilms.co.jp/11minutes/

登場人物の全員が俗物であり類型的である。だから誰にも感情移入できない。人物が映画に登場するためには、多かれ少なかれ、理由が必要だ。典型に対する類型、正義に対する悪、または特別な生い立ちや体験など、映画のシチュエーションに合った人物でなければならない。
しかしこの映画では、そこら辺にいそうな俗物たちが、それぞれの小さな欲望のために利己的に動くだけだ。並列的に描かれるので、誰を中心に見ればいいのかわからず、注意が散漫になってしまう。簡単に言えば退屈ということだ。
ラストシーンも期待外れで、この映画を作った意図が理解できない。偶然の事故に巻き込まれる話なら、震災の被害者を取材した短いドキュメンタリーの方が、まだ状況を理解できるし、同情も共感もできる。


映画「High-Rise」(邦題「 ハイライズ」)

2016年09月02日 | 映画・舞台・コンサート
映画「High-Rise」(邦題「 ハイライズ」)を観た。

だだっ広い土地にいくつかのマンションが建っている。ひとつのマンションはひとつの国家として描かれる。国家には階層があり、上の階ほど金持ちで権力がある。最上階に住むマンションの設計者が支配者だと思われているが、実際はそれほどの力はない。
停電をきっかけにパニックが起き、最初は下の階が被害を受けていてのがだんだん上階へと広がっていく。
死は日常的で性の倫理は忘れ去られる。結社があり、裏切りがあり、詐欺がある。反体制派がいて、権力による弾圧がある。変化を求める者と変化を受け入れられない者。どこまでも関わる者と傍観する者。
国家は常に矛盾を抱え、支配層も被支配層も本音を隠し続けることで、何とか体裁を保っている。しかしひとつのきっかけで各階級の本音が火山のように噴火する。映画は、いまの国家が薄氷の上に乗っていて、いつの日にかどうしようもなく崩壊してしまうだろうことを暗示している。そして共同体が崩壊したあとの劣悪で理不尽な状況でもなお、人間は日常的に生きていくのだ。

映画「Tudo Que Aprendemos Juntos」(邦題「ストリート・オーケストラ」

2016年09月02日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Tudo Que Aprendemos Juntos」(邦題「ストリート・オーケストラ」)を観た。
http://gaga.ne.jp/street/

先日観た「Les Heritier」(邦題「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」)も落ちこぼれの学生たちが歴史コンクールを目指して努力するうちに、様々な問題に立ち向かえるようになっていくという映画だったが、こちらはスラムの子供たちが音楽を通じて荒んだ生活から抜け出そうとする映画だ。「Les Heritier」のレビューにも書いたが、日本で放送中のドラマ「仰げば尊し」に似ている。設定は少しずつ違うが、コンセプトは同じである。
同じコンセプトの映画やドラマがフランスとブラジルと日本で同時期に作られたのは、偶然ではないと思う。

世界は価値観が停滞し、閉塞状況にある。共同体や組織の同調圧力が強く、個人の価値観は軽んじられるのだ。そして個人の価値観を実現するためには共同体の価値観に認知されることを目指すしかないという撞着に陥る。結局は金持ちになるかならないかという話になってしまう。勝ったら金持ちになるスポーツマンと同じだ。
この映画も例外ではなく、だから抜本的な救済はない。しかしシビアなブラジルで作成された映画だけあって、日本のドラマと違って安易な和睦に至ることなく、現実を見据えたままだ。世界は救いようがないが、それでも人生がある。