三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Genius」(邦題「ベストセラー編集者パーキンズに捧ぐ」)

2016年10月26日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Genius」(邦題「ベストセラー編集者パーキンズに捧ぐ」)を観た。
http://best-seller.jp/

かつて中上健次が「泉から水が溢れ出るようにものを書きたい」という文章を書いていた。記憶が定かではないので正確な言葉ではないが、文章を書く人間ならだれでも願うことだ。
「Genius」という映画の原題の通り、無名の作家トマス・ウルフは溢れ出るように言葉を紡ぎ出す。まさに天才である。しかし編集者にとって多すぎる言葉は邪魔でしかない。ひとつの場面を描くのに多すぎる文章は読者がついてこれないのだ。
フランスの作家マルセル・プルーストが「失われた時を求めて」という超大作を書いていて、若い時にその全7巻をやっとの思いで読了したことがある。「プチットマドレーヌ」というお菓子を紅茶に浸して食べるのに延々とページを費やすなど、長い長い小説だったと記憶している。ひとつの場面がフラッシュバックを想起させ、さらに次のフラッシュバックを呼ぶなど、なかなか物語が前に進まない。フランス文学を専攻していなければ放り出してしまっただろう。
この映画は1920年代が舞台で、「失われた時を求めて」が発行されたのと同時代だ。フランスは哲学と芸術の国だけあって、フランス人の編集者は小説家の意向を尊重したのだろう。長い小説は長いまま発行された。

しかしアメリカ人の編集者マックス・パーキンズは哲学や芸術よりも商売が優先だ。ベストセラーを目指すためには文章を削りに削って読者をジェットコースターに乗せなければならないことをよく知っていた。
原稿の添削は作家との真剣勝負だ。作家がひとつとして言葉を削りたくない、むしろさらに書き足したいのに対し、編集者は表現を凝縮して読者を引っ張っていく作品にしたい。そのせめぎ合いの末にベストセラーが生み出される。

天才はひたすら生み出していくだけだ。周囲は天才を制御しようとするが、うまくいかない。巻き込まれて傷つき、生活さえ犠牲にしてしまう。それでも天才を愛さずにいられない。ニコル・キッドマンが女心を見事に演じていた。
編集者マックスは天才がその才能ゆえに周囲のことなど考えられないことを知りつつ諫言を重ねるが、無駄な努力であることは分かっている。天才は世界の中心にいるからだ。

コリン・ファースは重みのある中年を実に重厚に演じていた。来週公開の「ブリジッド・ジョーンズ」でコミカルな元夫を演じるが、何をやらせても上手い。ジュード・ロウはわがままで猪突猛進する天才の役がとても楽しそうだ。
フィッツジェラルドやヘミングウェイが脇役で出てきて、文学好きにはたまらない素晴らしい作品だ。


高樹沙耶逮捕の疑問

2016年10月26日 | 政治・社会・会社

読売テレビが放送している平日の昼のワイドショーに「情報ライブミヤネ屋」という番組がある。宮根誠司という元アナウンサーの冠番組だ。
10月26日に高樹沙耶の大麻所持の疑いでの逮捕について、高樹の主張を「間違った知識に基づいた主張」と一刀両断していたが、本当に間違った知識だったのかという論拠はない。また、コメンテーターに対して、「大麻は脳に悪影響を与えるんですよね」と決めつけるような質問をして、大麻が悪だという答えを強制している。
高樹沙耶の逮捕は厚生労働省の麻薬取締部によるものであるが、逮捕の正当性についての検証がない。本来は第三の権力としての報道機関が行政権力の暴走を防止するために、逮捕に足るだけの根拠を調査するべきなのだが、現代の報道機関は権力の犬と化しており、行政の発表を垂れ流すだけの報道をする。しかも「推定無罪」の原則はどこ吹く風、完全に有罪の論調で断罪する。このような報道は報道機関としての体を成しておらず、個人としての国民の利益よりも組織を重んじる国家主義者のハンドスピーカーに等しい。行政から「このように報道しなさい」という指示書が来ている可能性さえある。

高樹沙耶は参院選で大麻の合法化について主張した。これは厚生労働省にとって、特に麻薬取締部にとって非常に不都合な主張である。麻薬取締部のレーゾンデートルが脅かされるからだ。選挙期間中は手出しができなかったが、選挙後には何としても高樹沙耶の口を塞いでしまいたいという悲願があっただろう。そして今回の逮捕である。

麻薬取締部はこれまでの取り締まりで押収した大麻や器具がたくさん保管しているはずだ。それらを麻薬取締官自らが高樹沙耶の家に持ち込んで「ありました!」と「発見」したと考えても全く不思議ではない。証拠の捏造である。そもそも家宅捜索の令状を出した裁判官は、先日の辺野古移設訴訟で国の主張を全面的に認めた裁判所と同じ穴の狢ではないか。

高樹沙耶や大麻の所持や使用を正当化するつもりはないが、悪いことをしたから逮捕されたという安易な認識は庶民レベルなら許されるが、報道機関としては公平な視点とは言えない。少なくとも彼女は日本国民のひとりであり、逮捕されるということは基本的人権が著しく損なわれる大問題だということを認識しなければならないのだ。行政という強力な権力がひ弱な一個人を逮捕するには確固たる証拠がなければならない。本当にそのような証拠があったのか。

わが国では行政に都合の悪い事実や組織、そして個人は、警察組織をはじめとする暴力装置によって合法、非合法を問わず排除される。現代社会の精神構造は、かつて拷問や赤狩りを行なった悪名高き特高警察の時代と、全く変わっていない。今も昔も、権力者に反対することは共同体に対する謀反だとする牽強付会が大手を振ってまかり通る。

こんな日本に未来などない。