三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「そして、バトンは渡された」

2021年10月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「そして、バトンは渡された」を観た。
 
 他人の人生の転機に立ち会うことはそれほどない。あったとしても、そのときはそれと気づかず、あとになって、そういえばあの時があの人の転機だったのかと思うことはある。ただ、明らかに他人の転機に立ち会っていることを自覚する時がある。結婚式だ。
 新郎新婦のふたりだけではなく、親や兄弟姉妹、祖父母、場合によっては息子や娘など、ふたりに深い関わりのある人たち全員のそれまでの人生が垣間見える。そこに結婚式の感動がある。少し前に当方が参加した結婚式で、父ひとり娘ひとりで生きてきた父が、花嫁姿の娘に向かって「娘よ」を歌ったときは、家父長的な歌だと知りつつも、思わず感動して泣いてしまった。
 秋篠宮家の眞子さんは結婚の儀をやってもらえなかったが、儀式としての結婚の儀はなくても、一般人として普通の結婚式をして、みんなから祝福されてほしいと願う。眞子さんだって同じ人間だ。たまたま皇室に生まれただけなのである。
 
 さて作品であるが、全体として何かダレるところがあった。五七五の俳句で表現できるところを、五七五七七の和歌で長々と語ってしまった感じなのだ。
 
 本作品のキーワードは作り笑顔と「ずるいよ」という台詞だと思う。作り笑顔については、ホラー映画を作り笑顔を浮かべながら観ると、怖さが半減するという実験の通りである。つまり脳は自分の身体からしか情報を得ることができないので、作り笑顔を浮かべると自分は笑顔だから大丈夫なのだと受け取り、恐怖心が薄まるというメカニズムなのだ。
 石原さとみの演じた梨花がみぃたんに教えたかったのは、まさにそういう脳のメカニズムだ。もちろん梨花がメカニズムを知っていたわけではない。しかし「女の子は笑顔で可愛さが3割増しになる」「笑顔でいるとラッキーがやってくる」といった台詞から、女の笑顔の威力を本能的に理解していたことがわかる。それは知識として知っているよりもよほど強力である。
 
 みぃたんもやはり本能的に義母の言うことを理解したのだと思う。笑顔はみぃたんの精神安定剤であり、みぃたんの強さである。それを維持しつづけたことで、みぃたんは誰とも争わない優しい高校生に育った訳だ。誰のことも責めないし、責められても柳に風と受け流す。みぃたんの本名は当然、優子でなければならない。
 その点を考えると、優子が森宮さんを非難したシーンには違和感を感じる。予告編で流れたあのシーンだ。優子の性格からは、あのシーンは生まれない。原作にもあるのかどうかは読んでいないので不明だが、あったとしてもカットしていいシーンではないかと思う。
 作品全体として微妙にダレるようなところがあったのは、そういった無駄なシーンと冗長な台詞をカットできなかったところに原因があると思う。
 
 ただ「ずるいよ」という短い台詞は、二度ほど胸のすくタイミングで使われていて、このふたつのシーンは見事だったと思う。他のシーンでももっと台詞をカットしたり短縮できたりする部分がたくさんあった。
 前田哲監督は「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」でも冗長な台詞が多かったが、大泉洋と高畑充希という芸達者のおかげで上手にまとまった作品になっていた。しかし本作品は役者がカバーできる以上に冗長なシーンが多かった。特に田中圭が演じた森宮さんがタイトルの意味を説明する無駄に長いセリフが最後にあった。登場人物がタイトルの意味を説明してしまうと、観客の想像力を削いでしまう。森宮さんと早瀬くんが眼を合わせて頷くだけでよかった気がする。
 
 ピアノのシーンはよかったと思う。早瀬くんが弾いたショパンの「英雄ポロネーズ」がとても力強くて感心した。少し前にサントリーホールで及川浩治さんが弾く「英雄ポロネーズ」を聞いたが、同じくらいの力強さだった。
 
 ラストも泣き虫のみぃたんで終わるのかと思ったが、最後の最後は、母の言いつけを守って満面の笑顔を見せる。おかげで、永野芽郁の渾身の泣き顔と、力一杯の笑顔が印象として残る作品となった。当方もひとこと言いたい。「ずるいよ」