三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」

2021年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」を観た。
 
 園子温ワールド全開ではあるが、やや頭でっかちになりすぎたきらいがある。本作品と同じく東日本大震災を扱った園監督の映画「希望の国」では、原発事故が起きた後、いかにして生きていけばいいのか、不安と恐怖の中での生活を現実的に日常的に描いていて、とても共感できた。しかし本作品は、被災者と原子力ムラを象徴的に描きすぎていて、観客は意味がわからず置いていかれてしまう。それを補完するために出演者が声を揃えて紙芝居で原発事故の経緯を説明する。これでは映画というよりも演劇である。実際に役者陣の発声の仕方もナチュラルさを欠いた演劇的な発声だった。
 主演のニコラス・ケイジはすっとぼけたような誠実さが持ち味だが、本作品では彼のよさをちっとも発揮できていなかった。演劇の舞台にニコラス・ケイジを立たせてもどうにもならない。演劇を映画でやろうとした園監督の意図や心意気は感じられるものの、映画としての完成度がどうしても低くなってしまうから、高い評価ができない。
 
 ただ、原子力ムラの人々に対する園監督の怒りの激しさだけは十分に伝わってくる。アベシンゾウとイシハラシンタロウをミックスさせたと思われるガバナーという人物が醜悪な俗物に描かれていて、そこだけは少しだけ笑えるが、実際の悪人たちはもっと複雑で、善人の仮面をかぶっている。本作品は人物が典型的すぎて、観客に響いてくるものがない。これでは映画としての意味をなさない。
 園子温監督とニコラス・ケイジという組み合わせに期待していただけに、肩透かしを食らった感じである。当方は最後まで鑑賞したが、他の観客の中には二人ほど、映画が始まって30分ほどで早々に席を立って帰ってしまった人がいた。やむを得ない気もする。

映画「人と仕事」

2021年10月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「人と仕事」を観た。
 
 コロナ禍は世界大戦と同じくらいのインパクトを与えたと思う。コロナ禍の前と後とでは、世界がまったく異なる。コロナ禍の後の世界を如何に生き延びるか。もはやコロナ前の生き方は通用しなくなっている。市場は縮小し、仕事はなくなって、税収も乏しいから福祉も行き渡らない。これが世界中で起きている。
 しかしすべての人が困っているわけではない。経済が縮小するとき、最終的にしわ寄せが行くのは最も弱い人々のところだ。ある程度以上の収入がある人は、多少減少しても生きていけるが、ギリギリの生活だった人は、収入が減少したら生きていけない。子供の教育費にと爪に火を灯すようにして蓄えていた僅かな預貯金を取り崩して、その日暮らしをするしかない。蓄えが底をついたらどうなるのか。
 
「最後は生活保護がありますから」と総理大臣のスガは言い放った。生活保護を受けるのにどれだけハードルが高いか、実態も知らないはずだ。「働けるでしょう、選ばなければ仕事はありますよ」というのが役所の職員の口癖である。だったら役所で雇ってくれ。代わりにあんたが辞めて、生活保護を受けに来ればいい。言ってやりますよ「働けるでしょう、選ばなければ仕事はありますよ」
「三密」や「不要不急」という言葉を売り文句にして、映画館や飲食店を悪者にすることでコロナ無策の批判を逃れた都知事。コロナ禍にこの都知事でなければよかったのにと思っていたが、迎えた都知事選で、小池百合子はまたも圧勝した。テレビに出て「三密と不要不急の外出を避けてください」と、都民税を湯水のように使って働いてますよアピールのCMを打てば、他の候補者は手も足も出ない。
 医療関係者は休みなしのハードワークで、欲しいのは休息と収入増だったが、政府がやったのはブルーインパルスの飛行を見せただけだ。典型的な「パンとサーカス」の「サーカス」の方である。安易に感動する人々が多かったのは驚いた。国民は政治を見抜く力を完全に失っているのだ。
 
 本作品は志尊淳と有村架純という若手の俳優が人々の話を聞くスタイルで、謙虚な姿勢には好感が持てたが、もう少し踏み込んだ聞き方をしてもよかった。インタビューを受けた人々の話から本質が浮かび上がってこなかったのが残念である。志尊くんが着ていた胸に「DESPERATION(絶望)」の文字のあるシャツは何かの意図があったのだろうか。
 
 それでもひとつ解ったことがある。言葉の問題である。福祉施設の保母さんが児童に自分のことを「先生」と呼ばせている。そして命令口調だ。この保母さんが一生懸命に仕事をしているのは分かるが、どこかで子供たちに言うことを聞かせたいという無意識の願望がある。だから自分のことを「先生」と呼ばせる。意識せずに上下関係と差別を生み出しているのだ。
 日本国憲法第14条には「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と書かれてある。
 学校の教師、弁護士、政治家などを「先生」と呼ぶことがそもそもおかしいのだ。ちなみに中国語で「先生(センション)」は英語の「ミスター」と同じで「~さん」程度の意味である。全員を「先生」と呼ぶなら問題はないが、一部の人だけを「先生」と呼ぶのは差別である。「先生」と呼ばれて嬉しがる低劣さこそが、日本人の精神性の本質なのだ。
 
 当方は仕事でも「先生」は使わない。相手が弁護士でも税理士でも「先生」ではなく「~さん」と呼ぶ。社内でも肩書ではなく「~さん」だ。新入社員に対しても「~さん」と呼んでいる。小さな子供も「~さん」と呼ぶ。それに命令口調は絶対にしない。敬語は使うが、丁寧語だけだ。尊敬語と謙譲語は使わない。格差を重んじる言葉だからだ。言葉遣いの基準となる目上や目下という考え方自体が、すでに憲法違反である。現代文の授業から、尊敬語と謙譲語を削除していいと思う。不要不急の言葉であり、不自由で不平等の有害な言葉である。
 
 たとえば誰に対しても「~さん」と呼び、誰に対しても丁寧語を貫く。これを家庭や学校や仕事場にまで押し広げたらどうか。親子も相手を「~さん」と呼ぶ。「おかあさん」や「おとうさん」はそのままでいい。しかし父も母も子供をさん付けで呼ぶのだ。教師も生徒も互いに「~さん」とよび、社長も社員も互いに「~さん」と呼ぶ。そして互いにですます調の丁寧語で話す。「先生」は廃止する。
 
 コロナ禍で児童虐待が増えたのは、人と人とが近づきすぎると不快になるからである。自分のコンフォートゾーンに他者が長い間入りっぱなしになるのは、誰にとっても不愉快だ。距離を取るのに最も簡単なのが、言葉を変えることである。テレビドラマの「相棒」がずっと支持されて高い視聴率を取り続けている理由のひとつは、水谷豊演じる杉下右京が常に丁寧語で話しているからである。気づいている人もいるだろう。あの距離感が、杉下右京を孤高の存在にしている訳だ。
 丁寧語は自動的に相手の人格を尊重する話し方である。そして犯罪の本質は他人の人格を軽んじることにある。児童虐待も同じだ。世の中の全員が杉下右京の距離感で話せば、犯罪や児童虐待が減るのではないか。もちろんそんなに簡単には行かないだろうとは思うが、少なくとも世の中から暴力や喧嘩、それにハラスメントは減るだろうという気がする。コロナ禍後は尊敬語と謙譲語と「先生」の廃止、それにですます調の丁寧語の普及が望まれる。言葉が変われば現実が変わる。「はじめに言葉ありき」(ヨハネ福音書第一章)なのだ。

映画「Onoda, 10 000 nuits dans la jungle」(邦題「ONODA 一万夜を越えて」)

2021年10月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Onoda, 10 000 nuits dans la jungle」(邦題「ONODA 一万夜を越えて」)を観た。
 
「ONODA 一万夜を越えて」という邦題がおかしい。「越えて」という部分だ。何を越えてきたというのか。何も越えていないではないか。いい加減な言葉の使い方は日本の政治家だけにしてほしい。原題の直訳で「ONODA、ジャングルでの一万夜」でよかったと思う。
 
 小野田寛郎さんは陸軍中野学校出身である。出身者は、派遣先で住民を掌握し、武力によって従わせたり、場合によっては徴兵して戦わせる。そうやって本土攻撃を少しでも遅らせるのだ。三上智恵監督の映画「沖縄スパイ戦史」によると、中野学校出身の将校が沖縄で「護郷隊」と呼ばれる少年兵を組織したそうだ。結果として多くの少年兵が戦死したり、上官命令で仲間から撃たれたりして、生き残った者はトラウマを抱え続けることになった。
 つまり陸軍中野学校は、徒らに住民を巻き込んで戦争を長引かせようとする将校を生み出しただけだったのだ。彼らは天皇陛下だとか皇軍だとかいう権威を信じ、日本は負けない、最後の一兵卒になっても戦うのだと信じていた。
 
 小野田さんも、学校で学んだ人心掌握術を発揮して兵隊や住民を巻き込み、最後まで戦線を守り抜くと勢い込んでルバング島に来た。しかし兵隊の誰も言うことを聞かず、結局残ったのは自分を含めて4人だけだった。
 そこから小野田少尉の狂気にも似た残留作戦が始まる。食料調達のために住民を襲い、家畜を殺す。ルバング島の住民にとっては小野田さんたちは山賊である。畑の作物を食い荒らすイノシシみたいな存在だ。猟友会によって駆除される運命にあった。たまたま駆除されないで29年もの間、生き延びたというだけの話である。
 
 本作品はフランス映画である。哲学の国の映画だから、世界を客観的に描く。ジャングルでの29年は、それは苦しい年月だったと想像される。しかし同情はしない。むしろ、まったく無意味な年月であったと切って捨てる。小野田さんを演じた津田寛治の虚ろな目の色がそれを物語っている。
 天皇陛下万歳のパラダイムから一歩も出ることができなかった小野田さんの精神性は、陸軍中野学校が生み出した罪なのだろう。小野田さんと同じように戦争を全肯定する人々が世界中で不気味に増加しつつある。その危機感がこの映画を製作した動機かもしれない。戦争がどれほど無意味で、無駄な死と、薄れることのない憎悪を生み出すだけかを明らかにした作品である。

映画「Wrath of Man」(邦題「キャッシュトラック」)

2021年10月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Wrath of Man」(邦題「キャッシュトラック」)を観た。
 
 ジェイソン・ステイサムの主演映画は大抵スカッとするのだが、本作品に限っては、リアルに作ったつもりなのかもしれないが、なんとなく冴えない印象だった。とにかく設定が判りにくいのがその理由だと思う。当方の理解は以下の通りである。
 
 主人公パトリック・ヒルは、正体不明の悪の組織のボスだ。FBIが25年間も捜査しているが、尻尾を見せない。離婚している妻との間に二十歳くらいの一人息子がいて、ヒルの生きがいである。帰省しているときにしか会えない息子との逢瀬を楽しんでいるときに、手下から電話があり、現金輸送車が右に行くのか左に行くのかだけを教えてほしいと頼まれる。やむを得ず近くに車を停めて現金輸送車の行く先を伝えるが、その直後に現金輸送車が襲われて、車の中にいた息子が外に出されて殺される。息子を撃った奴から自分も撃たれて瀕死の重傷を負う。
 退院して回復したヒルは、現金輸送車を動かしている警備会社に内通者がいると睨み、コネクションを使って警備会社に入社する。入社早々に現金輸送車が襲われるが、見事に犯人を殲滅する。しかし次に襲われたとき、襲ったのはヒルの手下たちで、ボスの顔を見るなり、早々に逃げ去る。同僚たちはヒルに不審の目を向ける。
 
 不明な点はいくつもある。ヒルの手下たちが現金輸送車の行き先を知りたかった理由がわからない。その現金輸送車が襲われたこととなにか関係があるのか。ヒルが息子に上着を取りに行かせた理由は何か。ヒルが警備会社で働きながら内通者を探している間、手下たちは何をしていたのか。どうして現金輸送車を襲ったのか。ヒルをサポートする女性は誰なのか。ヒルの高い戦闘能力はどこで身につけたものなのか。
 
 わからないことだらけである。これではスカッとしようがない。ガイ・リッチー監督は前作「ジェントルメン」では色々な仕掛けをして伏線を上手に回収していただけに、本作の不出来は残念である。ジェイソン・ステイサムを主演にするなら一匹狼にしないと、個性が活きないと思う。アメリカ映画にしてはわかりにくく、フランス映画のリメイクにしては寂寥感が薄かった。

映画「DIVOC-12」

2021年10月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「DIVOC-12」を観た。
 
「睡眠倶楽部のすすめ」
 前田敦子に合っている役だ。つまり無表情の主人公である。心の病気で入院している。妻思いの夫は、妻の衣類を洗濯して鞄に詰める。いつもの洗剤、またはいつもの柔軟剤。夫が届けてくれた鞄を開けると、衣類からいつもの匂いがする。少し安心。ロングのワンピースを着ると、何故か護られている気分になる。施設から出て、歩く。世の中様々。辛い人もいれば楽しそうな人もいる。それにアホもいる。主人公は少しだけ笑う。このときの前田敦子の表情がいい。何かに開眼したのだろうか。
 
「ココ」
 笠松将は性格の悪い役が多い気がする。好青年を演じればきっと共感されるはずだ。しかしこの作品でもひねくれた役だ。自分勝手で親を恨んでいる。親父みたいになりたくない。しかし状況が変わり、親父と同じ岐路に立つ。やっと少し親父を理解する。渡辺いっけいが優しい親父を上手に演じていた。
 
「海にそらごと」
 中村ゆりは相変わらず上手だ。脚本は王道である。誰が考えてもそうなるだろうというストーリーが、逆に新鮮だ。ひとつだけ「あんたのこと、可愛くなっちゃった」ではなく「あんたのこと、愛しくなっちゃった」のほうがよかったと思う。
 
「死霊軍団 怒りのDIY」
 清野菜名が生田斗真と結婚したのはアクション俳優同士だからなのだろうか。本作品での彼女のアクションを見る限り、体力の4要素である柔軟性、瞬発力、調整力、持久力が、いずれも素晴らしい。どんなスポーツでもそれなりの結果を出したと思うが、選んだのは女優。そこが清野菜名のいいところだ。店長の「時給上げるから助けてくれ」という台詞には笑った。
 
「タイクーン」
 金持ちのことである。漢字で大君と書くと「おおきみ」と読めるから大問題になる。ここはカタカナでタイクーンが正しい。焼売は上海料理だ。上海語が飛び交う。コロナ禍で20時閉店。現金で給料が渡される。一晩の贅沢。酒も女ももういい。ただひたすら寝たい。金持ちになるより分相応でいいみたいなラスト。悪くない。
 
「YEN」
 人の価値を勝手に決める。面白い。しかし人から勝手に価値を決められるのは面白くない。自分はいくらなのだ。普通なら生涯年収を考えて、自分は2億円とか3億円とか思う。しかしその分を使ってしまうわけだから、2億円マイナス2億円はゼロ円か、とも思う。生きている間、社会に迷惑をかけていればマイナス2億円。社会の役に立っていればもう少しマイナスが少なくなるかも。蒔田彩珠は達者だ。表情がとても上手い。
 
「流民」
 流民はジプシーかボヘミアンか。ほぼ石橋静河の一人芝居で、みんな同じ部屋だというホテルを流浪する。それぞれにあがいている人々。世界は鬱陶しい。火をつけてやろうかと思ったときに、繋がれた馬を見る。馬を放つ。同時に自分も解き放った。憎悪よりも自分の自由だ。つまらない場所からはどんどん逃げる。
 
「よろこびのうた Ode to Joy」
 富司純子がこんな役を演じるのかとちょっと驚いた。着物を着崩して、佇まいを落としているが、自然に湧き出す気品は隠しようがない。少し贅沢な短編だ。こんな上品な見舞客が来たら、何でも口にしてしまいそうだ。コロナ禍で困窮している年寄りに手を差し伸べようとしない冷酷な政治に対するアンチテーゼ。
 
「ユメミの半生」
 松本穂香が一生懸命で可愛い。波乱万丈と条件をつければ、想像力はどこまでも広がっていく。あなたは金星、私は火星、間にある地球で逢いましょう。待ち合わせは有楽町のティールーム。雨が降って濡れて来たあなたに、私はそっと小さな木綿のハンカチーフを差し出すの。あなたからもらった木綿のハンカチーフ。
 
「名もなき一篇・アンナ」
 中国人の恋人。美しい普通話(プトンファ)を話す。見た目も心も美しい。所々に哲学的な言葉を鏤める。流星くんに解ったのかどうか。一般とは逆に男が気持ちで話し、女が論理で話す。日本語と普通話。喪失感は何をもたらしてくれたのだろうか。
 
 
 それぞれの短編に味があって、とても面白かったし、優しい気持ちになれた。心が晴れ晴れとした気もする。とにかく観てよかった。

映画「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」

2021年10月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」を観た。
 
 本作品には全編を通じてどこか物悲しい雰囲気が漂っている。監督が違うからなのか、ダニエル・クレイグの持つ雰囲気なのか、よくわからない。ショーン・コネリーやロジャー・ムーアのすっとぼけた女好きの中年男が、格好をつけながらも、その一方でスパイとしての凄腕を発揮するというお気軽なストーリーで、いつもハッピーエンドが待っていた。
 しかし本作品のジェームズ・ボンドは、気障なシーンも気取って女を口説くシーンもなく、悲壮感さえ感じさせる。唯一、以前のボンドのようだったのが、アナ・デ・アルマスとのシーンだ。ダニエル・クレイグの前作「ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密」で共演した美女である。ジェームズはアクションシーンをスマートにこなし、とても楽しそうだった。ダニエル・クレイグがアナ・デ・アルマスを大好きなのは間違いないと思う。しかし当方は芸能記者ではないのでそれ以上は追及しない。
 
 ストーリーは多少強引なところもあるが、よく考えれば一本道である。次がどうなるのかが割とわかりやすくて、我ながらのめり込んで鑑賞した。ラストになって、あれ、もう終わり?と思ったほどだ。まったく長さを感じなかった。なんだかんだいっても007である。面白さは歴代作品に引けを取らない。それに本作品は物悲しさという点で異色である。オンリーワンのジェームズ・ボンドが完成したと思う。ダニエル・クレイグは見事だった。

映画「TOVE トーベ」

2021年10月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「TOVE トーベ」を観た。
 
 どうやらトーベ・ヤンソンの時代は、マンガは油絵や彫刻よりも格が下だと思われていたようだ。トーベ自身も世間の見方に抗い切れず、マンガは生活のためだと言い訳をする。しかしヴィヴィカはあなたの絵よりもあなたのマンガの方が好きだと正直な感想を言う。世間などお構いなしのヴィヴィカの自由な精神がトーベの創作意欲を解き放ったようだ。
 それにしてもヴィヴィカという女性は自由奔放という言葉を体現したかのようで、結婚していることに縛られることなく、男でも女でも手当り次第に関係を結ぶ。トーベは嫉妬心を覚えるが、そこは芸術家である。嫉妬心を覚える自分を客観視して、乗り越えようとする。
 フィンランドが特別に自由な国だった訳ではないと思う。ヴィヴィカが特別な女性だったのだ。ヴィヴィカに出逢えたことは、トーベにとって幸運だった。大抵の女性は家父長制みたいなパラダイムに縛られて不自由な思いをしていたに違いない。その証拠に、ヴィヴィカはしょっちゅうパリに出かける。フィンランドはヴィヴィカにとってさえも、やはり息苦しい国だったのである。
 
 同じことはフィンランドに限らない。当時の世界は女性解放が端緒についたばかりであった。21世紀の現在に至っても、女性解放は尚も道半ばである。10月4日に発足した岸田内閣の閣僚20人の内、女性はたった3人だ。日本も遅れているが、イスラム原理主義のタリバンが支配するアフガニスタンみたいに、女性の自由などハナから存在しない国さえある。
 トーベを取り巻く環境は、女性芸術家にとって生きやすいものではなかった。しかしトーベは、環境に内心まで支配されることはなかった。人間は環境に支配されやすい。戦前の日本の愛国婦人会やヒトラーに熱狂したドイツ人、それに渋谷で集団で騒ぐアホたちもそうだ。仲間とともに意味もなくひとつのパラダイムに酔いしれる。自分で考えないから楽なのだ。
 人間は考える葦だが、自分で考える人と人の考えを鵜呑みにする人に分かれる。子供の頃は他人の意見を聞いたり読んだりすると、その殆どでその通りだと思う。しかし沢山の意見や思想に触れるにつれて、食い違いやズレや矛盾に気がつく。一体どの意見、どの思想が正しいのか。そこから自分で考えることが始まる。
 本作品はトーベ・ヤンソンの30代から40代にかけての物語で、トーベが迷いから覚めて自分の道を進むようになる姿を描いている。そんな歳になってやっと自分で考えるようになったのかと思う人もいるかもしれない。しかし現実をよく見てみるがいい。女は結婚して子供を産むのが幸せだなどと唱えている年配者はたくさんいる。とっくの昔に終わった筈のそんなパラダイムを後生大事に抱いているのだ。それは自分で何も考えていない証左である。孔子は「五十にして天命を知る」(「知天命」)と言った。30代、40代はまだまだ迷いの年齢なのだ。
 トーベは迷いを捨てて、足元を固めた。トーベがふらつくようなダンスを踊るシーンは、その足元の固さを確かめているかのようである。ヴィヴィカの劇団員から「ムーミンはどうしていつも穏やかなのか」と聞かれたトーベは「それは臆病だからよ」と答える。トーベはついに彼女なりの哲学を持つことができたのだ。劇団員は理解できなかったが、ヴィヴィカは即座に理解した。そして笑った。本作品で最も幸せなシーンである。

映画「コレクティブ 国家の嘘」

2021年10月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「コレクティブ 国家の嘘」を観た。
 
 以前、中国人の知人と財布を拾ったときの行動について話したことがある。日本では大抵の人が警察に届けると言うと、中国では警察に渡す人などいない、拾った人のものになるか、警察官が自分のものにするかのどちらかだ、と言っていた。この話はいろいろな意味合いを含んでいて、必ずしも日本人の美徳や中国人の悪徳で済まされるものではないと思う。
 日本には全国いたる所に交番があって、拾得物の届出が簡単にできる。日本人は、殆どの警察官は遵法精神に富んでいてきちんとした手続きをしてくれるものと信じている。日本人は他人の目を殊更に気にするから、拾得物を横領して得られる利益よりも、横領がバレて会社を馘になったり共同体から責められたりする不利益を重く見る。幼児の頃から義務教育を通じて、物を拾ったらすぐに届け出るように教え込まれているから、横領することに自動的に罪悪感を感じる。「悪銭身につかず」という諺もある。そもそも日本人は小心者だから拾得物を平気で横領することができない。
 ちょっと考えてみただけで、日本人が拾った財布を警察に届け出る割合が高い(警察の発表では90%以上)理由がたくさん挙げられる。これらの理由が複合した結果、財布が持ち主に戻る割合が高くなったのだろう。倫理的に日本人が中国人より優れているわけではないと思う。現に話をした知人も、自分も日本に住んでいるから、拾った財布は警察に届けると言っていた。日本人も中国人も、同じ霊長目ヒト科ヒト属ヒトである。種が異なっているわけではない。環境と教育の差があるだけだ。
 
 さて本作品はルーマニア映画である。ルーマニアの政治と医療が日本以上に崩壊していることを知って、まず驚いた。しかしルーマニア人が日本人よりも道徳的に劣っているとは思わない。小心者の日本人も、赤信号をみんなで渡るのは平気である。選挙にしてもアベシンゾウや石原慎太郎が勝ち続けた。根っこから腐敗しているのは日本も同じだ。
 ただ、このような映画を製作する映画監督がいて、それをきちんと評価する人がいて、世界で上映するシステムがあることに救われる。そして作品に登場したような正義漢の保険大臣がいたことにも救われる。同じような正義の政治家は日本にもいるはずだ。
 
 いまは単館での上映だが、こういう作品が多く作られて、シネコンで上映されるようになれば世界も変わるかもしれない。そうなればこういう作品も不必要になるかもしれないが、赤信号をみんなで渡りたがる人たちを根絶することはできないだろう。戦争映画がいつまでも製作され続けているように、こういう作品が不要になる時代は多分来ない。
 それでも善意の政治家や役人たちが選ばれれば、社会システムと教育環境を改善していくことはできる。人類は少しずつではあるが、利己主義から脱して寛容さを獲得し、自由で平和な世の中を実現する方向に進めるかもしれない。

映画「護られなかった者たちへ」

2021年10月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「護られなかった者たちへ」を観た。
 
 前から思っていることだが、人間は組織や共同体に属しているとその利益を守らなければならないと思ってしまう傾向にある。組織や共同体の存続や利益が自分の生活に直結する訳だから、当然といえば当然の心理である。
 しかし公務員は利益を追求する訳ではない。英語で言えば Public Servant(直訳=公の奴隷)であり、国民の下僕(しもべ)である。国民に奉仕するのが仕事なのだ。
 
(日本国憲法)
 第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
   2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
 
 この条文は殆どの公務員が知っていると思うが、困っている人に給付金を支給する仕事に就いている役人は、自分が奉仕者であることを忘れているのだろう。給付金を自分の金のように勘違いしているフシがある。極端な例は小田原市役所の職員が「生活保護なめんな」とプリントされたジャンパーを着て受給者を威圧していた事案だ。そのジャンパーには「They are dregs」(「受給者はカスだ」)と印刷されていた。この事案は氷山の一角である。生活保護費の財源は税金であって公務員の金ではない。目の前の受給者もかつては働いて税金を納めてきた。職員がそこに思いが至らず、しかも税金を自分たちの金のように勘違いしていることが問題のひとつである。
 
 生活保護費に限らず、給付金の手続きは煩雑だ。今般のコロナ禍に対する持続化給付金や雇用調整助成金の手続きも、申請にはたくさんの書類をミスなく提出しなければならない。個人商店を営む老夫婦には、申請だけで気持ちが折れてしまう。企業であれば担当者が給料を貰いながら手続きをすすめるからまだマシだが、それでも煩雑な業務であり、中には社会保険労務士に20%の成功報酬を払って業務を代行してもらう企業もある。
 つまり問題のふたつめは、手続きが煩雑で困っている人ほど申請が難しいということだ。身分証明書もない、定住している部屋もない、当然ながら仕事もないという人に一番先に支給して社会復帰を援助しなければならないはずが、そういう人は申請もできない。国は困っている人を助けるよりも、大企業を助けようとする。
 
 緒形直人が演じた城之内は、先進国の生活保護費受給率5%に対して日本は1%だ、そんな国に生きていることを自覚しろと言う。つまり諦めろと言うのだ。受給率が低いのは自分たち窓口の職員が蛇口を絞っていることを棚に上げている。そのことは主人公の利根泰久も、カンちゃんこと円山幹子もその場で理解したはずだ。悪の一環を担っているのは窓口の職員たちなのである。
 という訳で、みっつめの問題は支給する職員と不正受給を防ぐ職員が同一であることだ。支給を担当する職員はどんどん支給する。不正受給を摘発するのは、警察にそういう部署を設ければいい。情報をデジタルで連携すれば難しくはないはずだ。現に暴力団員の不正受給は警察が取り締まっている。専門部署を設ければ捜査の範囲を広げることは可能だろう。そして囲い屋などには厳罰を下すように法改正もできるはずである。
 
 日本は外ヅラはいいのだが、本当に困っている人に手を差し伸べない冷たい国である。アベシンゾウが外国を回って60兆円もバラまいたのは有名だが、それだけあったらどれだけの生活困窮者が救われただろうか。アベのような政治家は大企業を優先し、大企業は政治家に寄付をする。中には大臣室で賄賂を受け取った大臣もいたが、バレると入院して、しばらくしたらほとぼりが冷めたとばかり国政に復帰してエラそうにしている。その男は岸田総裁の下では幹事長になるらしい。呆れて物が言えないが、そういう政治家を選んでいるのは国民自身である。
 
 作品としてはとてもよくできていて、現在と9年前を行き来するのもわかりやすく観られるし、過去と現在の比較から、瀬々監督のテーマのひとつである家族の絆の問題が自然と浮かび上がる。流石にロクヨンの監督である。すべての伏線がきれいに回収されて、スッキリとした映画になった。
 阿部寛の演じる笘篠刑事の喪失感と、他人を理解しようとしない林遣都の蓮田刑事の水と油のようなコンビが、それぞれの場面に異なった見え方を与えてくれて、作品に奥行きをもたらしていると思う。
 利根泰久を演じた佐藤健の寡黙な演技も秀逸。この人は今回のような割れたガラスのように悲しくて、ガラスの破片に凶暴さを秘めた複雑な役柄もいい。「億男」の悩める男や本作品と同じ瀬々監督の「8年越しの花嫁 奇跡の実話」の純朴で一途な青年もよかった。もう何でもできる俳優である。
 何でもできると言えば、これまでは女子高生か女子中学生の役が殆どだった清原果耶もそうである。まだ19歳だからこれからも女子高生の役を演じることがあると思うが、本作品では仕事のできる公務員の役だ。社会人を演じたのは初めて観たが、堂々たる演技だった。柔らかい表情から切羽詰まった余裕のない表情まで、幅広く使い分ける。歌がとてもうまいので、主題歌を歌ってほしかった気がする。桑田も悪くはないのだが、もう飽きた。
 
 最後に、重箱の隅をつつくようで恐縮だが、笘篠刑事が蓮田刑事に「だったら汚名を挽回しろ」と言う台詞が気になった。汚名は返上するもので、挽回するものではない。挽回するとしたら名誉の方だ。汚名を挽回するにはさらにヘマやドジや違法行為や倫理に反する行為を行なわなければならない。脚本が間違えたのか、阿部寛が間違えたのか。もし意図的だとしたら、当方にはこの台詞の真意が理解できない。言葉は大事だ。瀬々監督は哲学科の出身である。こういうところで躓いてほしくない。