三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「最後の決闘裁判」

2021年10月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「最後の決闘裁判」を観た。
 
 マット・デイモンが演じたジャン・ド・カルージュは、権威主義のお人好しである。名前に「ド」がついているから、貴族の出身であることがわかる。ボンボンなのだ。だからル・グリの人間性を洞察することができず、親友だと思っている。可愛さ余って憎さ百倍となる。百年戦争のさなかに生まれて戦闘が日常になっているから、生きていく頼みは自分の戦闘力だ。その戦闘力も、誰かに認めてもらわなければ生きる糧とはならない。認めるのは権威である。ジャンがすがろうとする権威は君主なのか、王なのか、それとも神なのか。意外な平等思想の持ち主で、大人の女は自分で決めることができると発言する。
 
 アダム・ドライバーの演じたジャック・ル・グリは好色で狡猾な策略家である。ジャン・ド・カルージュのことは、親友だという名目で体よく利用している。ル・グリの目的は性欲と食欲の充足を中心に、人生を楽しむことだ。そのためには君主にも取り入るし、乱交パーティにも積極的に参加する。斜に構えているから人生も軽く見る。権威主義のジャンも自分と同様に女を軽んじているだろうから、責められるのは自分ではなく妻のマルグリットだろうと高を括っている。そこにル・グリの誤算があった。
 
 マルグリットに権威は関係ない。頼るのは夫ジャンの権力である。夫を信じてはいるが、夫の権威主義が理解できない。つまり夫を尊敬してはおらず、愛してもいない。しかし大人の女は自分で決めるという発言で、夫が自分の自由を重んじてくれていることはわかった。女としてのプライドがあり、容易く誰とでも寝たりしないが、夫が女の歓びであるオルガスムスを与えてくれないことにやや不満がある。母となっては徹底してプラグマティストだ。裕福に不足なく生きていくことが望みである。
 
 三者三様の人生観の違いで、同じ出来事がどのように違って映るのか、本作品はそれを上手に描き出す。このあたりはマット・デイモンとベン・アフレックの脚本がとてもよくできていると思う。
 ル・グリから愚かだと思われていたジャンだが、ル・グリの奸計を目の当たりにすることで、信義や友情が必ずしも信頼性のあるものではないと悟る。妻が自分を愛していないことも同時に悟るが、もともと妻には跡継ぎを産むことだけを求めているのであり、愛は求めていなかった。ただ妻の人格を認めているのはこの時代にあっては画期的な夫の姿である。
 ジャンが頼ろうとした法だが、法を司る若い王は、残虐な快楽主義者である。ジャンはそのことも見抜いていたフシがある。王を信頼できなければ権威も信頼できない。権威のためにある家も名前も、もはや何の意味も持たない。自分の腕っぷしだけに賭ける以外の生き方がないのだ。虚しさに満ちたジャンの顔が悲惨であった。やはりマット・デイモンは素晴らしい役者である。