三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「草の響き」

2021年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「草の響き」を観た。
 
 奈緒はこのところ映画にテレビドラマに大活躍である。主演した映画は「ハルカの陶」と「みをつくし料理帖」で、まったく異なる役柄ながら、見事に演じきっている。今年(2021年)公開された映画「先生、私の隣に座っていただけませんか?」や「君は永遠にそいつらより若い」でも、重要な役どころを好演。いま最も勢いのある女優のひとりと言っていいと思う。
 心が壊れてしまった主人公を東出昌大が演じるのは、あまりにもぴったりきすぎている。演じた主人公の和雄の悩む表情が、不倫発覚時の記者会見のときとまったく同じ表情だった。最後まで妻の杏が許してくれると信じていたのだと思う。いくつになっても甘えん坊の男である。なんだか気の毒に思えてしまった。
 
 心が壊れてしまった男の妻の立場はとても辛い。夫の心が壊れた責任の一端は自分にあるように思えてしまうからだ。避妊をせずにセックスする夫。にもかかわらず妊娠を素直に喜べない夫。喜ぶ余裕がないから喜べないのであって、悪気がある訳ではない。それがわかっているから逆に辛い。その辛さを、奈緒が上手に演じる。今回も素晴らしい演技だった。
 辛い夫と辛い妻。苦しいだけの夫婦だ。実際の東出昌大が妻の杏に寄りかかっていたように、本作品でも夫の和雄は妻の純子に精神的に寄りかかっている。東出はよくこの作品に出演したものだと思う。現実とほぼ重なり合っている。
 和雄には妻に対する感謝の気持ちがない。努力を当然のことのように受け止められてしまうと、妻の努力が報われず、気持ちが宙に浮いてしまう。当たり前の対義語はありがとうである。ありがとうのひとつも言わない和雄に、純子はだんだん疲れてくる。人として尊重されていないと感じれば、愛はなくなる。人を人として尊重しない人はもはや尊敬できない。尊敬がなくなれば、同時に愛もなくなる。
 
 一方、友情はどうだろう。こちらも同じだ。一緒にいたり遊んだりすれば楽しい時期がある。しかし楽しさはいつまでも続かない。その時期を過ぎても一緒にいたいと思うのは、相手を尊敬する気持ちがあるからだ。弟子と師匠の関係と同じである。弟子は師匠を尊敬するからついていく。尊敬できない師匠についていく弟子はいない。友情は互いが弟子であり師匠である関係でなければならない。相互的に尊敬の関係でなければ続かないのだ。
 
 本作品はふたつの似たような関係を微妙に触れ合わせながら、人と人とのつながりの儚さと孤独を描く。他人の死を死ぬことができないように、他人の人生を生きることはできない。自分の死を死ぬ者は自分しかいないのだ。その覚悟ができている者とできていない者。最後は別れが待っている。
 人間関係はどんなに濃いように見えても、実はいつも希薄だ。そこを冷徹に描ききったのが本作品の真骨頂である。いい作品だと思う。

映画「メインストリーム」

2021年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「メインストリーム」を観た。
 
 観ていて不愉快な映画だが、何故か目が離せないまま、最後まで鑑賞した。どうして不愉快に感じたのか、どうして目が離せなかったのか、そのあたりを考えていきたい。
 SNSはその成立過程はどうあれ、いまや誰もが不特定多数に対して自分をアピールできる場となった。フェイスブック、ツイッターは主に文字と写真でアピールするから自己主張のツールとなり、インスタグラムやユーチューブは画像と動画だから主張に関わらず何でもアピールすることができる。
 SNS開発者たちはアピールの度合いがひと目で分かるように「いいね」クリックを発明した。「いいね」はフェイスブックではその数を増やし、いまは「いいね」「超いいね」「大切だね」「うけるね」「すごいね」「悲しいね」「ひどいね」と7種類もある。
 ユーチューブでは再生回数だ。これはテレビの視聴率に似ていて、数百人しか見ていなければ誰も見向きもしないが、数百万人、数千万人が見ているとなれば、テレビと同じようにスポンサーが付く。宣伝効果があれば企業は費用を惜しまない。動画をアップしている人の中には、一再生が0.1円などといった割合で金を受け取る人が出てくる。ユーチューバーの誕生である。
 
 テレビの視聴率と同様に再生回数だけが指標とされるから、コンテンツの内容は問わない。猫や犬の動画が多くの再生回数となることもあれば、ただ食事をしているだけの動画が再生回数を稼いでいることもあるらしい。短期間で沢山の「いいね」や再生回数を稼ぐことを「バズる」というらしい。なんとも下品な響きの言葉だが、最近の日本語に上品も下品もないのだろう。
 主人公リンクの目的はバズること。フォロワーに受ければ内容はなんでもいい。密かな性的欲望をくすぐったり、人間が心の底に隠している悪意をあぶり出したりすることでもいいのだ。そのあたりの節操の無さというか、思いやりや寛容の欠如が、本作品に感じた不愉快の本質である。
 
 聖書には「人を裁くな、自分が裁かれないためである」と書かれている(マタイ福音書第7章、ルカ福音書第6章)。しかしSNSでは沢山の人々が互いに裁き合っている。自分は匿名の陰に隠れて、見ず知らずの他人を批判し、非難し、否定し、攻撃する。攻撃された方は不特定多数から容赦なく攻撃される訳で、ひとつひとつのコメントを見てしまうと、場合によっては精神を病んでしまう。最悪の場合はプロレスラーの木村花のようになる訳だ。
 本作品はSNSが今後どのようになっていくのかを暗示する。リンクの主張する通り、SNSを否定する方向に社会が向かっていくかもしれない。しかしSNSを否定をすることをSNS上で行なうとなれば、それを矛盾だとする指摘に対して、何の反論もできない。やがてSNSから離れていく以外に道はなくなる。ネット上での匿名で間接的な関わり合いを捨てて、実名の直接的な関わり合いに戻っていくのだ。
 それでもSNSは情報源として生き続けるだろう。中にはTwitterのDappiというアカウントのように悪質な書き込みを請負業務として続けるような会社もある。しかし大多数は個人の発信であり、中には有用な情報や思想も見つけられる。我々の取捨選択能力がいよいよ試される時代になるのだ。これからは情報処理だけでなく、情報の断捨離が必要科目になるに違いない。
 とても不愉快だが、とてもよくできた映画だった。アンドリュー・ガーフィールドは流石の演技力である。メル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」で主演したときに匹敵する熱演だったと思う。マヤ・ホークという女優さんは初めて観たが、とても好演だったと思う。調べたらイーサン・ホークの娘らしい。頑張ってお父さんのような名優になってほしい。

映画「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」

2021年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」を観た。
 
 園子温ワールド全開ではあるが、やや頭でっかちになりすぎたきらいがある。本作品と同じく東日本大震災を扱った園監督の映画「希望の国」では、原発事故が起きた後、いかにして生きていけばいいのか、不安と恐怖の中での生活を現実的に日常的に描いていて、とても共感できた。しかし本作品は、被災者と原子力ムラを象徴的に描きすぎていて、観客は意味がわからず置いていかれてしまう。それを補完するために出演者が声を揃えて紙芝居で原発事故の経緯を説明する。これでは映画というよりも演劇である。実際に役者陣の発声の仕方もナチュラルさを欠いた演劇的な発声だった。
 主演のニコラス・ケイジはすっとぼけたような誠実さが持ち味だが、本作品では彼のよさをちっとも発揮できていなかった。演劇の舞台にニコラス・ケイジを立たせてもどうにもならない。演劇を映画でやろうとした園監督の意図や心意気は感じられるものの、映画としての完成度がどうしても低くなってしまうから、高い評価ができない。
 
 ただ、原子力ムラの人々に対する園監督の怒りの激しさだけは十分に伝わってくる。アベシンゾウとイシハラシンタロウをミックスさせたと思われるガバナーという人物が醜悪な俗物に描かれていて、そこだけは少しだけ笑えるが、実際の悪人たちはもっと複雑で、善人の仮面をかぶっている。本作品は人物が典型的すぎて、観客に響いてくるものがない。これでは映画としての意味をなさない。
 園子温監督とニコラス・ケイジという組み合わせに期待していただけに、肩透かしを食らった感じである。当方は最後まで鑑賞したが、他の観客の中には二人ほど、映画が始まって30分ほどで早々に席を立って帰ってしまった人がいた。やむを得ない気もする。